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亡国の姫とケーキの夢

異世界と現代日本を繋ぐ扉の向こう側で、今日も一人の来訪者が席に着きます。今回のゲストは、故郷を失った若き姫。彼女が胸に抱く亡国の記憶と、ショーケースの苺ショートケーキが紡ぐひとときの物語をお楽しみください。


セリア・アルシアが王城最後の夜を思い出すとき、炎の色はいつも眠れない夜の瞼の裏に鮮明だった。青金色に輝いていた塔は燃え、赤い火の粉が夜空へ舞った。侍女が叫ぶ声、父王が発した最後の命令、母王妃が抱きしめてくれた体温。それらは瞬く間に断ち切られ、彼女は暖炉の裏に隠された抜け道を走らされる。「泣くのは後にしなさい、セリア。生き延びて、もう一度光を灯すのよ」――母の囁きが、耳の奥でいつまでも響いていた。


森へ逃げ込んだ夜、足もとには王城から吹き散った灰が降り、月明かりは枝葉に阻まれて細い。冷たい風のなかで、彼女は自分の鼓動を数えながら息を殺した。手の中には、母から託されたジェイドの指輪と、厨房から持ち出した苺ジャムパン。甘い香りは祖国フェリアの記憶そのものだったが、飲み込んだ瞬間に込み上げたのは甘さではなく、守れなかった悔しさだった。


それからの旅は、地図にない道を進むような不安が続いた。王家の紋章を布で包み、名を問われれば「セリ」と名乗る。村の井戸端で手を洗っていれば皺だらけの老女がパンを分けてくれ、港町では陽気な船乗りが古い外套を押し付けてくれた。誰も彼女を姫だとは知らない。ただの放浪者として差し出される小さな親切が、心に残った氷を少しずつ溶かしていく。


そんな旅路の途中、行商人の焚き火で奇妙な噂を耳にした。「とある喫茶店には、扉ひとつ越えれば誰でも迷わず辿り着けるらしい」「そこでは見たこともない甘味が並び、どんな客でも一杯の飲み物で肩の力が抜けるんだとさ」。噂の真偽はわからない。けれど、もし本当にそんな場所があるのなら、いちどだけでも甘い匂いに包まれたい。セリアは胸の奥に小さな光を抱いて、噂にあった森の祠を目指した。


**


そして今、私はカウンター越しに、扉のベルを震わせながら入ってきた少女を見つめている。旅慣れた外套の隙間から、繊細な刺繍のドレスの裾がのぞく。髪は月光を浴びた銀、瞳は湖の底のように深い緑。肩に降ろした荷物の軽さとは裏腹に、背負ってきたものが重いのだとすぐにわかった。


「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」


少女は言葉を探すように辺りを見回し、ショーケースの前で立ち止まった。視線の先にあるのは苺のショートケーキ。エルフの学院生エリナが補充したばかりの、真っ白な生クリームに真紅が映えるあの一皿だ。


私はそっと湯を沸かしながら常連たちの様子を確かめる。商人ギルドのおじさんは新聞を広げ、近衛兵の青年は今日も真剣な表情でケーキと向き合っている。魔族の外交官はブラックコーヒーに砂糖を入れるかどうかで悩み、リュミエは緊張した手つきで水差しを運んでいる。扉の向こうからどんな客が来ても、この店の空気は変わらない。柔らかなジャズと、焙煎豆の香り。それが今の彼女に必要なものならいいのだが。


少女はようやく席に腰を下ろし、ぎこちなく手を挙げた。「この…苺のケーキを、ひとつ。それから、紅茶をお願いします」


声はかすれているのに、言葉の端々には育ちの良さが滲む。私は頷き、ショーケースから一番状態の良いケーキを慎重に取り出した。フォークを添え、温かい紅茶を準備する。いつも通りの作業なのに、背筋が自然と伸びる。


「お待たせしました」


皿を置いた瞬間、少女の目が大きく見開かれた。クリームの白さと苺の色彩が、失ったものを呼び戻したのだろう。フォークを手にしたまま固まっている。私は気づかれないようにカウンターへ戻り、他の客に目を配るふりをしながら様子をうかがった。


ひと口、少女はケーキを口に運んだ。途端に肩の力が抜け、まるで凍った泉が解けるように表情が崩れる。苺を噛むたび、瞳に光が戻っていく。次の瞬間、ぽろりと涙が落ちた。慌てて差し出した布巾を受け取る手は、まだ震えている。


「お口に合いましたか?」


問いかけると、少女は声にならないまま何度も頷いた。頬を伝う涙に、紅茶の湯気が溶けていく。隣席の商人のおじさんが気遣うようにミルクピッチャーを差し出し、エリナはそっとハーブの香り袋をテーブルに置いた。


「よかったら、深呼吸してみてください。ハーブの香り、落ち着きますよ」


少女は香りを吸い込み、少しだけ笑みを作った。「ありがとうございます」


**


ケーキを食べ進めるあいだ、少女は故郷の話をぽつりぽつりと語りはじめた。王都の夜祭で配られた苺の菓子、泉に映る城壁、幼い弟と駆け回った回廊。どれも過去形で語られるけれど、その表情には確かに温度が宿っている。


「戻りたいんです。本当は。でも、国も、家族も、全部…」


言葉の先は紅茶に溶けた。私はそれを遮らず、代わりにケーキの感想を尋ねる。


「苺は、王宮のものと比べてどうですか?」


少女は驚いたように笑みを浮かべる。「少し小ぶりです。でも…甘さは同じです。いえ、今はもっと甘く感じます」


常連たちも会話に加わった。近衛兵の青年は「ケーキに真剣なのは国境を越えても同じです」と真顔で頷き、商人のおじさんは「甘いものは心の在庫ですよ」と妙な比喩で笑わせる。魔族の外交官はブラックコーヒーを掲げ、「この店には、国を越えて通う価値がある」と静かに賛同した。


少女の頬に、ようやく柔らかな赤みが戻った。


**


ケーキを食べ終え、紅茶を飲み干した彼女は、膝の上でぎゅっと手を握りしめた。


「マスター。私、セリアと申します。いつか国を取り戻したい。でも今は、帰る場所もなくて…」


「セリアさん」


私は言葉を選ぶ。壮大な助言は要らない。ただ、一杯の飲み物で肩の力を抜きに来る人へ贈る言葉を。


「帰る場所は、焦って見つけるものではありませんよ。探している間は、ここで深呼吸していけばいい」


セリアはしっかりと頷き、丁寧に頭を下げた。会計を済ませると、扉のそばで立ち止まり、振り返る。


「また…苺を食べに来てもいいですか?」


「苺は季節で味が変わりますからね。確かめに来てください」


その言葉に、彼女は今度こそ笑った。扉のベルが鳴り、外気が暖かな店内に流れ込む。扉が閉まる瞬間、セリアは胸に手を当てて深く息を吸い込んだ。祠の向こうには、彼女が歩き続けてきた長い道がまだ続いている。それでも手のひらに残った甘い余韻が、次の一歩を照らしてくれるはずだ。


私はカウンターに戻り、ケーキケースを拭きながら思う。甘いものは失われた記憶を呼び覚ますけれど、同時に、新しい記憶も作る力を持っている。苺のショートケーキが守ったのは、亡国の姫の涙だけでなく、再び灯りをともそうとする意志だったのだと。


ジャズが次の曲へ移り変わる。エリナは新しいハーブティーのレシピをノートに記し、リュミエはセリアが座っていた席を丁寧に磨いている。常連たちはいつも通りのペースで午後の時間を過ごし、私は次の客を迎える準備を整えた。


扉の向こうで風が鳴る。いつかセリアが、今よりも軽やかな足取りで戻ってくる日を信じながら、私はショーケースに新しい苺を並べるのだった。


扉が完全に静まるのを待っていたかのように、エリナがカウンターの端から顔を覗かせた。


「マスター、セリアさん……泣いていましたけど、大丈夫でしょうか」


「泣けたなら、まだ大丈夫だよ。涙が出ないほど心が乾いていたら厄介だけどね」


エリナは胸を撫で下ろし、ハーブの瓶を抱え直す。傍らではリュミエが、先ほどセリアが使ったフォークを磨きながら小さく呟いた。


「お姫様なのに、手が荒れていました。旅って、あんなに大変なんですね」


「身分に関係なく、歩く道は足だけが知ってる。だからこそ、戻ってきたときに座れる席を空けておくのが僕たちの仕事さ」


リュミエは「はい」と力強く頷き、磨き終えたフォークをケースに戻した。その様子を見て、商人のおじさんが紅茶を飲み干しながら笑う。


「マスターの店があれば、世界はまだ捨てたもんじゃないねぇ。お代わりは、いつものブレンドで頼むよ」


私はポットに湯を足しながら、さっき渡しそびれた紙袋を思い出した。セリアが忘れていった、布で包まれた小さな手帳だ。扉を追いかけるには遅すぎたが、慌てる必要はない。彼女はきっとまた姿を見せる。忘れ物を理由にすれば、帰り道の不安も少し紛れるはずだ。


夕方近く、カウンターの隅に座っていた近衛兵の青年がショートケーキの皿を空にして席を立った。


「マスター。セリア殿のように、戦で居場所をなくした人は王都にも多い。自分にできることは、彼らが戻る場所を守ることだと、今日あらためて思いました」


「その決意があれば、甘いものを楽しむ資格も十分だね。次は季節のタルトに挑戦してみる?」


青年は一瞬むっとした顔をしたが、やがて真面目な表情に戻り、「検討します」と頭を下げて扉へ向かった。姿が消えると同時に、店内にゆったりとした静けさが戻る。


私はカウンターの下から古いアルバムを取り出す。以前、別の世界から訪れた旅人が置いていったポラロイド写真の束だ。その中には、笑顔でショートケーキを掲げる人々が何人も写っている。国も種族も違う。けれど、どの写真にも共通しているのは、甘いものを前にした安心の表情だった。


「マスター、明日の苺は森の露を使った魔法で下処理しましょうか?」


エリナの提案に、私は即座に首を振る。


「過ぎた魔法は味を迷わせる。苺は苺のままでいい。大事なのは、誰かがその味を必要としているってことだけさ」


「はいっ。じゃあ私は香り袋を少し作り置きしておきます。セリアさん、次に来たとき役立つかもしれませんから」


エリナが席を離れたあと、店に残っていた客たちも順に立ち上がった。開店から続く湯気と香りが徐々に薄れ、ガラスの向こうに夕暮れが沈んでゆく。


閉店間際、店の外で気配を感じてドアを開けると、小さな包みがそっと置かれていた。茶色の紙に、丁寧な筆跡で「お礼に。次の苺が実りますように」と書かれている。中には乾かしたフェリア産の苺のへたと、小さな種がいくつか。セリアが持ち歩いていた思い出の欠片だ。


私は包みを胸ポケットにしまい、明日の仕込みの段取りを頭の中で組み立てる。種はエリナに託そう。きっと、彼女なら香りを失わないように育てる方法を見つける。


再び店内へ戻ると、レコードの針が終端に達して静かなノイズを鳴らしていた。針を上げ、新しい盤をセットする。ゆっくりと流れ出すピアノの旋律が、今日一日の余韻を柔らかく包んだ。


苺のショートケーキは、ただ甘いだけの菓子じゃない。誰かの記憶を呼び覚まし、次の一歩を支える灯りだ。扉の向こうで世界がどれほど荒れていても、ここでは変わらずケーキを冷やし、カップを温めておけばいい。


セリアが再び扉を開けるとき、どんな顔をしているだろうか。今よりも強い光を瞳に宿していることを願いながら、私は最後の照明を落とし、静かな夜の喫茶店に「おやすみ」を告げた。


**


翌朝、開店の準備をしていると扉のベルが早くも鳴った。朝日に背を押された小さな影が、僕の足もとに丸まる。


「おはようございます、マスター」


ちょこんと座っていたのは、異世界側でときどき見かける配達用の小型ドラゴン。首には見覚えのある紋章入りのリボンが結ばれている。差し出された筒から手紙を取り出すと、上質な紙には流麗な筆跡で短い言葉が綴られていた。


『昨夜はありがとうございました。苺の種、大切に育ててください。必ずまた伺います。セリア』


封筒の端には、かすかな苺の香りが残っている。私は思わず笑い、ドラゴンの頭を撫でて干し葡萄を渡した。彼は満足げに鳴き声を上げ、肩をすり寄せてから空へ舞い上がった。


リュミエが厨房から顔を出す。


「今の子、セリアさんからの使いですか?」


「そうみたいだね。種は今日から温室で育てよう。エリナの魔法で土を馴染ませれば、きっといい香りが戻る」


エリナは二階の小部屋から駆け下りてきて、手紙を見て目を輝かせた。


「フェリアの苺……森の友だちに聞いたことがあります。香りが高くて、甘さの後に爽やかな余韻が残るって。芽吹くまでに歌を聴かせてあげるといいそうですよ」


「歌、ね」


私は笑い、スピーカーに手を伸ばす。今日の一曲目は、朝の光に似合う柔らかなボサノヴァにした。柔らかなギターの響きが店内を包むと、エリナは鼻歌を交えながら温室へ走っていく。


午前の客足が落ち着いた頃、商人ギルドのおじさんが新聞の隅を指差した。


「マスター、見てごらん。フェリア王国跡地で、各国が共同で避難民支援をはじめたって記事だ」


紙面には、小さな文字で新しい連絡会議の成立が書かれていた。主導したのは、辺境の小国――セリアが向かったと話していた場所に近い。


「あの子が動かした風かもしれませんね」


おじさんが目を細める。私は紅茶のポットを傾けながら、「そうであることを祈りましょう」と返した。たとえ偶然でも、誰かのがんばりが世界をそっと動かすことはある。セリアの軌跡が新しい支援の形を生んだのなら、とても素敵な連鎖だ。


午後、扉のベルがふたたび軽やかに鳴った。現れたのは旅装束の少年。背中には大きな荷物、胸元にはフェリアの紋章を象った小さなバッジ。


「セリア姉上の忘れ物を受け取りに来ました!」


元気いっぱいに名乗った少年は、セリアが語っていた弟だった。驚きで目を見開いていると、少年は懐から手紙を取り出す。


「姉上が、ここは絶対に立ち寄ったほうがいいって。苺ケーキが世界一なんだってさ!」


私は笑いを堪えきれず、そっと布で包んでおいた手帳を差し出した。


「預かっていたよ。姉上は元気かい?」


「はい!今は各地の避難所を回って、残った人たちと一緒にフェリアを支える準備をしてます。ぼくは伝令見習いです!」


胸を張る少年に、私はケーキケースを指差す。


「じゃあまずは、評判を確かめていくといい」


少年は目を輝かせて苺ショートケーキを選び、あっという間に頬張った。頬いっぱいの笑みが、セリアと同じ血を感じさせる。


「うまい!姉上の言ってた通りだ!」


少年は口元を拭いながら、真剣な顔になる。


「ぼくたち、絶対にフェリアを取り戻します。でも、姉上は復讐じゃなくて、誰もが休める場所を作りたいんだって。だからこの店、すっごく参考になるって言ってました」


その言葉に胸が温かくなる。私は彼の頭に手を置いて、少しだけ乱暴に撫でた。


「なら、伝えておいてくれ。苺が育つころ、また席を空けて待っていると」


少年は真剣に頷き、手帳を大事そうに抱えて店を飛び出していく。扉のベルが跳ねる音が、未来へ続く合図に聞こえた。


亡国の姫セリアが苺ショートケーキと出会う物語でした。彼女の記憶と新しい一歩が重なる瞬間を、いつもの喫茶店の視点から丁寧に描きました。苺の種が芽吹けば、再訪した時の彼女の表情もきっと変わるはずです。次のエピソードでは、フェリアの種がどんな香りを運んでくるのか、そして常連たちがどんな一杯を迎えるのかをお楽しみに。


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