吟遊詩人と夜のミニコンサート
異世界と現代日本を繋ぐ不思議な扉を持つ喫茶店。静かな夜、辺境の村から一人の吟遊詩人が訪れました。王都の祭りに向かう途中で立ち寄った彼は、疲れた体を癒すためにコーヒーを求めています。そして、お礼にと披露する彼の歌は、この小さな店に特別な一夜をもたらすのでした――
夜の八時を過ぎた喫茶店には、心地よい静寂が流れていた。
店内のスピーカーからは、いつものようにジャズのピアノが低く響いている。カウンター席では商人ギルドのおじさん――グレンが紅茶のカップを傾けながら、新聞に目を通していた。
「マスター、今日は静かだね」
「ええ、まあ」
俺は磨き上げたカップをラックに並べながら、そっけなく返事をした。
週末の夜だというのに、客はグレン一人だけ。異世界側の扉は相変わらず気まぐれで、今日は王都の裏通りではなく、どこか辺境の街道沿いに繋がっているらしい。そのせいか、常連客の姿もない。
「こういう静かな夜もいいものだ」
グレンはゆったりとした調子で言った。彼は話好きだが、決して賑やかさを求めるタイプではない。むしろ、こういう落ち着いた空気を楽しめる人だ。
俺もそう思う。賑やかな日も悪くはないが、こういう静かな夜は店主冥利に尽きる。
そう思った矢。
カラン、と扉のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
俺は自然に声をかけながら、入ってきた客に目を向けた。
そこには、旅装束の若い男が立っていた。年の頃は二十代半ば。栗色の髪を無造作に伸ばし、肩には弦楽器を背負っている。リュートだろうか。服装は汚れているわけではないが、長旅の疲労が滲んでいた。
「……ここは、お店ですか?」
男は店内を見回しながら、少し戸惑った様子で尋ねてきた。
――何だ、その質問は。明らかに喫茶店なのに。でも、辺境の村にはこういう店がないのかもしれないな。
「ええ、喫茶店です。どうぞ、お好きな席へ」
「ありがとう」
男はカウンター席に座った。グレンの二つ隣だ。リュートを壁に立てかけ、大きく息をついた。
「遠くから?」
俺が尋ねると、男は苦笑いを浮かべた。
「ああ、かなりね。この街道を三日も歩いてきたんだ。さっき辺境の村に着いて、ちょうど休憩できる場所を探していたら、路地の奥にこの扉を見つけてね」
辺境の村。やはり今日の扉は、王都からは遠く離れた場所に繋がっているようだ。
「それで、何をいただけますか?」
「コーヒーを一杯。あと……」
男はメニューを見て、少し困ったような顔をした。
「正直に言うと、持ち合わせがあまりなくて。歌で支払う、っていうのはダメかな?」
「歌で?」
「ああ。俺は吟遊詩人でね。歌うことしかできないんだ。もし気に入ってもらえたら、コーヒー代くらいには――」
「結構です」
俺は即座に断った。
この手の申し出には慣れている。善意でやっているのは分かるが、店の方針として金銭以外での支払いは受け付けていない。ただでさえ異世界の通貨を受け取っているのだ。これ以上ルールを崩すと収拾がつかなくなる。
「そうか……」
男は肩を落とした。
――まあ、でも。
俺は少し考えて、言葉を続けた。
「コーヒーだけなら、サービスしておきます。旅の疲れを癒してください」
「本当かい?」
男の顔が明るくなった。
「ただし、次に来店する時はちゃんと支払ってもらいますからね」
「もちろん! ありがとう、マスター」
俺はコーヒー豆を挽き始めた。深煎りのブレンド。疲労回復には少し強めのほうがいい。
横でグレンがニヤニヤしながら言った。
「マスター、優しいね」
「……別に」
俺は目を逸らした。
――ただの気まぐれだ。
***
コーヒーを淹れ、男の前に置く。
「どうぞ」
「ありがとう」
男は両手でカップを包み込み、一口飲んだ。
「……うまい」
その言葉には、心からの感動が込められていた。
「三日間、まともな休憩もせずに歩き続けたんだ。こんなにうまいコーヒーは久しぶりだよ」
「そうですか」
俺はそっけなく返したが、内心では少し嬉しかった。
グレンが興味深そうに男に話しかけた。
「吟遊詩人さん、どちらへ向かわれるんで?」
「ああ、王都の方角に向かってる。今度、王都で大きな祭りがあるって聞いてね。そこで歌を披露しようと思って」
「ほう、『星祭り』のことかな?」
「そうそう、それ!」
男は嬉しそうに頷いた。
「毎年恒例の祭りらしいね。吟遊詩人にとっては、腕を見せる絶好の機会なんだ」
「なるほどねえ。でも、ここから王都まではまだ二日はかかるよ」
「分かってる。だからこそ、ここで休憩できて助かったよ」
男はコーヒーを飲みながら、満足そうな表情を浮かべた。
俺はカウンターの奥で、グラスを磨きながら二人の会話を聞いていた。
――吟遊詩人、か。
この店にもいろんな客が来るが、吟遊詩人は初めてだ。楽器を背負った旅人というのは、どこかロマンがある。
「ねえ、マスター」
男が俺を振り返った。
「さっき、歌での支払いは断られたけど――単純に歌を聴いてくれるのはどうかな? お礼として、一曲披露させてほしい」
「……別に構いませんが」
「やった!」
男は嬉しそうにリュートを手に取った。
「じゃあ、一曲だけ。旅の途中で作った歌なんだけどね」
男――彼は自分を「ロラン」と名乗った――はリュートを抱え、弦をつま弾き始めた。
最初は静かな前奏。ジャズの音楽が流れる店内に、アコースティックな音色が重なる。不思議と違和感はなかった。
そして、ロランが歌い始めた。
遠き空の下、風は歌う
旅人よ、君はどこへ行く
星を追いかけ、夢を追いかけ
それでも道は続いていく
彼の声は澄んでいて、どこか懐かしい響きがあった。流れるようなメロディーは、疲れた心を優しく包み込む。
俺は手を止めて、その歌に聴き入っていた。
グレンも紅茶のカップを置き、目を閉じて聴いていた。
店内が、一瞬だけライブハウスのような空気に変わった。
道の先には何があるだろう
笑顔か、涙か、それとも――
その時だった。
「おおっ、いい声だ!」
グレンが突然、大きな声を上げた。
ロランの歌が一瞬途切れた。
「え?」
「いやあ、いい歌だね! もっと元気よく歌ってくれよ!」
グレンは満面の笑みで言った。
――おい、空気読め。
俺は心の中でツッコミを入れたが、グレンは止まらない。
「そうだ、こういう時は手拍子だ!」
パン、パン、パン。
グレンが軽快なリズムで手を叩き始めた。ただし、そのリズムは曲のテンポとは全く合っていない。
「え、ちょっと――」
ロランは困惑しながらも、何とか歌を続けようとした。しかし、グレンの手拍子とズレたリズムに引きずられ、だんだんとテンポが崩れていく。
「ほら、もっと盛り上げて!」
グレンは立ち上がり、今度は足でリズムを取り始めた。
ドン、ドン、ドン。
――やめろ、床が響く。
俺は眉間に手を当てた。
ロランはもう歌うのを諦めたようで、リュートを置いて苦笑いを浮かべた。
「あ、あはは……ありがとう、おじさん。すごく……盛り上がったね」
「いやあ、いい歌だったよ! もう一曲どうだ?」
「いや、ちょっと休憩させてくれ……」
ロランは疲労困憊の表情で、再びコーヒーに手を伸ばした。
俺は深くため息をついた。
「グレンさん、少し静かにしてもらえますか」
「ああ、悪い悪い。つい盛り上がっちゃってね」
グレンは悪びれることなく、再び席に座った。
――こういうところは、本当に空気が読めない人だ。
しかし、ロラン本人は笑っていた。
「まあ、でも久しぶりに楽しかったよ。普段は街の広場で歌うんだけど、こういう小さな場所で歌うのもいいもんだね」
「そうかい?」
「ああ。大勢の前で歌うのも好きだけど、こうやって少人数で――しかも反応がダイレクトに返ってくるのは、新鮮だ」
ロランはそう言って、また一口コーヒーを飲んだ。
そして、ふと何かを思いついたような顔をした。
「なあ、マスター。もう一曲だけ、歌わせてくれないか?」
「……どうぞ」
「今度は、もっと静かな曲にするよ。こういう夜に合うやつをね」
ロランは再びリュートを手に取った。
今度はグレンも黙って聴く姿勢を見せた。さすがに自分のやらかしに気づいたらしい。
ロランの指が、ゆっくりと弦を弾いた。
今度の曲は、先ほどよりもずっと静かで、優しいメロディーだった。
夜の静けさに、星が降る
小さな灯りが、道を照らす
誰かの笑顔、誰かの温もり
それが旅の、支えになる
この曲は、さっきのものとは違って、どこか祈りのような雰囲気があった。
俺は手を止めて、再び聴き入った。
グレンも静かに目を閉じていた。
ジャズの音楽は、いつの間にかフェードアウトしていた。店内には、ロランの歌声とリュートの音色だけが響いていた。
どんなに遠くても、どんなに孤独でも
君がいる場所が、誰かの灯りになる
その歌詞が、妙に胸に響いた。
――いい歌だ。
素直にそう思った。
ロランは最後の一音を奏で、静かに演奏を終えた。
数秒の静寂。
「……素晴らしかった」
グレンが静かに言った。今度は余計な茶々を入れることなく、心からの賞賛だった。
「ありがとう」
ロランは少し照れくさそうに笑った。
「この曲は、旅の途中で出会った人たちのことを思って作ったんだ。旅をしていると、色んな人に助けられるからね」
「君の歌は、きっと王都でも評判になるよ」
グレンは確信を持って言った。
「そうだといいんだけどね」
ロランはリュートを優しく撫でた。
俺は新しいコーヒーを淹れて、ロランの前に置いた。
「おかわりです。今度はサービスじゃありませんが」
「え? でも、持ち合わせが――」
「さっきの歌で十分です」
俺はそう言って、小さく笑った。
ロランは驚いた顔をして、それから嬉しそうに笑った。
「ありがとう、マスター。君もいい人だね」
「……そんなことはありません」
俺は目を逸らした。
――ただの気まぐれだ、本当に。
それから三十分ほど、ロランとグレンは旅の話で盛り上がった。
グレンは商人ギルドに所属しているだけあって、各地の情報に詳しい。ロランが次に訪れる予定の街についても、色々と教えていた。
「その街には『蒼月亭』っていう宿があるよ。宿主が音楽好きでね、吟遊詩人なら喜んで泊めてくれるはずだ」
「本当かい? それは助かるな」
「ああ、あの宿主は昔、自分も旅をしていたらしくてね。旅人には優しいんだ」
グレンはそう言って、紅茶を一口飲んだ。
「ロランさんは、吟遊詩人になってどれくらいになるんだい?」
「もう五年になるかな。最初は師匠について回っていたんだけど、三年前に独り立ちしてね」
ロランは懐かしそうに目を細めた。
「師匠は今、どこに?」
「北の大陸で活動しているらしい。たまに手紙をくれるんだけど、相変わらず元気そうでさ」
「いい師匠に恵まれたんだね」
「ああ。師匠からは歌だけじゃなく、旅の心構えも教わった。『どんな場所でも、感謝の心を忘れるな』ってね」
ロランはコーヒーカップを見つめながら、静かに言った。
「だから、今日みたいにマスターに親切にしてもらうと、本当に嬉しいんだ」
――いい師匠を持ったんだな。
俺は心の中でそう思いながら、カウンターでグラスを磨き続けた。
二人の会話を聞いていると、旅の世界の温かさが伝わってくる。
――こういう夜も、悪くない。
静かな夜に、ふらりと現れた旅人。
そして、その歌が店内に響く。
普段のこの店は、異世界の客で賑わっている。それはそれで楽しいが、今夜のような静かな夜もまた、特別なものだ。
やがて、ロランは席を立った。
「そろそろ行くよ。本当にありがとう、マスター」
「気をつけて」
「ああ。また王都に行く機会があったら、寄らせてもらうよ」
「その時は、ちゃんと支払ってくださいね」
「もちろん!」
ロランは笑って、店を出て行った。
カラン、とベルが鳴る。
扉の向こうには、夜の街道が広がっている。ロランの姿は、すぐに闇の中に消えていった。
「いい若者だったね」
グレンがしみじみと言った。
「ええ」
俺も頷いた。
「でも、グレンさん。次はもう少し空気を読んでください」
「あはは、悪かったよ」
グレンは笑いながら、紅茶のカップを傾けた。
俺はスピーカーのスイッチを入れ直した。再び、ジャズのピアノが店内に流れ始める。
――吟遊詩人、か。
ロランの歌声が、まだ耳に残っている。
あの歌は、きっと王都でも多くの人の心を掴むだろう。
そして、いつかまたこの店に戻ってきてくれるかもしれない。
その時は、また新しい歌を聴かせてくれるだろうか。
――楽しみだな。
俺は小さく笑って、磨き上げたグラスをラックに並べた。
夜の喫茶店は、再び静かな時間に戻っていく。
それでも、さっきまでここに響いていた歌声は、確かにこの場所に残っている。
壁に染み込んだ音楽のように、この店の一部として。
静かな夜に訪れた吟遊詩人ロランとの出会いは、この喫茶店にとって特別な一夜となりました。旅の疲れを癒すためにコーヒーを求めた彼は、お礼にと美しい歌を披露してくれました。そして、商人ギルドのグレンの空気を読まない合いの手が、思わぬコメディを生み出したのです。
この店は、いつも賑やかな異世界の客で溢れているわけではありません。時には、こうして静かな夜に一人の旅人が訪れ、心温まる交流が生まれることもあります。ロランの歌声は、店内に響いただけでなく、マスターやグレンの心にも深く残ったことでしょう。
音楽には、人の心を癒す不思議な力があります。そして、旅をする吟遊詩人たちは、その力を携えて世界中を巡っているのです。ロランがいつか王都での成功を収め、再びこの店を訪れる日が来ることを、マスターも密かに楽しみにしているのかもしれません。
次回予告:スライムたちのカフェ体験。奇妙な来客が店を訪れる。それは、複数のスライムたち。彼らはカップに分かれて入り、「味を共有する」という不思議な飲み方を披露する。マスターの洗い物は倍増し、心の声で愚痴ることに――




