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迷子の精霊犬とベリーソーダ

異世界と現代日本を繋ぐ不思議な扉を持つ喫茶店。ある日、扉の向こうから小さな爪音のようなものが聞こえた気がしたのに、鈴は鳴らないまま、店内の空気だけが先にざわつきました。迷子になった精霊の子犬は、光を失いかけたままカウンターの影にたどり着きます。弱った小さな命に、この店はどんな一杯を差し出せるのでしょうか――


最初に変わったのは、音ではなかった。


ジャズのテナー・サックスが流れているはずの店内で、スピーカーの網目の向こうに、別の「間」ができたような気がした。呼吸の一拍が、いつもより長く感じる午後だ。天気は晴れているのに、窓の外の舗道の明るさだけが、どこか遠い。


――今日は、扉が何かを探している日か。


そんなことを考えていた時、足元がひやりとした。


床に触れたのは、冷たい小さな鼻先だった。見れば、まだ子犬ほどの大きさしかない、半透明の体をした犬が、カウンターの脚に寄りかかっている。耳はふわりと光の粒をまとい、尻尾は細く震えていた。目は青白く濁り、輪郭が時々消えそうになる。


「……あ」


エリナが立ち上がり、椅子の脚を蹴ってしまうほど慌てた。


「精霊の子!? こんなに、薄くなって……」


商人ギルドのおじさんが紅茶のカップを置き、近衛兵の青年が腰の剣に手を伸ばしかけて止まる。リュミエはトレーを胸の前に抱えたまま、息を呑んだ。


「迷子、ですか。それとも、誰かの使い魔が……」


子犬は弱々しく唸り、それ以上の声を出せない。扉の鈴は鳴っていない。つまり、まだ「客としての手続き」より先に、店の敷居へ転がり込んできたのだ。


――扉は気まぐれだが、助けを求める順番まで気まぐれにするのは、さすがに意地が悪い。


私はカウンターを回り、子犬の前にしゃがみ込んだ。掌を差し出すと、鼻先が触れ、かすかな火花のような冷たさが伝わった。


「エリナ。これ、精霊の衰弱?」


「うん……。魔力の芯が、薄い。森の外に長くいた子とか、契約主から離れすぎた子に起きる。でも、こんなに小さいのに……」


エリナの指先に、淡い緑の光が灯る。光は子犬の毛並みに触れた瞬間、水に落ちた墨のように散ってしまう。


「自然魔法だけじゃ、足りない。体が『味』を欲しがってるみたい」


――味、か。甘酸っぱい系なら、舌の感覚を呼び覚ましやすい。炭酸なら、血流の気配まで騙せる。


私は立ち上がり、冷蔵庫からベリーのシロップと炭酸水を取り出した。試作で作っておいた、雑莓のブレンドだ。色は深い赤紫で、瓶を振ると果肉がゆっくり泳ぐ。


「ベリーソーダを淹れます。酸っぱさと甘さが同時に来て、舌が『ここにいる』と思い出す。炭酸は、体の奥まで小さな波を届けます」


「私、手伝います!」


エリナがカウンターに回ってきた。彼女の手つきはまだ不器用だが、グラスを選ぶ目は確かだ。


私は氷を入れ、シロップを注ぎ、炭酸で満たした。泡が立ち上り、ベリーの香りが店内に広がる。スプーンで軽く混ぜ、グラスの縁に冷やしたベリーを一粒、飾りとして乗せた。


「まずは一口だけ。飲ませすぎない」


「わかった」


エリナは子犬をそっと抱き上げた。子犬は軽い。いや、軽すぎて、抱きしめると腕の中で輪郭が薄くなる。


リュミエが小さな皿に、ベリーソーダをスプーンで一滴だけ掬った。子犬の舌が触れる。


ピチャ、と小さな音がした。


その瞬間、子犬の目が澄んだ。濁りの奥から、藍色の光が浮かび上がる。


「……きゃう」


声にならないほどの、かすかな吠え声。それでも、店内にはっきり届いた。


「効いた!?」


近衛兵の青年が身を乗り出す。商人ギルドのおじさんが、思わず拍手しそうになって手を止めた。


エリナは子犬に、もう一滴。今度は舌の上に直接、冷たい赤を落とす。子犬の胸元で、小さな光の輪が脈打った。


「もう少し……。私の魔法で、『森の朝露』みたいに重ねるね」


エリナは両手を子犬の背に添え、緑の光を細く絞って重ねていく。ベリーの酸味が舌に残る間だけ、魔力の糸が途切れないようにする――そんなイメージだろう。彼女の額に汗が浮かぶ。


私はグラスを半分まで注ぎ足し、ストローを短く切って渡した。


「飲める量まで来たら、自分で舐めさせてください」


「うん!」


子犬はストローを咥え、必死に吸った。喉が動く。毛並みに色が戻り、半透明だった四肢に、輪郭の線が濃くなる。


――いい顔だ。これで十分かと思った、のが間違いだった。


子犬の体が、一気に明るくなった。


「ちょ、ちょっと待って――」


エリナが声を上げた時には遅かった。子犬の全身から、柔らかな白光が溢れ、それはグラスの泡のように膨らみ、天井へ、壁へ、床のタイルの目地まで這っていく。店内が昼と夜を同時に見るような眩しさに包まれた。


「うわっ! 目が、目がッ!」


近衛兵の青年が両手で顔を覆う。


「これは任務中の眩しさじゃない! ちょっと魔法の防壁……いや、ナプキン!」


「ナプキンじゃ防げねえよ!」


おじさんが叫びながらも、テーブルの下に潜る動きは訓練されている。リュミエはトレーを盾にして、それでも笑いが漏れる。


「す、すごい……店内が、発光してます……!」


――守護精霊の回復光か。小さい体に、溜め込んでいた分まで一気に返したのか。俺の店が、灯台みたいだ。


カウンターのガラス瓶が一斉に輝き、ジャズの旋律さえ明るく聞こえる錯覚がした。氷のキューブが宝石みたいにきらめき、ショーケースの苺が「今より甘く見える」という錯覚まで誘う。


「エリナ、落ち着け。光の『向き』を地面に逃がせ」


「や、やります!」


エリナは子犬を床に下ろし、掌を木の床に押し当てた。緑の光が根のように広がり、白光を吸い込んでいく。店内の眩しさが、ゆっくりと蜂蜜を溶かすみたいに薄まっていった。


数分後、光は消え、残ったのは、いつもの喫茶店と、息を整える常連たちだけだった。


光が引いたあと、店内の影の形が、いつもより少しだけはっきり見えた。壁の時計の文字盤は、一瞬だけ白く染まったような気がしたが、針はちゃんと前へ進んでいた。


「……マスター、看板の金文字、光って見えませんでした?」


リュミエが窓の外を指す。商店街側の看板は、いつもと同じだ。幻覚だと思いたいが、埃の付き方が少しだけきれいになっている。


「精霊の爪が、借りただけだ。明日にはまた普通の埃に戻る」


私は言った。心の声では、床の木目も同じだと付け加える。艶は増したが、油でもワックスでもない。光が撫でた跡だ。


「……生きてる」


青年が顔を上げ、涙目で言った。


「いや、生きてたけども」


おじさんがテーブルから顔を出し、襟を正す。


子犬は、もう子犬だった。半透明ではなく、しっかりとした毛並みに、濡れたような黒の瞳。尻尾を振り、エリナの靴に鼻先をこすりつける。


「きゃう、きゃう!」


「よかった……本当に、よかった……」


エリナの目尻が下がった。リュミエがハンカチを差し出す。


子犬はカウンターを一回りし、商人ギルドのおじさんの靴にも挨拶し、近衛兵の青年の脚にも頭を押し付けた。青年は照れくさそうに頭を撫でる。


「迷子だったのか。……家は?」


子犬は小さく首を傾げ、それから扉の方を見た。扉の向こうに、遠くで誰かが呼ぶ声がしたような気がした。鈴はまだ鳴らない。だが、空気の匂いが一瞬だけ森に変わる。


「……迎えが来たみたいです」


エリナが呟いた。


子犬は最後に、私の靴の先にも鼻先を触れさせ、まるで礼のように一度だけ吠えた。そしてカウンターの上に、小さな光の粒を吐き出すように置いた。


掌大の欠片のようなそれは、すぐに固まり、ガラス細工みたいに透明になった。中に、細い星のような点が一つだけ浮かんでいる。


「これ、『守護の光』……小さなお守りみたいなものです」


エリナが息を呑んで言った。


「置いていくの? 私たちが、受け取っていいの?」


子犬は尻尾を振って肯定し、扉へ向かった。今度は鈴が鳴った。


チリリン。


開いた扉の向こうは、朝の森のような明るさだった。子犬は一度振り返り、もう一度だけ吠えて、駆け出していく。光の尾を引き、それが途切れると同時に、扉は静かに閉まった。


店内には、ジャズだけが残った。


「……なんだったんだ、今の」


青年が呟く。


「いい光だったよ」


おじさんが紅茶を手に取り、一口飲んだ。


「目は痛かったがな」


「すみません、マスター。床、光で焼けてませんか……」


リュミエが慌てて床を見る。焦げ目はない。むしろ木目が少しだけ艶を増した気がした。


「問題ない。むしろ床が喜んでる」


――精霊の光は、悪意を残さない。ただし、目は守れ。


私はカウンターに残された「守護の光」を、布で包み、レジ横の小さな箱に入れた。重みはほとんどない。だが、指先に触れると、かすかに温かい。


「ベリーソーダ、残りも飲みますか? 今度は人間用に」


「私、いただきます!」


エリナが手を挙げ、リュミエも頷いた。青年は「俺はミルク系で……いや、今日はベリーで」と自分で混乱し始めた。


おじさんが笑う。


「若いのは酸っぱいに挑戦しろ。年寄りは紅茶で十分だ」


――賑やかだ。さっきまでの「間」は、もうない。


私はベリーソーダをもう一杯、二杯と淹れた。泡がはじける音だけが、店内の空気を現実に戻していく。


子犬がいたカウンターの縁には、まだかすかに温かさが残っていた。リュミエがグラスを配り、エリナが「いただきます」と言って一口飲み、目を細めた。


「……甘いのに、先に酸っぱさが来ます。あの子の舌が、こう感じてたんだろうな」


「へえ、詩人みたいな言い方」


リュミエが吹き出す。近衛兵の青年はベリーソーダを恐る恐る口にし、頬をふくらませた。


「うわ、本当に酸っぱい。でも喉越しは、ちゃんと冷たい。……目の前にまだ白いのが残ってる気がするけど」


「残像だ。しばらくしたら治る。若いうちは光に弱い」


おじさんがからかうと、青年は真顔で頷いた。


「次は任務前にサングラス持参ってことか」


「王城の近衛が、店内でサングラスってどういう絵だ」


商人ギルドのおじさんが紅茶のカップを置き、試しにベリーソーダを一口だけもらう。目を細める。


「……若い。舌がまだ歩くのが早い」


「さっき『年寄りは紅茶で十分』って言ったの、誰ですか」


「口が悪い子だな、リュミエは」


笑いが戻る。カウンターの上の箱は、レジの影に小さく収まり、星だけがかすかに瞬いている。


――騒ぎのあとに、飲み物の味が正しく戻ってくるのは、悪くない。


エリナがグラスを両手で包み、残りのベリーを舌に乗せた。


「次に扉から迷子が来たら、まず水、次に味、それから魔法……順番、覚えました」


「その順番、店のレシピ表に書いとくか」


私が言うと、リュミエが素早くメモ用紙を取り出した。真面目すぎる。だが、真面目がこの店の床を支えている。


メモを終えたリュミエが「タイトルはどうします?」と聞く。私は「迷子の順番」と呟いて、自分で少し照れくさくなった。近衛兵の青年が、箱の方をちらりと見る。


「……あの欠片、鍛冶に出したら、鞘の飾りになるかもしれんな」


「近衛の頭が、そういう発想だと、国王が不安になる」


おじさんが茶化す。青年は鼻で笑った。


「国王は強い。不安なのは、俺の目の保険料だけだ」


エリナが小声で「ベリーのシロップ、明日も試作します?」と言う。私は頷く。半分残った瓶は、次の扉のための予備だ。


リュミエはメモに「タイトル:迷子の順番」と書き、鉛筆を転がして笑う。


「商品名みたいで、ちょっとかわいいです」


「かわいいは、次の騒動の予告だ」


私は言いながら、箱の位置を指で示した。レジの横、落ちない高さ。おじさんが頷く。


「触れないで売るのが、商人の作法じゃない。今日は、触れないで保管だな」


「箱のふた、開けるときは声かけてくださいね」


リュミエが真面目に言う。私は「了解」とだけ答えた。窓の外では、舗道に人が通り、普通の靴音が戻ってきた。


――メモに書くのは、順番の話。順番が守れれば、光は暴れにくい。箱は、売り物じゃなくて、迎えのあとに残った約束だ。


***


その日の閉店後、私は箱の中の欠片を眺めた。小さな星は、まだ中でゆっくり回っている。


――迷子の精霊犬が転がり込んできた。ベリーソーダとエリナの魔法で芯を取り戻した途端、店内が白光で満ち、常連の目を焼くほどの発光騒動になった。森の迎えが来て、子犬は去り、代わりに守護の光を置いていった。


――甘酸っぱいは、いつも正義とは限らない。たまに、眩しすぎる。


――この店には、色々な客が来る。鈴より先に入ってくる客にも、一杯と手順を用意できるなら、それで十分だ。扉は気まぐれだが、助けを求める声の大きさまで気まぐれにしないのが、俺の仕事だ。


私は豆を計り、明日の焙煎の準備をした。ジャズが静かに流れる。箱の中の星が、かすかに一瞬だけ明るくなったような気がした。


――明日も、新しい客がやってくるだろう。


それがどんな足取りであれ、どんな輪郭の薄さを抱えていようと、俺は変わらず接客を続ける。


――それが、この店の役割だから。


窓の外では、商店街の灯りがいつも通りに並んでいた。舗道の明るさは、もう遠くない。


今日もまた、この店で小さな物語が生まれている。


――今日も平和な一日だ。ベリーの瓶は、まだ半分残っている。


迷子になった精霊犬を、ベリーソーダとエリナの魔法で回復させる回を書きました。回復が過剰に出て店内が発光し、近衛兵の目が焼けるほどのコメディで騒動にしています。置き土産の「守護の光」は、後の回で触れる余地のある小さな伏線として残しました。


次回は、幻視の占い師とカフェモカの未来。飲んだ瞬間に未来視が暴走し、店内の小未来を見まくる騒動へ。お楽しみに。


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