影を失くした少年とホットココア
異世界と現代日本を繋ぐ不思議な扉を持つ喫茶店。ある日の夕方、扉が静かに開きました。そこから、一人の少年が入店してきます。その少年の足元には、異様な光景が広がっていました――影が、消えている。魔法で"影だけ盗まれた"少年に、この店は何を提供できるのでしょうか――
――夕方になると、この店の雰囲気は少し変わる。
私はカウンターの奥で、いつものようにポットを温めながら店内を見回す。午後の日差しが傾き始め、窓から差し込む光が、テーブルや椅子に長い影を落としている。店内には静かな空気が漂い、ジャズのBGMが静かに流れている。
――まあ、夕方は落ち着いた雰囲気になるな。常連客たちも、それぞれのペースで過ごしている。
窓際の席では、商人ギルドのおじさんが紅茶を飲みながら、新聞を広げている。その隣の席では、近衛兵の青年がショートケーキを真剣な顔で食べている。
――近衛兵の青年と商人ギルドのおじさんか。二人は、よく一緒に来店しているな。
カウンターの向こう側では、リュミエがハーブティーの調合を練習していた。エリナが優しくアドバイスをしながら、リュミエの手元を見守っている。
――リュミエも、エリナも、この店でしっかりと成長しているな。
私は満足げに頷き、ポットの温度を確認した。そんな平和な時間の中、突然扉が静かに開いた。
**
ガラガラガラ――
扉を開く音が、静かな店内に響いた。しかし、その音は、いつもの客が開ける音とは違っていた。まるで、誰かが慎重に、恐る恐る扉を開けたような、か細い音だった。
――扉の向こうから、誰かが来たのか?
扉の向こうを見ると、そこには王都の街並みが広がっていた。石畳の道が続き、遠くには城が見える。
一人の少年が、扉をゆっくりと開けながら、店内に入ってきた。十歳前後だろうか。背が低く、やせ細った体つきをしている。服は少し汚れていて、髪も乱れている。その顔には、深い疲労の色が浮かんでいる。
しかし、私が気づいたのは、それだけではなかった。
少年の足元を見ると、そこには影がない。店の床には、テーブルや椅子の影が、夕日の光で長く伸びている。しかし、少年の足元には、何もない。まるで、影だけが消えてしまったかのように。
――影がない?これは、異常だな。
「あの……大丈夫ですか?」
リュミエが、少年に気づいて声をかけた。その声には、心配の色が含まれている。
「……あの……ここは、噂の喫茶店ですか?」
少年の声は、か細く、震えていた。
「はい、そうです。どうぞ、お入りください」
リュミエが、優しく声をかけた。
少年は、恐る恐る店内に入ってきた。
「マスター、お客様が来られました」
リュミエが、私に声をかけた。
「ああ、分かった」
私は、カウンターから出て、少年の前に立った。
「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きな席へどうぞ」
「……ありがとう、ございます」
少年は、恐る恐る窓際の席に座った。その動作には、どこかぎこちなさがあった。
「お客様、何かお飲み物はいかがでしょうか?」
「……飲み物……か。でも、お金が……」
「大丈夫ですよ。まずは、何か温かいものを飲んでください。体が冷えているようですね」
リュミエの目は、優しく、少年を見守っていた。
「……ありがとう、ございます」
少年は、小さく頷いた。
「マスター、このお客様、影がないようですが……」
リュミエが、私に小さく声をかけた。
「ああ、気づいたか。確かに、影がないな」
「お客様、もしかして、影を失くされてしまったのですか?」
私が、直接尋ねた。
少年の目が、大きく見開かれた。
「……どうして、分かったんですか……?」
「足元を見れば、すぐに分かるよ」
少年は、自分の足元を見下ろした。そこには、やはり影がない。
「……そうです。僕の影が、消えてしまったんです。魔法で、影だけ盗まれてしまって……一週間前から、ある魔法使いに、影を盗まれてしまったんです。それ以来、影がないせいで、体のバランスが取れなくて……転んでばかりいるんです」
「そうですか。それは、本当に大変だな。でも、大丈夫だ。この店では、少しでも癒しを提供できるように、できる限り対応する」
「……ありがとう、ございます」
少年の目に、涙が浮かんでいた。
「では、まずは温かい飲み物を飲んでください。リュミエ、ホットココアを作ってくれないか」
「はい、分かりました」
リュミエは、すぐに作業を始めた。ココアパウダーを取り出し、ミルクを温め始めた。
「ホットココアですか?それは、どんな飲み物ですか?」
少年が、小さく尋ねた。
「ココアに温かいミルクを入れた飲み物です。甘くて、温かくて、体が温まりますよ」
「……甘くて、温かい……か。それは、いいですね」
少年の表情が、少しだけ和らいだ。
リュミエは、丁寧にホットココアを作っていた。その手つきは、以前よりもずっと滑らかになっていた。
「マスター、できました」
リュミエが、カップをトレイに載せて持ってきた。カップの上には、湯気が立ち昇っている。
「お待たせしました。ホットココアです。この店のウェイトレス、リュミエが、優しく温かく作りました」
「ありがとう、ございます」
少年は、カップを手に取った。その手は、少し震えている。
「温かい……」
「はい、温かくしてお出ししました。冷たい飲み物は、体に負担をかけるかもしれませんから」
「気が利く店だな」
少年は、カップを口元に運んだ。一口、静かに飲んだ。
その瞬間、少年の表情が変わった。
「……これは……甘い。そして、温かい。体が、じんわりと温まってくる……」
「それは、良かったです」
「いえ、良かっただけではない。この味は、僕の心を和ませてくれる。まるで、優しい手で包まれているような気がするんです」
少年は、ゆっくりとホットココアを飲み続けた。その表情は、次第に穏やかになっていった。
その時、私が気づいたことがあった。ホットココアの湯気に、何かが映っているように見えた。カップの上に立ち昇る湯気が、夕日の光に照らされて、ぼんやりと影のような形を浮かび上がらせていた。
「リュミエ、見てくれ。ホットココアの湯気に、何か映っていないか?」
リュミエが、カップの上をじっと見つめた。
「あれ……本当ですね。湯気に、影のようなものが映っています」
「エリナ、これを見てくれないか?」
エリナが、カウンターから出てきて、カップの上を見つめた。
「ああ、確かに影が映っているわ。これは、少年の影かもしれないわね」
「影が、戻ってくるかもしれない?」
「もしかしたら、そうかもしれないわ。湯気の中に影が映るということは、影がまだどこかに存在しているということよ。魔法で影を盗まれたとしても、完全に消えてしまったわけではないのかもしれないわね」
「エリナ、魔法で影を戻すことはできないか?」
「できるかもしれないわ。ただし、影を盗んだ魔法使いの魔法を解かなければならないけど。でも、この店の力と、温かい飲み物の力が合わされば、もしかしたら影を呼び戻すことができるかもしれないわ」
「では、試してみてもらえないか?」
「いいわ。リュミエちゃん、もう少しホットココアを作ってもらえる?湯気を多くして、影を呼び戻しやすくするためよ」
リュミエは、すぐに再びホットココアを作り始めた。今度は、湯気がより多く立ち昇るように、ミルクを熱めに温めた。
「お待たせしました。こちらも、温かく作りました」
リュミエが、新しいカップを少年の前に置いた。カップの上には、たっぷりの湯気が立ち昇っている。
エリナは、カップの上の湯気に向かって、両手を広げた。そして、優しく魔法の詠唱を始めた。
「影よ、湯気の中に映るその姿から、本来の場所へと戻りなさい。温かさと優しさに包まれて、失くした者を再びつなぎなさい」
エリナの手から、ほのかな光が放たれた。その光が、湯気の中に映る影のような形に触れると、影はゆっくりと動き始めた。
「……影が、動いている……?」
「ああ、影が戻ってきているわ。湯気の中に映る影が、少年の足元へと戻ってきているのよ」
湯気の中に映る影のような形が、ゆっくりとカップから離れ、少年の足元へと降りていった。
その瞬間、少年の足元に、ぼんやりとした影が現れた。
「……影が……戻ってきた……?」
少年が、自分の足元を見下ろした。そこには、確かに薄い影が映っていた。
「……本当だ……影が戻ってきた……!」
少年の目から、涙が溢れ出した。
「……ありがとう……ありがとう、ございます……!」
影は、次第に濃くなっていき、やがて普通の影のような濃さになった。少年の足元には、しっかりとした影が映るようになった。
「……本当に、影が戻ってきた……!一週間ぶりに、影が見える……!」
少年は、立ち上がって、自分の影を確認した。地面に映る影は、しっかりと少年の形を映していた。
「……これで、転ばなくなる……!体のバランスが取れるようになる……!」
「お客様、影が戻ってきて良かったです」
リュミエが、優しく声をかけた。
「……ありがとう、ございます……!本当に、ありがとう、ございます……!」
少年は、リュミエとエリナに、深く頭を下げた。
「こちらこそ、お役に立てて良かったです」
「はい、影が戻ってきて、本当に良かったわ」
少年は、再び席に座り、ホットココアを飲み始めた。今度は、涙を流しながら飲んでいる。
「……この味は、一生忘れられない……。温かくて、甘くて……そして、影を戻してくれた……。本当に、ありがとう、ございます……!」
少年は、ゆっくりとホットココアを飲み干した。その表情には、深い感謝の色が浮かんでいた。
「マスター、もう一杯いただけませんか?今度は、お金を支払います」
「構いませんよ。でも、無理に支払う必要はありません」
「いいえ、お願いします。この店で影を戻してもらったお礼として、必ず支払いたいんです」
「かしこまりました」
リュミエは、再びホットココアを作った。少年は、二杯目もゆっくりと味わいながら、しばらく店にいた。
「マスター、本当にありがとうございました。この店で影を戻してもらえたこと、一生忘れません。実は、僕には影を盗まれた大人の知り合いがいるんです。その人も、僕と同じように苦しんでいます。もし、その人もこの店に来ることができたら……」
「構いませんよ。いつでも来てください。この店では、どんな客でも、できる限り対応します」
「ありがとう、ございます。その人にも、この店のことを伝えます」
少年は、料金を支払い、立ち上がった。
「では、失礼します。また、来させていただきます」
「かしこまりました。お気をつけて」
「ありがとう、ございます。本当に、ありがとう、ございます……!」
少年は、深く頭を下げて、扉へと向かった。その足元には、しっかりとした影が映っていた。
チリリン。
扉が閉まった後、リュミエが小さく息を吐いた。
「良かったですね……影が戻ってきて」
「ああ、リュミエとエリナの協力で、影を戻すことができた」
「いえ、エリナさんが魔法を使ってくれたからです。私一人では、できませんでした」
「いいえ、リュミエちゃんの優しい心と、温かいホットココアが、影を呼び戻すきっかけを作ったのよ」
エリナが、優しく微笑んだ。
***
その日の夕方、いつものように店を開けた。
常連客たちが、それぞれの好みの飲み物を注文する。商人ギルドのおじさんが紅茶を飲みながら、新聞を読んでいる。近衛兵の青年も、いつものようにケーキを真剣な顔で食べている。
――今日も、平和な一日だ。
カウンターの上には、少年が使ったカップが並んでいる。そのカップを見るたびに、今日の出来事を思い出す。
――少年が、影を失くしていたな。そして、リュミエのホットココアとエリナの魔法で、影を戻すことができた。
――影を失くした大人の知り合いがいると言っていたな。その人も、きっと苦しんでいるのだろう。
――この店には、色々な客が来る。少年のように、魔法で何かを失くしてしまった客もいる。そんな客にも、少しでも癒しを提供できるなら、それだけで十分だ。
――でも、影を失くした大人の話を重ねて考えると、少し渋い余韻が残るな。大人になってから影を失くすということは、何か深い意味があるのかもしれない。子供の頃に失くすのとは、また違った苦しみがあるのだろう。
――影は、単に地面に映る黒い形だけではない。それは、自分自身の存在証明のようなものだ。影を失くすということは、自分自身の一部を失くすことと同じかもしれない。
――大人になってから影を失くすということは、きっと何か大きな出来事があったのだろう。もしかしたら、自分自身を見失ったのかもしれない。または、何かを諦めなければならなかったのかもしれない。
――そんな大人にも、この店で癒しを見つけることができるなら、それだけで十分だ。
私はコーヒーを一口飲み、満足げに微笑んだ。
――明日も、新しい客がやってくるだろう。
それがどんな客であれ、どんな好みであれ、俺は変わらず接客を続ける。
――それが、この店の役割だから。
店内には、ホットココアの甘い香りがまだ少し残っている。その香りを嗅ぐたびに、今日の出来事を思い出す。
――影を失くした少年か。また来てくれるといいな。そして、その大人の知り合いも、いつか来てくれるといいな。子供の頃に失くした影は、この店で戻すことができる。でも、大人になってから失くした影は、もっと複雑なものなのかもしれない。
今日もまた、この店で小さな物語が生まれている。
――今日も平和な一日だ。
魔法で"影だけ盗まれた"少年が訪れた出来事を通じて、リュミエとエリナの成長がさらに示されました。リュミエが優しく温かく作ったホットココアの湯気に映る影を、エリナの魔法で呼び戻すことができたという出来事は、この店が持つ癒しの力の一端を示しているかもしれません。
少年が涙を流しながらお礼を言う姿は、この物語の感動的な場面となりました。そして、マスターの締めのモノローグでは、影を失くした大人の話を重ねて、少し渋い余韻を残しています。大人になってから影を失くすということは、子供の頃とはまた違った苦しみがあるのかもしれません。そんな大人にも、この店で癒しを見つけることができる人々がいることは、この店を続けていく上での大きな励みになります。
次回は、商人ギルドおじさんの"禁断のダイエット"。医者に甘味禁止を言い渡されたおじさんが絶望して来店する。お楽しみに。




