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ホラー短編集

【夏のホラー2025】深夜のプール

テーマ「水」。今回は、ありふれた「プール」を舞台にした。水そのものが、何かだったら? という、シンプルなアイデアだ。

 俺、タクヤのささやかな贅沢は、バイト先のプールを独り占めすることだった。


 高級フィットネスクラブの、深夜警備のアルバイト。客もスタッフも全員帰った後、静まり返った施設を見回るだけの楽な仕事だ。そして、最大の魅力は、天窓から月の光が差し込む、あの美しい屋内プールを、閉館後の数時間、自由に使えることだった。


 塩素の匂いが微かに漂う、静寂に包まれた空間。水面に揺れる月光。水中に灯された青白いライトが、まるで異世界への入り口のように、ゆらゆらと輝いている。俺は、その水に身体を浮かべ、一日の疲れを洗い流すのが、何よりも好きだった。


 その日も、俺はいつものように、最後の見回りを終えると、プールへと向かった。完璧に静まり返った水面は、まるで鏡のようだ。俺は、その静寂を破るように、ゆっくりと水の中へ入った。


 ひんやりとした水が、火照った体を包む。ああ、最高だ。


 俺は、クロールで、プールの端から端まで、ゆっくりと泳ぎ始めた。水の抵抗が、心地よい。


 折り返しを過ぎたあたりで、それは起こった。


 左足のくるぶしを、何か、ぬるりとしたものが、撫でていったのだ。


「うおっ!?」


 俺は、思わず足をついた。水深は、胸のあたりだ。周囲を見回すが、当たり前だが、誰もいない。水面は、俺が立てた波紋以外、静かなままだ。


「……気のせいか」


 魚がいるわけでもない。水流の加減だろう。俺は、そう自分に言い聞かせ、再び泳ぎ始めた。


 だが、今度は、もっとはっきりと、その感触があった。


 指だ。五本の、冷たい指が、俺のふくらはぎを、一瞬、きゅっと掴んで、すぐに離れた。


 心臓が、跳ね上がった。全身に、鳥肌が立つ。俺は、パニックになりながら、必死でプールサイドへと泳ぎ着き、転がるように水から上がった。


 ぜえぜえと肩で息をしながら、プール全体を睨みつける。だが、そこにあるのは、相変わらず、静寂を湛えた、美しい水面だけだ。


 頭がおかしくなったのか? 疲れているのか?


 その日は、もうプールには入らず、震えながら朝を待った。


 数日が経ち、俺は、あれはきっと幻覚だったのだと、無理やり自分を納得させた。この楽なバイトと、最高の特権を手放したくなかったのだ。


 俺は、再び、深夜のプールにいた。


 恐る恐る水に入る。何も起きない。……やっぱり、気のせいだったんだ。


 安心した俺は、プールの中心で、大の字になって水面に浮かんだ。天井のガラス窓から、満月が見える。最高の気分だ。


 その、瞬間だった。


 全身が、動かなくなった。まるで、水全体が、粘度の高いゼリーにでもなったかのように、俺の身体を締め付け、押さえつけてくる。


「ぐっ……う、あ……!」


 声にならない悲鳴が漏れる。見えない力に、ゆっくりと、水の中へと引きずり込まれていく。もがけばもがくほど、水の拘束は、強くなっていく。


 死ぬ。


 そう思った時、ふと、拘束が緩んだ。俺は、最後の力を振り絞って、狂ったように手足を動かし、プールサイドにたどり着いた。


 もう、限界だった。俺は、この目で、正体を確かめなければ気が済まなかった。


 次の日、俺は、自分のスマホを、プール全体が見渡せる場所に設置した。録画ボタンを押し、覚悟を決めて、プールへと向かう。


 わざと、プールの真ん中で、水面から顔を出して、待った。


「来いよ……!」


 だが、何も起こらない。十分、二十分。俺の体は、冷え切ってしまった。


 馬鹿馬鹿しくなって、プールから上がろうとした、その時。


 再び、あの冷たい指が、俺の足首を、強く、強く、掴んだ。


 俺は、悲鳴を上げてそれを振り払い、プールから飛び出した。


 震える手で、スマホを手に取り、録画した映像を再生する。


 画面の中の俺が、プールの真ん中で、寂しそうに水面を漂っている。


 そして。


 俺の足元。水底から、何の予兆もなく、ゆらり、と、半透明の「腕」が伸びてきた。それは、水でできていた。水そのものが、意志を持ったかのように、人間の腕の形をとり、俺の足首を、掴んでいる。


 俺は、絶叫し、その場から逃げ出した。


 一ヶ月後。俺は、バイトを辞め、もう二度と、あのクラブには近づかなかった。


 ある日、古本屋で、この街の郷土史、という本を、偶然手に取った。パラパラとめくっていると、見覚えのある地名が目に留まった。あのフィットネスクラブが建っている場所だ。


 そこには、こう書かれていた。


『その土地は、かつて、共同墓地であった。戦後、原因不明の疫病で亡くなった、多くの身元不明者たちが、埋葬されている』


 まあ、よくある話だ。俺は、そう思って、ページをめくろうとした。だが、その次の、小さな脚注に、釘付けになった。


『……なお、当時の衛生観念から、伝染を防ぐため、遺体は土葬されなかった。特殊な薬品で溶解処理された後、その液体は、地下深くの貯水槽へと、流されたという記録が残っている』

プールサイドの、あの独特の静けさが、ちょっと怖くなっただろ。日常に潜む恐怖ってのが、一番ゾクゾクするんだよな。

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