1.家だった場所
太陽が昇り始めた頃、焼きたてのパンの匂いが、石造りの小さな家に満ちていた。燃えた薪の匂いと混ざり合って、夢の続きに誘われるように、甘く、暖かい。
「テト、起きなさい。パンが冷めちゃうわよ」
陽だまりのように優しい母の声が、毛布の中の少年を現世に呼び戻す。
少年はまだ覚めていない目を擦りながら、寝返り陽光を拒むように枕に顔をうずめる。
「...もうちょっと、だけ...」
毛布にくるまりながら甘えるように声を漏らす。
「いいのかー。お父さんが食べちゃうぞ!」
その一言に、テトの体はびくんと跳ね起き、少し急な階段を駆け降りる。
「ずるい!お父さんずるいよ!待ってー!」
狭くとも手入れの行き届いた食卓には湯気を立てるスープとパンが並んでいた。
椅子に座る父は、パンを齧りながら少年のような笑みを浮かべていた。
「遅いぞー。テトの分、俺のお腹に入っちゃうかもな!」
「ダメーっ!」
そう叫びながら椅子によじ登るテトに、母が苦笑しながら皿を置く。
「朝から元気すぎ。ほんと、あなたたちったら...」
母は呆れながらも、笑みが溢れていた。
小さな家を駆け巡るこの空気が、テトにとって家族のかたちだった。
父は鍛冶屋だった。
剣を打ち、鍬を直し、鎧に生きた火を宿す。
力強く金槌を振るう背中は、村の人々にとっても、もちろんテトにとっても頼もしい灯火だった。
「剣は人を守るためにあるんだ。忘れるな、テト」
火花のなかで語るその声は、どこか祈りのようだった。
「剣が怖く見えるなら、それはきっと、正しい手にないだけさ。お前がいつか、誰かを守れる剣を持てたらいいな」
「じゃあ、ボク、大きくなったらお父さんと一緒に鍛冶屋やる!」
「ははっ、頼もしいじゃないか」
母は薬草に詳しかった。
家庭菜園で育てた薬草を煎じたり、粉にしたり、何かと一緒に瓶に詰めたりして、時には村の人にも分け与えていた。
火鉢の上で湯気を立てる薬壺から、ぽこ、ぽこ、と小さな音がする。
その音を聞きながら、よく居眠りをした。
「あらあら、また居眠りしちゃって...」
そう言いながら母は毛布をかけてやる。
その毛布は、世界でいちばんやわらかかった。
そんな日々が、永遠に続くと、本気で思っていた。
ある夕暮れ、母と2人で手を繋いで帰る道すがら。
咲き乱れるカモミールの花を、母が一輪摘んで、テトの髪にそっと差した。
「よく似合ってるわ、テト。」
「えー、男の子に花なんて...」
「そんなことない。とっても可愛いわよ。」
くすくすと笑い合って家に帰る。
その晩、父は遅くまで工房で火を扱っていた。
「明日、隣街の衛兵団に新しい剣を納めるんだ」
「すごい!ボクも手伝ったもんね!」
「おうとも!胸を張れ、テト」
食器を片付けながら母がふと呟く。
「こういう日が、ずっと続けばいいのにね」
「うん。あしたも、あさっても、ずーーっと、こうだったらいいのに」
それは願いだった。
あるいは、呪いだったのかもしれない。
その”あした”は、二度と訪れなかった。
夜、皆が寝静まった頃。
悪意のある火の手が村を包んだ。
あの花の香りも、パンの匂いも、すべて風にさらわれていった。
そしてテトは知ることになる。
『平穏な日々』というものが、
どれほど儚く、どれほど容易く、壊れてしまうものかということを。