水月二
# 水月ニ
船内カジノのVIP室。
月光を背に、三つの影が向かい合っていた。
「商品の、価値は」
アジア系の男性が、ウィスキーグラスを傾ける。
「確かなものですね?」
ライスは答えない。代わりに、ブリーフケースから取り出した暗号化端末を、テーブルの上に置く。
「これが、証明になる」
画面に映し出されたのは、ATLAS システムの一部データ。それは完全なものではないが、システムの致命的な欠陥を示唆するには十分だった。
VIP室の監視カメラは、異常な角度で固定されている。通常のセキュリティプロトコルでは、説明のつかない死角。しかし、その死角にこそ、別の監視の目が潜んでいた。
「対象、データ展開を確認」
「買い手、身元特定」
「介入タイミング、計算中」
Type-15-NSTの制御システムが、最適な行動パターンを算出する。しかし、その計算過程に、微細な乱れが生じ始めていた。
船の制御室で、桐原のモニターが新たな異常を示す。
「これは」
彼女は、突如として現れた波形の乱れに目を凝らす。
「制御不能、じゃない。むしろ...」
22時15分。
取引は最終段階を迎えていた。
「支払いは」
ライスが言葉を切る前に、アジア系の男性がスマートフォンを取り出す。
「暗号通貨で。追跡不可能な形で」
その時、異変が始まった。
VIP室の照明が、不規則に明滅する。デジタル機器のディスプレイが、一斉にノイズを表示し始める。
「What's...」
ライスの声が途切れる。
漆黒の人影が、月光の中に浮かび上がる。その存在は、人の形を借りた闇そのものだった。しかし。
「制御異常、深刻化」
「動作効率、62%に低下」
「原因特定、不能」
Type-15-NSTの動きが、明らかに鈍っている。海上という特殊な環境か、あるいは―
桐原のモニターに、驚くべきデータが表示される。
「これは、共鳴」
彼女は、画面に映る波形パターンに見覚えがあった。
「まるで、標準機の時のような」
VIP室で、予想外の展開が始まっていた。
Type-15-NSTの動きの遅れを察知したライスが、非常口に向かって駆け出す。アジア系の男性は、既に姿を消していた。
「作戦変更、必須」
「予備プロトコル、起動」
漆黒の人影が、明滅する照明の中で揺らめく。その動きは、プログラムされた効率からは明らかに逸脱していた。しかし、それは単なる機能低下ではない。
「別の意思が」
桐原が呟く。
「介入している?」
23時。
船は瀬戸内海の最深部を進んでいた。
データ取引は失敗に終わったが、事態は想定外の方向に動き始めていた。
Type-15-NSTの制御異常は、もはや無視できないレベルに達している。
そして、その「異常」の本質を、誰よりも理解している者がいた。
桐原は、密かにデータの記録を続けていた。
月の光が水面に映る夜。
機械の中の「意思」が、静かに目覚めようとしていた。