水月一
# 水月一
瀬戸内海の夜は、デジタルノイズに満ちていた。
豪華客船「オーロラ・ドリーム」の通信制御室で、桐原澪は船内ネットワークの異常な振る舞いを観察していた。閉鎖環境での電磁波の反響。GUARDIANシステムの限定的な接続。そして、説明のつかない信号の乱れ。
「予想以上ね」
彼女は、モニターに映る波形を見つめる。
「海上での干渉パターンが」
20時15分。
最上階デッキのVIPラウンジ。
「ようこそ、ライスさん」
イベントコーディネーターを名乗る女性が、紳士的な雰囲気を纏った男性に深々と頭を下げる。
「特別な夜をお過ごしください」
ヴィクター・ライス。表向きは国際的なサイバーセキュリティコンサルタント。しかし、彼が持ち込んだブリーフケースの中身は、その肩書きからは想像もつかない価値を持っていた。
船内の監視カメラが、彼の動きを捉える。しかし、その映像データは標準的なプロトコルでは処理されない。別の存在が、影のように彼の動きを追跡していた。
「対象、確認」
「行動パターン、記録」
「接触予定者、探索中」
Type-15-NSTの活動は、海上という特殊な環境での制約を受けていた。限られた移動経路。狭い船内空間。そして、予期せぬ揺れや振動。
「異常値、検知」
制御システムが、微細な乱れを報告する。
それは、陸上では発生しなかった種類の干渉だった。
桐原の端末に、暗号化されたデータが流れ込む。
「制御効率、低下」
「原因特定、試行中」
「対応プロトコル、再構築」
彼女は、そのデータに見覚えがあった。かつて、標準機が示した特異な反応パターン。しかし、今それを詳しく分析している時間はない。
21時。
船は広島港を離れ、瀬戸内海の闇の中へと滑り出していく。
ライスは、ラウンジの窓際に立っていた。街の明かりが、水面に揺らめく月の光と混ざり合う。彼のブリーフケースには、ATLAS システムの重大な脆弱性に関する情報が収められている。それは、正しい買い手の手に渡れば、莫大な価値を持つ。
「準備、完了」
「作戦開始、待機」
漆黒の人影が、船内の影に潜む。しかし、その動きは通常よりも遅い。まるで、何かが制御システムの判断を鈍らせているかのように。
桐原は、新たなデータの記録を開始する。
「波形の変調が」
彼女は、モニターに映る異常な数値に目を細める。
「まるで、彼女の時のよう」
月光の下で、見えない意思が蠢きはじめていた。
そして、歪んだ水面が、その夜の運命を映し出そうとしていた。