蛍火二
# 蛍火二
深夜零時七分。
地下鉄工事現場事務所のモニターが、青白い光を放っていた。
「作業記録、調整開始」
キーボードを叩く音が、狭い室内に響く。工事現場のシステム管理者を名乗る人物―その指の動きは、標準的な入力パターンからは明らかに逸脱していた。画面には、工事記録の書き換えを示すコマンドラインが次々と流れていく。
現場の作業員数を一名追加。
担当区域をT-7に設定。
作業内容は通常の保守点検。
そして、事故報告の下書きデータ。
「突発性の酸欠による意識障害、か」
低い声が、闇に溶ける。
地下通路では、もう一つの作業が進行していた。漆黒の人影が、北条瑞穂の遺体に向き合っている。Type-15-NSTの作業は、通常、完璧な効率で実行される。
しかし。
「制御異常、検知」
「運動制御プロトコル、一時停止」
「原因特定、不能」
遺体に触れた瞬間、機体の動きが微かに止まる。0.05秒の制御不能。それは、システムログには記録されない異常だった。
市警本部通信指令室では、別の作業が進められていた。
T-7区域の通報をブロックするフィルターが、静かに起動する。
「異常なし」
「定期巡回、継続」
「通常の夜間状態」
淡々とした通信記録が、膨大なデータの海に流れ込んでいく。それらは、すべて標準的な夜間巡回のログとして処理される。誰も、これらの記録に疑問を持つことはない。
一時十五分。
工事現場事務所に、新たな人影が現れる。
「解析結果です」
情報科学研究所の桐原澪が、データパッドを差し出す。
「事故原因の技術的な説明として」
システム管理者は、無言でそれを受け取る。パッドには、酸素濃度の変動グラフと、通気システムの一時的な不具合に関する詳細な分析が記されていた。完璧な事故のシナリオ。
しかし、桐原の個人端末には、別のデータが記録されていた。Type-15-NSTの制御異常を示す波形。そして、GUARDIAN システムが捉えた説明のつかない温度変動の記録。
「これで」
システム管理者が言葉を切る。
「すべて、終わりました」
だが、本当に終わったのは、表層の作業だけだった。
地下空間の最深部では、まだ別の作業が続いていた。漆黒の人影は、北条議員から得たデータの解析を実行している。オリンピック関連施設の設計図。そこには、単なる図面以上の情報が含まれていた。
「データ解析、完了」
「潜在的脅威、特定」
「次期目標、確定」
Type-15-NSTの判断は、冷徹な論理に基づいていた。しかし、その判断プロセスの中に、微細な揺らぎが生じている。まるで、何者かが内部で判断を疑問視しているかのように。
「解析結果、送信」
暗号化された情報が、闇の中に消えていく。それは、この夜の出来事が、より大きな計画の一部であることを示していた。
二時。
すべての作業が完了し、地下空間は再び静寂に包まれる。
翌朝の新聞は、地下鉄工事現場での不慮の事故を、小さな記事として報じることになる。北条瑞穂市議会議員の訃報は、まもなく政治的な動きの中に埋もれていくだろう。
しかし、桐原澪の研究データの中に、ある波形が記録として残される。
「制御異常の頻度が、増加している」
その意味するところを、彼女は誰にも語らなかった。