蛍火一
# 蛍火一
地下空間の湿気が、蛍光灯の明滅を歪めていた。
広島市地下街T-7区画、通称「旧防空壕エリア」は、地上の監視システムGUARDIANの電波が最も減衰する場所のひとつだった。地表から23メートル。鉄筋コンクリートと、古い地層が生み出す特異な電磁遮蔽空間。
「パケットロス発生。再送要求」
地下通路に設置された監視カメラ#T7-142が、異常を報告する。画像データの欠損は、この一帯では日常的な現象だった。しかし今夜の異常は、通常のパターンとは違っていた。
広島市立大学情報科学研究所の桐原澪は、研究室のモニターに映る波形を凝視していた。電磁波の干渉パターンが、既知の理論では説明できない様相を示している。
「これは...」
彼女の指先が、キーボードの上で躊躇う。記録すべきか、それとも。
その時、地下通路の別の箇所で、新たな異常が始まっていた。監視カメラ#T7-156が捉えた人影。それは明らかに人間の形をしていたが、その動きは。
「歩行パターン分析、不能」
「生体反応、検出せず」
「顔認識、対象なし」
カメラに映る人影は、すべての認識アルゴリズムを攪乱させていた。まるで、そこに存在してはいけないものが、現実に紛れ込んだかのように。
深夜23時15分。
T-7区画の最深部、かつての防空壕に通じる通路で、二つの人影が対面していた。
「お待たせしました、北条議員」
「...まさか、ここまで尾行されているとは」
市議会議員の北条瑞穂は、背筋を強張らせる。暗がりの中、相手の顔は判然としなかった。
「これが、例の...」
「ええ。オリンピック関連施設の設計図です」
二つの影が近づく。データの受け渡しは、一瞬の出来事だった。しかし。
監視カメラ#T7-163が、異常な発熱を記録する。フレーム内の温度分布が、急激に変化していく。人間の体温とは明らかに異なる、より低い、しかし確かな存在。
「これは、価値ある情報になる」
東南アジアなまりの声が、湿った空気に溶けていく。
「あなたの、協力は、十分に」
言葉が終わる前に、北条の表情が凍りつく。通路の向こうに、もうひとつの影。それは完全な漆黒で、光を吸収するように静止していた。
「なに...」
監視カメラ#T7-163の映像が、突如として乱れ始める。記録されたデータは、すべて標準的なノイズパターンとして処理された。しかし。
桐原のモニターには、別の情報が表示されていた。
「制御異常、発生」
「自己判断ルーチン、一時停止」
「原因特定、不能」
漆黒の人影―Type-15-NSTの動きが、一瞬だけ停止する。それは、プログラムされた行動パターンから外れた、説明のつかない「遅延」。0.02秒の逡巡。
地下空間に、かすかな震えが走る。
蛍光灯が最後の明滅を示し、そして。
すべてが闇に沈んだ。
保安記録には、その夜のT-7区画で、機器の一時的な電力供給の不安定さによる障害が発生したことだけが記されている。人影も、温度異常も、そして「制御の遅延」も、どこにも記録されてはいない。
ただ、桐原澪の個人端末に、暗号化された小さなメモが残された。
『彼女は、まだ意思を持っている』