3.巫女と悪鬼 ―1
ぱちり、と何か小さなものが爆ぜる音が耳を掠める。
墨を垂らした硯に筆を浸し、麻紙に文言の続きを記そうとしていた千景は、その手を止めて視線をわずかに上向けた。
見れば、くるくると宙に螺旋を描きながら、書卓に何か半透明のものが落下する。そこで千景は、先ほどから行灯の周囲を羽虫が飛び回っていたことに思い当たった。
長い冬は終わりを告げ、都はじきに春の陽気に覆われる。
羽虫は細かな手足をばたつかせ、書卓の上をもがいていたが、まもなくぱたりと動かなくなった。この羽虫もまた、春を待ち侘びていただろうに。だが、何かの拍子に、千景の身に触れてしまったその時が、運の尽きだった。
千景に直接触れた命ある者は、皆。
雷に焼かれて怪我をするか、ひどければ死に至ることになるのだから。
ふと脳裏をよぎるのは、過去の光景。
今しがた絶命した羽虫と同じように、思いがけず雷光を浴び、苦悶する人々の顔だった。
皆、つまらぬ嗜虐心を起こして千景に触れたばかりに、災難に遭った者達だ。過去の記憶から顔を覗かせた彼らに対し、千景は内心で嘲り、冷笑する。ただ、遠目に忌んでいればよかったものを。愚かな、と。
そうして息を一つつき、書卓から羽虫の死骸を払いのけようと手をやって、
「きゃあああああっ!」
悲鳴とともに、水飛沫が地面に飛散する音がすぐ外から聞こえたのは、ちょうどその時。
千景はつと、外と室内とを隔てる障子戸へと目を遣った。
若い娘の、甲高い悲鳴。
声の主に心当たりはない。
しばらくの間、考えた。
直接に手を下してやらねばならないような、厄介な気配は感じない。
おそらく、間抜けな盗人がへまをして転んだかしたのだろう。
だが、よりにもよって、千景の住居を標的に選ぶとは、よほどの恐いもの知らずか愚か者か。池に落ちた時点で後者であろうことは、容易に想像がついた。
やがて千景は結論づけた。
放っておけばいい。
どれほど阿呆であっても、ここまで派手に存在を示しておいて、まだなお盗みを働こうとするような盗人がいるとは思えない。
そうして千景は浮かしかけた腰を戻し、池の音が静まるのを待つことにして――
*
苦しい。冷たい。
息が、できない。
真幌は氷のように冷え切った水中で、沈むまいと必死にもがいていた。
不注意で落ちてしまった池は、思ったよりもずっと深く、そしてずっと冷たかった。水面に顔を突き出し、どうにか息継ぎをしようと試みるが、頭はすぐに水面下に沈んでしまう。
池の水は徐々に、しかし確実に真幌の体温を奪っていった。かじかんだ手足は次第に動かなくなり、意識さえ朦朧としてくる。
(だめ……、です)
ここで気を失ってはいけない。
しかし、そう思うのとは裏腹に、視界はどんどん黒く塗りつぶされていく。
(私……)
私は、こんなところで死ぬのだろうか。
そう絶望しかけた瞬間、真幌の耳の奥によみがえったのは和音と琴杷の声だった。
二人とも、都へ旅立つ真幌に向けて、あれほど念を押していたではないか。
余計なことは考えなくていい。
とにかく、行って帰ることだけに集中しなさい、と。
(和音、さん……琴杷さん……)
ごめんなさい。
私、もう帰れないかもしれない――
心の中で謝罪の言葉を繰り返す。
まさか、池に落ちて命の危機に陥る羽目になるだなんて思いもしなかった。あぁ、さっき、今年も織戸山で春を迎えたいと願ったばかりだったのに。
本当に、ごめんなさい――もうこれで何度目になるか、決して届くことのない謝罪をした時だった。
「盗みに入る家を見誤ったな。その様子では天罰が下ったようで何よりだ」
それは呆れや哀れみといった段階を通り越し、心底からの軽蔑のこもった声だった。
池の水面よりはるか高みから発せられるその声は、紛れもなく、この家の主のもので。
「たすっ――」
助けて。
真幌はたまらずそう叫ぼうとした。
しかし、すかさず口内に水が浸入し、声はごぽりと音を立てて泡となってしまう。
とはいえ、真幌の決死の訴えは、充分に千景に伝わったらしい。
相も変わらず嘲るように、彼はゆったり問いかけてくる。
「ほう。娘、助けてほしいか? だが俺は慈善家でも、盗人をただで見逃すような善人でもないからな。相応の礼を返せるというのなら救ってやらないこともないが」
「…………!」
無理に息継ぎをしようとしたせいか、水は塊となって口に入り込み、喉の奥を押し開きながら侵入してくる。視界は激しく明滅し、ぼやけて見えていた家主の姿さえ見失ってしまいそうになった。
限界。
その二文字が頭の中を駆け巡り、真幌の意識はついに闇に塗り込められていく。
そうして、弱々しい咳を一つしたきり、真幌は水底に沈みかけて――
泡立つ水面越しに、不愉快そうな舌打ちが降ってきたのは、その時だった。
「……死体の処理が面倒だ。他人の家の池で死ぬな、阿呆が」
まもなくそばで飛沫が上がったかと思うと、何か大きな力が、真幌を水底から空気のあるところへと引っ張り上げた。
ようやく水中から逃れた真幌は、たまらなくなって咳き込んでいたが、ややあって自分が池の中、水底に足をつけて立つことができているのに気づく。
「……あれ?」
深くない。
というより、浅い。
腰のあたりまでしかない水深に真幌が呆然としていると、真横で波の立つ音が聞こえた。はっとしてそちらに目を向けると、今まさに、千景が池から地面へと上がるところである。
とにかくお礼と、それから謝罪を――そうして息を吸い込みかけた真幌が、思いがけず怯んでしまったほどには、その顔は大層な不機嫌を示していた。
「あ……あの、えっと、その、これは」
真幌は震え上がりながらも必死に口をぱくぱくさせたが、混乱のあまりか、言葉をうまく紡ぐことができない。
「……盗人」
「はいっ」
そもそも盗人ではない。
いや、誤解を解く前に、まずはお礼と謝罪をしなければならないというのに。その低い声に滲む怒気と気迫に、真幌はぴしっと背筋を正し、つい歯切れよく返事をしてしまう。
そんな真幌の有様に、気を削がれたのだろうか。
千景は嘆息を零し、真幌に背を向けた。
「命が惜しいなら、今すぐに失せろ。その鳥頭に雷が落ちる前にな」
「ひっ」
この場合、雷が落ちるというのは比喩表現でも何でもないのだろう。彼はそれを実行するだけの力を有しているのだから。
言われた通りに逃げ帰った方がよいのではと一瞬頭をよぎったが、それでも真幌は、ここに来た目的を忘れてはいなかった。
真幌は急いで池から飛び出すと、さっさと縁側の方へと歩いていく千景のもとへと駆け出した。
ここでめげてしまってはだめだ。
そう、自分を奮い立たせて。
「ま、待ってください!」
指先はすっかりかじかんで、感覚が失われていた。
それでも必死に手を伸ばし――
真幌の手は、千景の手をしっかりと掴んで引き止めた。
「はぁ、はぁ……待って……、わ……私、は」
息が上がり、寒さで歯の根が震えるせいで、いつものように話せない。
真幌は空いた方の手で膝を押さえ、肩でぜいぜい荒い呼吸を繰り返していた。
だから、気づかなかったのだ。
真幌と、そして真幌にしっかりと捕まえられた手を、千景が食い入るように見つめていたことに。
「貴様、なぜ……」
「ああ、あ、あの、私は、ここに……ぬ、ぬすっ、盗みに来た、わけでは……、っくしゅん!」
冷えた水を被った身体に、夕暮れ時の外気はあまりに寒すぎた。
全身の肌が粟立ち、鼻の奥がむずむずし始める。
(うぅ、どうしたら……こんな時に、くしゃみが止まらなくなるなんて!)
まさに、踏んだり蹴ったりだ。
これでは、礼を述べることも申し開きを行うことも不可能である。
「っくしゅん、ぃっくしゅん! 千景さ……くしゅっ」
頭上に深いため息が降ってきたのは、その時だった。
「もういい。耳障りだ、話すな」
この上ないほどの侮蔑が表れた声。
真幌は、絶望した。
観念し、両手で頭を抱え、目を瞑って来たるべき衝撃に備える。
あぁ、やっぱり私は、ここで死ぬのだ。
昨晩の神官の言葉に、もっと耳を傾けていれば――
「…………?」
そろそろ脳天を雷が貫いてもおかしくない頃合いだった。
しかし、予想していたような痛みも爆音も、一向に襲いかかってはこない。
明らかに、おかしい。
そう思ってこわごわと目を開き、顔を上げると、
「貴様、そこで何をしている?」
「へっ?」
すでに目の前に千景の姿はなかった。彼はすでに真幌から離れて濡れ縁に上がっており、障子戸に手をかけている。
そしてぽかんと口を開ける真幌に、次の瞬間かけられたのは、思いもしなかった言葉だった。
「……さっさと上がって火に当たれ。どうやら貴様にも、貴様なりの言い分があるらしいからな」