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2.邂逅 ―3


 翌日の朝。


 蒼穹から降り注いできた陽光に、宿を出た真幌はたまらず歓声を上げていた。両手を広げ、大きく伸びをする。路地を吹き抜ける爽風に巫女装束の緋色の裾が(ひるがえ)る、そのはたはたという音が耳に心地よい。


「ふふっ……今日は、とてもいい天気ですね」


 つい昨日、日の出から日没後まで小雨がちらついていたのが嘘のように、その日、磨見ノ国の都・璃久扇はまぶしいほどの晴天に恵まれていた。


 道端に点々と残っている水たまりは空の青を宿し、透き通った(うろこ)のようにきらめいている。通りを歩く人々の表情も、今日のような暖かな日の光の下では、いっそう晴れやかであるように感じられた。


「あら、ずいぶん若い巫女さんじゃないか。これからどこかへ出かけるのかい?」


 これから商いにでも向かうのだろうか、野菜を積んだ(ざる)を頭に載せて歩く女が、明るい口調で尋ねてきた。

 真幌は懐に手を当て、もう片方の手に持った都地図をきゅっと握りながら答える。


「はい。昨日、都に来てすぐに、お世話になった人がいて。その人のところへ、お礼に行こうと思っているんです」

「へぇ、そうなのかい。都は広いからねぇ、気をつけていくんだよ」


 女が横を過ぎて去っていくのを見送ってから、真幌はそっと懐を探り、あるものを取り出した。

 青紫の布地で作られた、札入れ。


(千景さんのものだという確証は、ないけれど)


 日の光を浴びた札入れの色は、昨夜、ぼんやりとした提灯の光の中で真幌が見た通り、やはり夕空のような青紫色をしていた。


 瞳の色と同じであるからといって、札入れが千景のものだという考えは、まったく筋が通ってはいない。けれど何か、真幌の内で(きざ)した予感めいたものが、その考えを強く支持しているのだ。


 ――それに、もし予感が外れ、この札入れが千景とは何の関係のないものだとしても。


 昨晩、神官には、関わり合いにならない方がいい、千景に礼など必要ないのだ、と諭された。


 だが真幌は、確かに彼に、危ういところを助けてもらったのだ。にもかかわらず、何の返礼もせずに済ませてしまうのは、著しく礼を欠いているように思った。


 だから、札入れが千景のものであろうとなかろうと、真幌は行くことに決めたのだ。


 今一度、地図を見直す。


(よし、大丈夫)


 大きく頷いてから、真幌は歩き出した。

 目的地は、術師の多くが居を構えるという南西地区である。


 宿屋の主人につけてもらった地図上の印を時々確認しながら、真幌は着実に歩みを進めていた。

 ……進めていた、つもりだったのだが。


「おや、巫女のお嬢ちゃん。ここは北東地区だよ。南西地区はまるっきり反対方向さ」


 途中で違和感を覚え、道行く人に()いてみたら、返ってきたのはこんな答え。


「え? ここに行きたいのかい? あらあら、この道からじゃ、ずいぶん遠回りになっちまうよ」

「うん? 今いる場所がわからなくなったってか? あぁそうだな。あんたの持ってるその地図だと、だいたいこの……ほら、北のあたりかな」


 ――やっぱり、迷った……!


 生来、絶望的なまでの方向音痴で悪名高い真幌である。

 当然のこと、織戸山の周辺でさえ頻繁(ひんぱん)に道に迷っては誰かに助け舟を出されていたような真幌が、都を自在に一人で歩き回れるはずはなかった。


 苦悩する真幌を尻目に、太陽はあっという間に空の頂点を通り過ぎ、昼下がりの光で都全体を柔らかく包む。


 それでもなお、諦めずに目的地を目指し続けた努力が功を奏したのか――周囲の空気が(あめ)色を帯び始めた頃、真幌はようやく南西地区へと辿り着いたのだった。


「はぁ、はぁ……。やっと……やっと、着きました」


 親切な人が教えてくれた道筋を思い出しながら突き当たりを曲がると、その奥には細い路地が続いていた。


 邸宅を囲う塀を越え、路端に(まだら)模様の影を落とす庭木の枝先には、淡い色の花のつぼみが見受けられる。道に沿うように植えられた低木にもまた、うっすらと緑が息づき始めているようだ。


 ついこの間まで、吹きつけてくる風には細かい雪が混じっていたはず。

 それなのに、春とはいつも、こんなにも急ぎ足でやってくるものだっただろうか――そんなことを考えてから、真幌ははたと、ここが都だということを思い出した。


 織戸山よりもずっと早く、都には春が訪れるのだ。

 大社での修学を終える頃には、きっと桜も咲いていることだろう。


(和音さんと琴杷さん、今頃どうしているんでしょう?)


 何とはなしに、真幌の帰る場所――志緒神社が恋しくなった。


 毎年そうしてきたように、昨年の春もまた、境内に咲いた桜の下で花見をしたことを思い返す。

 和音さんと琴杷さんは例によってお酒の飲み比べをして、そしてやっぱり、琴杷さんが先に出来上がってしまったんだっけ。

 笑い声につられたみたいに、村からも人が集まって来て、夜になるまで歌ったり踊ったりして。


(みんなを介抱するの、すごく大変でした……)


 思わず口元を綻ばせ、空を(あお)ぐ。

 枝先に鈴なりになった蕾が、真幌に向かって微笑みかけているかのように風に揺れていた。


 大社での修学期間が無事に終われば、真幌はまた、あの場所に帰ることができる。


 ――今年も、織戸山で春を迎えられますように。


 そんなことを思っているうちに、どうやら目的地に到着していたようだった。


「……えぇっと」


 しかし千景の住む家らしき建物を目前に、真幌は足を止めざるをえなくなる。


(ここって……裏手、ですよね?)


 路地の先にあったのは正門でも玄関口でもなく、青々とした葉を茂らせている生垣だった。

 その向こう、簡素な庭を隔てた先に邸宅があり、障子戸の奥からうっすらと漏れる灯りが家主の在宅を示している。


 今日一日かけて、くたくたになりながらも訪ねようとした人が、すぐそこにいる。

 ……けれど。


(やっぱりここは、裏手、ですし……?)


 いくらなんでも裏手から敷地内に侵入するのははばかられた。

 途中で見つかれば盗人(ぬすっと)だと勘違いされかねない。


 しかし行き止まりになっている以上、この路地からは家の正面に向かうことはできないのは確かなわけである。


(どうしましょう……)


 真幌は本格的に頭を抱えた。


 ここに至るまでに散々道に迷った真幌だ。

 今から家の正面に通じる路地など探していたら、それまでに間違いなく夜が深まってしまう。それに、日が落ちてからの訪問は、先方にも確実に迷惑になるだろう。


 ……少し、だけなら。

 真幌は風呂敷包みを両手で抱え込み、きゅっと拳を握りしめた。


 少しだけだ。

 さっと庭を突っ切って、玄関口まで駆け抜けるだけ。

 それだけなら、裏手から入ったことを知られずにすむはず。


 そうと決まれば、迷っている暇などなかった。こうしている間にも、瞬き一つするごとに空の色は暗く、深くなっていく。


「……失礼します」


 後ろめたさを感じながらも小声で呟いてから、真幌は緋袴の裾をたくし上げた。生垣(いけがき)に手をかけ、素早くその上をまたぐ。


 なんだか、本当に盗人になってしまったような気分だ。

 一刻も早く、玄関口へ。

 (はや)る気持ちを抑えきれず、庭を駆け出す真幌だったが、


「あっ」


 ある瞬間、真幌の全身を突き抜ける、奇妙な浮遊感。


 ――まずい。

 そう思った時にはもう遅かった。

 薄暗がりに覆われ、濃い色に染まって見えた地面は、正確には地面……ではなく。


 爪先(つまさき)に触れたのは、宵闇の色を映して黒々と揺らめく池の水面だった。


「きゃあああああっ!」


 その場に踏み留まることなど不可能だった。

 こうして、ばしゃあんっ、と水飛沫(みずしぶき)の上がる音が盛大に庭に響いたのだった。


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