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1.巫女の旅立ち ―2


 日が傾き、神社の周囲を覆う林があかがね色を帯び始めた頃、真幌は神社の鳥居前に到着した。


「やっと着いたぜ。意外とここって、集落からは離れてるよなぁ」


 颯太が立ち止まると、真幌はあたりを見回した。

 今日はいつもよりも風が強い。今朝方、綺麗に掃き清めた境内には案の定、風によって新たに運ばれてきた枯れ枝が散っていた。これは日暮れにももう一度、掃除をする必要がありそうだ。


「本当、こんなふうに林の奥の方にあるのでなければ、迷うこともないと思うのですけど」

「まぁ真幌は、近くても遠くても結局迷子になってそうだけどな。じゃあな、俺は帰るぜ、真幌」

「近くても遠くても、っていうのは余計ですよ。まぁ、いいです。今日はありがとう、颯太。気をつけて帰るんですよ」


 颯太は手を振りながら、鳥居前の石段を駆け下りていった。


 その姿を見送り終えると、真幌の視線は夕暮れの空に吸い寄せられた。思わず目を奪われてしまうほどに、今日の空は燃え立つような、あざやかな赤色に染まっていたのだ。


 厳寒の時期こそ過ぎたとはいえ、季節はまだ春には程遠い。日は天頂に達したかと思えば、あっという間に山の端に接し、地平線に燃えるような光を投げかけて沈んでいく。


「……あの日と同じ、ですね」


 自然、そんな言葉が零れ出る。

 息を呑むほどに美しい夕空が、この神社を初めて訪れた時のことを想起させるからだ。


 十年前、真幌は昼下がりの林道を母に連れられて歩いていた。その道のりの中ほどに達した頃には、口減らしに捨てられるのだという事実をすでに確信していただろうか。


 そうして、夕暮れの日差しに空が赤く輝き出す頃、真幌はこの場所に置き去りにされたのを(さと)ったのだ。


 どうして私を捨てるの、なんて、愚かな問いを母にぶつけることはしなかった。無論、去っていく母の腰に追い(すが)ることもしなかった。母を困らせるだけだとわかっていたし、そして何より、はっきりとした言葉や行動で拒絶されるのが恐かったからだ。


 捨てられた直後は、途方に暮れた。

 どうしたらいいかわからず、このまま飢えて死ぬよりほかにはないのかと、ただただ泣くことしかできなかった。


 けれど、今。

 真幌はこうして、居場所を与えられて生きている――賽銭を盗もうとした、罰として。


 と、巫女装束を手渡された時のことまで思い出し、つい微笑みかけた、その時だった。


「おや、どうしたんですか、真幌。普段は間抜(まぬ)けなあなたでも、見事な夕焼けに感じ入る心は持ち合わせていたようですね。少々意外でしたよ」


 聞き慣れた声に振り返ると、そこには白衣に紋入りの紫袴をまとった、穏和な顔立ちの男が立っていた。織戸山を守護するこの志緒(しお)神社の宮司、和音である。


「和音さん」


 村で得た物をまとめた荷物と、和音が手に持っていた竹箒(たけぼうき)を交換しながら、真幌は口を(とが)らせた。


「……確かに私は間抜けですけど、たまには黄昏(たそが)れたくなることだってあります」

「そうでしたか。そういえばあなたを拾った日も、こんなふうに空恐ろしいくらい夕焼けの綺麗な日でしたねえ。私も今、ふと思い出しましたよ」


 真幌は面食らった。

 どうやら和音には、真幌が何を考え、黄昏れていたのかまでお見通しらしい。


 和音には恩があるし、何だかんだと言いつつ、彼は真幌を巫女として育て上げてくれた。だから常々、和音には感謝しているのだが、彼がしょっちゅう口にする皮肉を受け流すことはできても、こういうところだけはどうも苦手だ。


「あなたが罰当たりにも賽銭を盗もうとしていた姿は、未だに忘れられませんよ。あんなはした金をどうしようと考えていたのか、ぜひとも教えていただきたいくらいです」

「それは……。悪いことをしたとは思っています。でも私は、初めから盗もうと思っていたわけじゃありません。最初に盗んでいった人から、残った分をもらっただけなんですから」

「はいはい。盗人(ぬすっと)はみんなそういうふうに言い逃れしますよね。と、言いたいところですが、真幌はいい意味でも悪い意味でも正直ですからね。私としては、あなたに窃盗を(そそのか)した例の人物とやらもひっ捕らえたかったところですが……真幌ときたら、その泥棒仲間の特徴を何一つ覚えていないというので、どうしようもなかったのですよね」


 足元の枯れ草を竹箒で掃きながら、真幌は抗弁(こうべん)した。


「何も覚えていないというわけではありません。そもそも夜でしたから、相手の姿だってよく見えなかったんです」


 ここに巫女として置かれるようになった発端(ほったん)を思い出す。


 母が去った後、幼い真幌は志緒神社の境内で、一人の男と出会った。

 彼は賽銭箱を壊し、中にあった小銭を盗んだ。そして残ったわずかばかりの金を真幌に譲り、去っていったのだ。


 あの後真幌は、賽銭箱を前にかなり長い時間、躊躇(ちゅうちょ)していた。父や母によく言い聞かされていたから、盗みが悪いことだというのは幼い真幌にだってわかっていたからだ。それに、賽銭は神様に捧げられたもの。盗めば、天罰が下るかもしれない。


 けれど、男が言ったこともまた、事実かもしれないと思った。生きるためには、やむをえず、悪事に手を染めなければならない時がある。そして今が、その時なのではないか、と。


 真幌はやがてほぞを固め、衣服の隠しに小銭を詰め込み、手のひらにも残った小銭を握りしめて、神社を後にしようとした。


 その結果、ちょうど外出から戻ってきたらしい宮司――和音によって、見咎(みとが)められてしまったというわけだ。


「でも、あんなにぼろぼろの神社だったんです、まさか誰かが住んでいるとは思いもしませんでしたよ。きっと最初に盗んでいった人だって、同じことを思ったはずです」

「へぇ、なるほど。真幌、あなたはやっぱり馬鹿ですねぇ」

「えぇっ、なんでですか。というか、そんなにしみじみ(ののし)らないでください」

「だってねぇ。一般的に、盗みというのは迅速(じんそく)に行うものではないですか。人の気配を感じたのなら、なおさらです。あなたを放ってさっさと立ち去ったあたり、少なくともあなたの泥棒仲間は、ここに人が住んでいたことくらいすぐにわかったと思いますよ」

「うっ……」


 二の句が継げなくなった真幌を、和音がからからと笑ってくる。

 しかし和音は、なぜかそのすぐ後に、物憂(ものう)げに顔をしかめてつぶやいた。


「ですが、今でも少々、気になるのですよね。あの時の錠前(じょうまえ)の壊れ方に、何と言ってもあの気配。あれは……いえ、まさか」


 折しもそこでひときわ強い風が吹き寄せ、和音の言葉は途中で掻き消されてしまう。真幌が不思議そうに和音を見遣(みや)ると、彼はゆるりと首を横に振った。


「あなたが気にせずともよいことですよ、真幌。おや、そういえば、琴杷(ことは)に用事を言いつけておくのを忘れていました」


 そう言って(きびす)を返し、社の方へと戻っていく和音の背を、真幌は小さく息をつきながら見送る。


 和音のもとで働くようになって、十年。


 これだけ長い年月が経っているのにもかかわらず、和音に関して知っていることは思いのほか少なかった。彼自身、自分のことを進んで話すような(たち)ではないし、その上真幌が尋ねてみても、のらりくらりとはぐらかしてしまうためだろう。気にはなる。しかし……聞き出してみたところで、何がどうなるというわけでもない。


 みるみる赤い輝きを増す斜陽を身に受け、境内を掃き清めているうちに、真幌の思考は再び、孤児になった日の記憶へと移ろっていった。


 あの日盗みを働いた、名も素性も知らぬ男のことを思い返す。

 今となっては、その声も、どんなやり取りを交わしたのかも覚えていない。


 けれど一つだけ、今でもはっきりと記憶に残っている言葉がある。

 彼は去り際、真幌に向かって、生きろ、と告げた。

 そして真幌も、同じ言葉を返したのだ。

 あなたも生きてと。死なないでほしいと。


 晴れた日の夕暮れ時。

 暮れゆく空に、ぽつり、ぽつりと星が浮かぶ。


 それを見るたび、思い出さずにいられない。

 この広い大地に、一人きり。天涯孤独となった時のことを。


 そして同時に、祈らずにはいられないのだ。

 遠い、遠い、空の下。

 あの人もまた、どこかで生きているだろうか。

 今の真幌と同じように、淡い色の空を(あお)いで、輝く星の数を数えていたら。

 そうであったなら、どんなにかいいだろう……と。


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