序・賽銭泥棒
――一つ。
また一つと晩天に現れ輝き出す星を、少女は虚ろな瞳で見つめていた。
遠くの山際に日が沈む頃まで泣いていたせいで、空を仰ぐその目はひどく腫れている。
母さん、と少女は掠れた声で呼んだ。
母さん、父さん……みんな。
つぶらな両の瞳からは星の雫のような涙が溢れ、冷え切った頬をつぅっと流れていく。
足元の地面がぬかるむほどに泣き暮れたはずなのに、涙は枯れることを知らず、少女の顔を濡らし続ける。
少女は顔を伏せ、膝を引き寄せて、しゃくり上げながらうずくまった。
わかっていたはずだった。
少女は幼心にも、悟っていたのだ。
――いずれ、こんな日が来るに違いない、と。
不作の年が続き、村は日に日に貧しくなっていった。
そうなるにつれて、少女を見る父と母の目に憂いの色が濃くなっていったことに、少女は知らぬふりをしていたのだ。
母は弟達の面倒を見ていた少女を呼び出して、隣の村に用事があるからついてきておくれと言ってきた。
胸がざわざわと騒いだ。
それでも少女はにっこりと微笑み頷いた。
道を外れ、隣の村をとうに過ぎ、見知らぬ山道に分け入っても。
握った母の手が時おり震えていることに気づいても。
それでも少女は、何も尋ねることはしなかった。
母を悲しませたくはなかったから?
――それは、違う。
少女は今日、口減らしのために捨てられるのだということ。
その耐え難い事実を母の口から聞かされるのが、たまらなく恐かったからかもしれない。
母が立ち止まったのは、険しい山道の奥、古い鳥居の前だった。
参道の奥には、朽ちかけた社が昼下がりの陽光を浴びて建っている。
用事を済ませたら戻ってくるから、それまでここで待っておいで。
そう言い残して、母は少女の前から立ち去った。
けれどそれきり、日が傾いて木々が暗い影を落とすようになっても、西の淡い色の空に星が散り始める時分になっても、母が戻ってくることはなかった。
わかっている。
知っている。
……私は、捨てられた。
この日のために、ずっと前から覚悟も決めていた。
そのはず……なのに。
「うぅっ……ひっく……」
長く厳しい冬が去り、枯れ野に花を咲かせながら訪れた、初春。
しかし日はまだ短く、宵に吹く風は凍えるほどに冷たかった。
寒風から、そして押し寄せる宵闇から身を守るように、少女は華奢な身体を丸めて、胸を引き裂かれるかのような悲しみに耐えようとした。
――と。
その時だった。
すぐ近くから、何者かの足音が聞こえたのは。
「……っ!」
ふいに、母から聞かされた話を思い出した。
日が沈んだ後に外を出歩いてはいけないよ。
古い神社に近づいてはいけないよ。
人さらいに捕まって、もう二度と家に帰れなくなってしまうから――。
少女はひっと短く息を吸いこむと、慌てて口を手で押さえ込んだ。
恐怖のあまり、奥歯がかちかちと音を立てる。
……どうしよう。
人さらいが、近くにいるんだ。
徐々に近づいてくる足音に、さらにぐっと膝を抱え込み、息を殺す。
こっちに来ないで、どこかへ行って。
そう、必死に心の中で繰り返していると……ついに、足音がぴたりと止んだ。
「……?」
おそるおそる顔を上げ、あたりを見回そうとする。
しかし次の瞬間、
「娘。そこで何をしている」
突如として頭上から降ってきた声に、背に冷や水をかけられたかのように身体が震えた。
少女は瞠目し、声の主を見上げた。
その弾みに、目の縁にたまっていた水滴がほろりと零れ落ちる。
涙の膜が瞳を覆っているせいで、視界は石を投じられた水面のようにぐにゃりと歪んでいる。しかも、空にぽっかりと昇った月の明かりが逆光になっているせいで、その人物の姿は判然としない。
二の句が継げずただただ呆然としていた少女をしばらく眺めているうちに、目の前の何者かはだいたいの事情を察し取ったらしかった。
「なるほど。捨てられた、というわけか」
夜気を震わすのは、滑らかで深みのある、落ち着き払った声。
想像していた人さらいの声とは、ずいぶん違った声色だった。
心の奥底に柔らかく溶け込んでいくような、そんな響き。
恐ろしさは、不思議と感じなかった。
「……身勝手な親だ」
だからかもしれない。素性の知れないその男が発した言葉に、とっさに語気荒く言い返してしまったのは。
「……っ、母さんと、父さんを……悪く、言わないで」
喉の奥から絞り出した声は弱々しく、掠れていた。
だが相手の耳には届いたようだ。ほんの少しだけ、息を呑む音がする。
ややあって、男は鼻で笑いながら言ってきた。
「おかしな考えをしている。お前は、非情にもお前を捨て、裏切った者達を庇うというのか」
「母さんと父さんは……悪くなんか、ないっ……。みんなのために……私が、一番、お姉ちゃんだから、だからっ……」
息が詰まった。
もう、泣きたくなんかないのに。
容赦のない冷徹な言葉に、もっと堂々と反論したいのに。
少女は唇を引き結んだ。
その甲斐もなく、激しい嗚咽が漏れ、ぽろぽろと涙が頬を伝う。
だが、その時だった――それまで長躯の影によって遮られていた月の光が、少女の正面を冴え冴えと明るく照らし出したのは。
水底のように冷え切った夜に灯る、満月。
その光はどこまでも穏やかで、地上に生きる者すべてを包み込むようで。
そんなことを思ったのも束の間。
少女の前に屈み込んだ男の、ほんの鼻先まで迫った瞳に目を奪われた。
湖面のように揺らいで見える双眸の色合いは、暗がりにいるせいでよくわからない。
しかしなぜだか、その瞳を見ていると胸がぎゅっと締めつけられるような気がした。
涙に濡れた少女の頬に触れようとした白い指先は、けれどその寸前で、何か不可視の力に弾かれたかのようにぴたりと動かなくなる。
男はわずかに表情を歪めた後、しばらくして、懐から小さな布切れを取り出した。
「……愚かな娘」
まるで、泣き止まぬ赤子をあやすかのように。
布切れで頬を拭ってくれるその手つきは、驚くほどに優しい。
それなのに、ぽつりと呟かれたのは、そんな冷淡な一言で。
「お前は、お前をないがしろにする者達が憎くはないのか。なぜ、自分だけが見捨てられなければならなかったのかと。なぜ、こうして自分を置き去りにするのかと」
問われ、少女はすぐさま口を開こうとした。けれど、言葉は喉につっかえ、代わりに唇から漏れ出たのは震えた呼気だけだ。
どうして。
どうして、私が。私だけが。
両親がまったく憎くないかと言えば――それは、きっと違う。
だけど。
それよりももっと強く、確かな思いが、少女の心の奥底には存在していた。
「……たく、ないから……」
「……」
真っ直ぐに少女の瞳を見つめ返してくる彼に向かって、もう一度声を奮い立たせて、言う。
「寂しいのは、嫌……独りは、嫌……。でも、私は……それよりも、……母さん達が辛い顔をしてる方が、ずっと嫌……そんな顔は、見たくない……だから。だから、私が、我慢するの」
冷たい雫が再び目尻から溢れ出る。
少女の瞳から次々と流れるその涙を、男は黙って拭ってくれていた。
やがてふっと笑い、彼は言う。
「そうか。悪いが、俺にはまったく理解できない考え方だな。俺とお前とでは相容れん。――微塵も、な」
その声音には、どこか寂寥とした響きがあった。
少女が食い入るような眼差しを向けてくるのを避けるかのように、男は視線をそらす。
そして布切れをしまうと、すっと立ち上がった。
何も言わず、彼は参道の奥へと歩き去っていく。
少女はしばらくの間呆気に取られたままその背を見送っていたが、ふいにその場の闇が濃くなるのを感じて、追い立てられるように彼の後を駆け出した。
天上の月が徐々に雲に覆われていくのと同時に、社のある方角へと向かう後ろ姿は暗がりに消えていく。
そんなことが、あり得るはずはないのに。
なのに、今追わなければ、その不思議な人物は暗闇に吸い込まれたまま、二度と戻ってこなくなってしまうような気がして。
だから少女は追いかけた。
濃密な闇が全身を包む恐怖さえ、忘れて。
少しでも気を抜けば、前も後ろもわからなくなってしまいそうな闇の奥。
参道をずいぶん走ったところで、月にまといつく雲が薄らいだのか、淡い光が木々の枝を透かして降り注いだ。
その光に照らされた社の前。
……見つけた。
その背を目にするなり、少女は我知らず、そっと安堵の息をついていた。
男は駆けつけてきた少女の方を振り返ることなく、ひそやかな声で囁く。
「まぁ、何しろ山奥の社だ。大した収穫にはならないだろうが」
その口調にはどこか悪巧みを口にする時のような怪しさがあって、少女は思わず首を傾げた。
……え?
かしゃん、と金属か何かが地面に落下するような音が響いたのは、次の瞬間。
その直後、じゃらり、と手で小銭を掬い取る音を耳にして、ようやく少女は、彼の言う「収穫」の意味に合点がいった。
唖然として立ち尽くす少女の足元に、ぱかりと開かれた賽銭箱が下ろされる。
箱の底には、うっすらとした光を反射する、小さな硬貨。
「……っ?!」
「残りはくれてやる。その金をうまく使って、どうにか生き延びることだな」
……のこ、り?
あまりに涼しい声色で言うものだから、そのまま彼を見過ごしてしまうところだった。
少女はややあってはっと我に返り、社から離れていく男に向かって声を張り上げる。
「……ちょ、ちょっと、待って!」
「まだ何か用か?」
男はいかにも面倒そうに言いながら振り返るが、それでも立ち止まって、少女の声に耳を傾けようとしてくれているようだった。
じっと見据えてくる視線の強さに思わずたじろいだが、このまま彼を行かせてはならないことは確かだ。
少女は男の前に回り込み、両手を広げて彼の行く手を阻止しようと試みる。
「……お賽銭は、神様のもの、です。盗んじゃ、だめなの」
「ほう。で、それがどうした?」
頭上からさらりと返された一言に、少女は面食らった。
どうやら彼は、この立派な窃盗行為に良心の呵責をまったく感じていないらしいのだ。
「泥棒は、悪いことなの」
必死に言い募ると、彼は意地の悪い笑みを浮かべた。
少女を見下ろし、傲岸不遜に言ってのける。
「悪いこと、か。だが、そうでもしなければ生きることさえままならぬのだから、仕方があるまい? お前の親とて同じだ。生きるためには、悪いことと知りながらお前を捨てるほかに術がなかった。それとも……お前はこうして罪を重ねて生き延びるくらいならば、喜んで死を選ぶというのか。こうでもしなければ生きられぬのなら、俺にも死ねと?」
「それは……っ」
二の句が継げなくなり、少女は歯を食いしばった。
それ以上彼の眼差しをまともに受け止めていられなくなり、つい俯いてしまう。
……ふ、と。
小さな笑い声が聞こえたのは、それからまもなくのことだった。
少女は驚いて男の顔を見上げようとしたが、それには及ばなかった。
彼は少女の背丈に合わせてしゃがみ込み、柔らかな口調で詫びてくる。
「悪かったな、名も知らぬみなしごよ。お前は優しく純真だ。それがゆえにお前が口を噤むことなど最初からわかっていたのに、意味のない質問をした」
――生きろ、と。
彼は最後に、少女に向かってそう言った。
水のように静かで、しかし確かな声で。
そうして今度こそ、彼は去っていく。
「…………」
ざぁ――と、波のように押し寄せた風に、草葉がざわめいた。
なぜ、とっさにそうしようと思ったのかは、少女自身にもわからない。
けれど気づけば、少女は暗がりの彼方へと消えていこうとする男を追って走り出していた。
夜風が吹き寄せ、参道脇の木々が騒ぐ。
闇の懐へと手招きをするように、枝葉が揺れる。
暗闇の底へと沈んでいくのを引き留めようとするかのように。
気づけば少女は、彼の手を握りしめていた。
氷のように冷え切った手が、びくりと震える。
少女の幼い手のひらでは、その骨ばった手を包み込むことすらかなわない。
「……あなた、も」
彼が少女のために、言葉にしてくれたように。
少女もまた、願いをかけたかったのだと思う。
「あなたも、生きて。どうか、……死なないで、ください」
深い暗闇に包まれた境内に、二つの声が響き合う。
名も顔も知らぬ他人どうし。
それでも、二人、互いの生きる道を祈り合った月の夜だった。
そして――