27
さらさらとした風がウィリアムの頬を叩き、そろそろ起きるようにとウィリアムを促す。ウィリアムは目を覚ました。森の入り口。ウィリアムが先ほどまで戦っていたところからは随分と遠い場所にいた。
(記憶を失ったのだろうか)
ウィリアムは思った。体はどこも傷まない。体についた傷も治療済みだった。
(いや違う。誰かがやってくれたんだ)
それがわかったのは、準備がいる料理が横にあったからだった。ココナッツオイルで揚げたエビにマヨネーズがかかったキョパという料理がなぜかそこにある。それはウィリアムの大好物であり、この国の郷土料理でもあった。
(誰だろう)
それが誰であれ、人里離れたところにいた自分を運び、傷を治療し、料理を近くに置いてくれた人がいる。それだけで涙が出そうだった。感謝の意を示すためにレウコン教の教え通り星を切った。キョパは美味しかった。今まで食べた料理の中でも、特に。
最後の一口を飲み込むと、ウィリアムは記憶を留めた紙を開いた。開く勇気をくれたのは見知らぬ誰かの優しさだった。何かを忘れていることは確か。それが何か見当もつかないだけで。
紙を捲る。すぐにわかった。
「あ、ぁ、あ」
紙がくしゃりと歪んだ。ウィリアムは天を仰いだ。
「違う、覚えてる」
喉が音を絞り出した。紙が悲鳴をあげる。
「忘れてない」
ウィリアムは、愛していたはずの妻のことを、全くもって覚えていなかった。
「覚えてる、だろう……!」
声が、顔が、全く思い出せない。赤の他人の情報を読んでいるような気分だった。
17の時に出会い、恋をしたこと。
ウィリアムが戦いに行く前には必ず精がつくようにとステーキを焼いてくれたこと。
ウィリアムが怪我をして帰った日には、ウィリアムに隠れて泣いていたこと。
飢饉の時に、自分の料理を娘に差し出したウィリアムに、料理を分けてくれたこと。
ウィリアムは力を入れすぎて破けそうになった紙をポケットにしまった。髭が水に濡れてしまったのをリアンに見られるわけにはいかない。彼は聡い。
「やらなくては」
ウィリアムは馬に跨った。馬の温かい体温を手のひらで感じる。
「私が悪いのだから」
ウィリアムが守った木々が揺れる。もうこの森が灰になることはない。ウィリアムが、妻の記憶を取り戻すことがないように。人々は燃える街を見ることはない。ウィリアムが、妻の笑顔を見ることがないように。
全ては終わった。
王城へ帰還し、旅に出る時が来たのだ。
***
ウィリアムが焼け爛れた服を替えようと服屋を訪れると、店が閉まった。ウィリアムは悟る。文句も言わずに彼は諦めて外に出た。馬を走らせる。街道には、罪人、否、勇者を一目見ようと人々が集まっていた。
冷たい、親の仇を見るような目だった。実際、ウィリアムは親の仇であり、恋人の仇であり、子供の仇だったのだろう。一人が石を投げると、大勢が続いた。ウィリアムは避けようともしなかった。
罰は優しい。罪を償った気にさせてくれる。
ウィリアムはそれから王城までの長い距離を、罵声を浴びながら進んだ。
民衆は叫び声を上げるもの、石を投げるもの、無言を貫くもの、睨みつけるものと様々だった。好意的な視線はないようにウィリアムは感じたが、すぐに首を振る。怪我を治し、料理を振る舞ってくれた誰かがいたことを思い出した。
その誰かに、ウィリアムはかなり救われていたのだ。見た目ほどは傷ついていなかった。
その民衆の様子に傷ついたのは、むしろ。
「ねぇ、あれ何? なんで!? おじいちゃんはなんであんなに嫌われてるの!?」
王城からその様子を見ていたリアンだった。愛すべき祖父が立たされている苦境に我慢がならず、リアンはメイドにそう問いかけた。理解が追いつかなかった。見ていられなかった。
リアンにとって、ウィリアムは世界の全てに等しい。リアンが生まれる前に亡くなった祖母や、リアンを産むと同時に亡くなった母、長い間軍にて戦って亡くなった父に代わって、一緒にお風呂に入り、ご飯を作ってくれて、寝る前には楽しいお話をして、誕生日にはステーキを焼いてくれるのが祖父だった。
その祖父が今、人々に罵倒され、傷つき、体を小さくしながら王城へと馬を進ませる。
「離して! 離してよう!」
祖父の元へかけつけようとして、メイドに止められた。大きな人だと思っていた。祖父は強く、優しく、英雄のような人だと思っていた。そんな彼が、あんなに背中を丸めて、罪人のように王城へと進んでいる。
祖父が王城へ向かっている原因は、リアンにあるとわかってしまった。だってそうだ。旅に連れていくと言っていた。迎えに来ると言っていた。リアンが頼んだ。
祖父はこうなるとわかっていたのだ。
「あなたの祖父は邪神の封印を解き、世界を混沌に突き落としたのです」
「知ってるよ! だから何! 勇者なんじゃないの! 助けられた人もいるんだろう! いずれは解けるものだったんだろう?」
メイドの説明に噛み付く。噛み付かずにいられるわけがない。
「封印を解いたことを恨む王城の人間が、人々に漏らしたのですよ。陛下が彼を勇者と言ったためにこの程度で済んでいるだけです」
メイドの声に籠る感情は、怒り。
「おじいちゃん、おじいちゃん!」
「あなたは祖父の前でもそうするつもりですか」
メイドはリアンを見おろした。見下していたのかもしれない。
「あなたがそんなふうにしていたら、あなたの祖父はどう思うでしょうね」
突き放すような言葉だった。メイドは怒っていた。
「私の兄も、ウィリアム様に戦場で救われた一人です。だから陛下はあなたのメイドに私を指名しました」
リアンは涙を引っ込めた。
「今のウィリアム様には敵が多い。理不尽に大切な人の命を奪われた人にとって責められる存在はある意味救いです。みんなウィリアム様が悪くないことなんてどこかで勘付いています。ウィリアム様もそんな人々の心をわかっていることでしょう」
メイドはリアンの涙を拭いとった。掌は冷たかった。リアンの興奮で赤く染まった頬をその手が冷やす。
「あなたがいつも通りに接さないのなら、ウィリアム様はどこで心を休めるのです?」
リアンは顔を上げた。メイドの顔を初めてはっきりと見た。
――――トントントントン
4回のノック音の後に愛する祖父の声が続く。
「おじいちゃん! おかえり!」
リアンは、それまでの涙が嘘みたいに、笑顔でウィリアムに接した。どこか引き攣っていたかもしれない。一瞬笑顔を作るので精一杯だった。祖父の胸に飛び込んで誤魔化す。
「ああ、ただいま」
祖父の声はいつも通り優しかった。全てを包み込み、守り、愛する、強い人の声だった。
「行こうか」
ウィリアムはリアンを抱いて立ち上がった。
「リアンをありがとうございます」
「いいえ、仕事ですから」
メイドは応えた。その礼は深い。顔が伺えなかったけれど、ウィリアムは覗き込むような無粋な真似はしなかった。その声が震えていたからだ。
(優しい子なのだろう)
ウィリアムはリアンの背中を撫でた。
(私に石を投げた人も、きっと)
次の行き先はもう決まっている。ウィリアムはその手にはまった腕輪を動かした。
「陛下に感謝を。そしてあとの復興は頼みますとお伝えください」
「はい、必ず」
メイドは頭を下げたままウィリアムに応えた。ウィリアムはシラーユ大陸の勇者の元へと腕輪に願った。
ウィリアムとリアンの体が粒子に細かく分解されていく。再び意識を取り戻した時には、ウィリアムたちは極寒の地にいた。
「ひっ人! 人が! うぁああああああ」
目の前には、リアンと同い年ほどの少年。
気弱で、弱々しい体を持った男の子がそこにいた。
「勇者?」
「ちがいますぅぅぅ! うわぁあああああ」
ウィリアムとリアンは顔を見合わせ、逃げ出そうとする少年を捕まえた。