26
王城のメイドに預けられていたリアンは、ウィリアムを見るや否や抱きついた。
「ど、どうしたんだ」
ウィリアムは焦ってリアンの前に屈んだ。その髪を掻き分け、熱があるのではないかと額に手を当てる。熱はない。こうも甘えるのは珍しい。今年12を超えたウィリアムは、父が亡くなってからは弱音を吐かなくなっていた。
「聞いたよ」
ウィリアムはその言葉だけで全てを察して固まった。
どくん、と胸が音を立てる。嫌な予感がしてウィリアムはリアンの手をいつもよりも強く掴んだ。
「勇者になったんでしょう。おじいちゃん」
見放されるのが怖かった。
「封印を解いたって聞いた」
リアンに嫌われたくはなかった。リアンと一緒に遊んでいた子供達は助け出したが、それでもリアンの知り合い全員を救えたわけじゃない。
パン屋の子、肉屋の妻、雑貨屋の気のいい男、村一番の農家に薬屋。
高台の上にいなかった人間は、かなりいた。
「すまない」
ウィリアムは頭を下げた。許しを乞うた。孫に嫌われたくなかった。ウィリアムにはもう、孫以外にいないから。いや、最悪嫌われてもいい。生きてさえいてくれれば。自分が封印を解いたせいで死んだとなったら、自分が正気を保っていられるかも怪しかった。
「本当にすまない」
「おじいちゃんは僕を置いていかないよね!」
声が重なる。リアンの言葉は、ウィリアムにとって予想外のものだった。
「僕も旅に連れて行ってくれるよね」
当然、おいていくつもりだった。危険すぎる。ひきつった顔でリアンは必死に訴える。
「僕を一人にしないよね!? 僕はおじいちゃんについていくから。いらないって言われたってついていくんだから」
大きな瞳からぼたぼたと涙がこぼれる。幼いころは、こうやってウィリアムがいないと気づくといつも泣いていた。そうしてウィリアムの足に抱き着き、行かないでと叫んでいた。困ってはいたもののウィリアムは嬉しくて、顔をだらしなく笑みで覆っていた。
「僕、役に立つよ」
もう12歳、大きくなったと思っていた。だけど、まだ12歳なのだ。独りは寂しい。いや、いつになっても寂しいものだ。
「おいていかないで」
リアンは、ウィリアムを恨んではいなかった。この小さな存在は祖父が自分の前から消えることの方が、よっぽど嫌だったのである。
「大丈夫だ。爺ちゃんはリアンが自分から去るときまで、リアンを置いて行ったりしないよ」
「そんな日はこない」
ウィリアムはリアンの頭を撫でた。リアンはウィリアムの足に抱き着き、その涙をこすりつけた。
「こないよ」
ウィリアムはその体勢のままリアンと約束をした。
「爺ちゃんはちょっと獣を倒してくるから、その間ここで待ってな」
「迎えに来るよね? 死なないよね?」
「ああ。大丈夫だ。爺ちゃんは強い」
嘘。ウィリアムは強がった。
「そのあと、いろんな大陸に爺ちゃんと行こう。リアンが十分強くなったら、獣退治にも連れてってやる」
「本当? 修行つけてくれる?」
「ああ、きっとだ」
泣きつかれたリアンをメイドに預け、ウィリアムは単身、王城を出た。未来視によれば、獣の大群が現れるのは大陸南東部の鬱蒼とした森と中央部の砂漠のちょうど境目。獣たちがつけた炎は乾燥した気候と精油の取れる木々が多いことが原因で、瞬く間に大陸全土に広がり、何日も燃え続けるようだった。
ウィリアムは王城で貸してもらった馬に跨り、砂漠まで馬を走らせた。温暖な城下町を抜け、熱帯雨林の間を通り、砂漠地帯へと進む。装備は王城で貸してもらった。水も十分にある。道中、ウィリアムは何度も獣に襲われる人々に遭遇し、そのたびに自身の剣を振るった。大丈夫だと、住民に食料を分けながら城下町へと誘導する。
森に近い範囲で生活している人々には、王城から派遣された人々が避難を勧告していた。その様子に安堵すると同時に、封印を解いたものの存在が周知されるにつれて肝が冷えた。
「世界樹のもとで邪神が力を蓄えているんですって?」
「レウコン様が必死にそれを抑えてらっしゃるとか」
「だけど神は神を倒せないじゃないのか?」
「だから勇者が向かってるのよ。レウコン様のはその時間稼ぎ」
「勇者ってお前、この事態を生んだ罪人だってレウコン教徒が言ってたぞ?」
「しっ、それを言ったらダメよ」
ウィリアムはこれから何が起こるかをよく理解していた。
死ぬか、石を投げられ旅立つか。
「――――ここだな」
ウィリアムはその腰に剣を、背中に弓を携え、馬から降りた。昔のようにひらりと降りることができず、体の衰えを感じる。なるほど、邪神が言った『老人には必要だろう』というのは、あながち間違いではなかったらしい。
周囲に比べると幾分か標高の高い場所だから、砂漠の様子がよく見えた。例の獣が砂漠の奥の方に2匹見えた。他の獣を食しているようだった。今はいい。いずれは水を得るために森へ入るのだろう。
さらに空の上から獣が落ちていくのが見える。あの日、封印が解けた日、邪神は空から獣を呼んだ。一匹、二匹、三匹と落ちていく獣が町を蹂躙した、その時と同じだった。
(早く、どうにかしなくては)
汗が目に入る。まつ毛がうまく機能していないようだった。泥がウィリアムの足にはねた。
――――ギャクィザガガガガガガガガガッ
咆哮。一際大きな獣が空に向かって吼えた。その瞬間、空から2匹の獣が降ってくる。
(あいつだ)
ウィリアムは弓を構えた。
(奴をはじめにやらなくては)
むやみやたらに戦っていても何にもならない。増える獣に対応しきれなくなるだけだ。ウィリアムはその場から矢を放った。
矢は獣の胸を捉える。獣がこちらに気づいた。馬に跨る。全速力で走らせた。
――――右、左足前、後ろからもう一匹
未来を何度も思考する。
一度目。
ウィリアムは頭から落馬した。
二度目。
足を射ることには成功。その後角で体を燃やされた。
三度目。
――――バシッ
矢が獣の足を穿つ。バランスを崩した獣の角が迫ることを把握していたウィリアムはそのまま剣を獣の額に突き刺した。
獣が暴れる。馬から振り落とされそうになる前に剣から手を離し、一旦退避する。後ろから二体目が迫っていた。もう一本矢を弓に付け、ウィリアムは獣の目を狙う。外した。額に当たった。急いで避難。逃げながら左に迫る獣を剣を抜いて切りつけた。
――――グガガアギャアアアア
ウィリアムは肩で息をしながら敵の位置を確認する。
(ここで死ぬわけにはいかない)
敵は残り2体。増援はあちらもない。こちらもないが、やれるという確信があった。
(大丈夫)
ウィリアムは馬の髪を撫でた。
(まだやれる)
体は若い頃のようには動かない。だけど体が戦う術を覚えている。大丈夫だと言い聞かせるように何度も唱えた。
「はっ」
一直線に馬を走らせ、獣の真ん中を通る。一気に足を四本ずつ削った。最後は一瞬。
――――ギャグァアアアアアア
叫び声と共に獣は倒れた。
「リアン、じいちゃんは勝ったぞ」
その言葉を最後に、ウィリアムはその場で倒れた。