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肉が焼ける、いっそ香しいと評せる匂いがあたりに充満する。高台の上に避難した人々は、この高台の上すらも安全ではないのだと本能で悟った。火の海と化した彼らの住処から、異形の獣がその身を燃やしながら進んできたのだ。
「なんだあれ………」
それは顔だけ見れば牛のような見た目をしていた。違いはその角と八本ある足。その角はうっすらと青く光り、異常なほどの熱を放っている。足は長く、蜘蛛のようであった。
「リアン、ここにいろ」
ウィリアムは剣を抜いた。
「大丈夫だ。じいちゃんがいる。必ず守るよ」
こわばる顔を何とか和らげる。孫を怖がらせるわけにはいかない。涙をぼたぼた零しながらも、「わがっだ」と祖父をとめないリアンは、ウィリアムがどういう人間か正確にわかっていた。
予知はできる限りしたくなかった。リアンの言葉を鑑みると、自分の記憶はあの一瞬リアンの居場所を見ただけでも消えてしまっていたのだ。これからの未来を考えると、もっと大事な局面にとっておく必要がある。
逃げようにも安全な場所がわからず、ただただ悲鳴を上げて獣に食われる未来を待っている人が、ここにはたくさんいた。
「助けて――――だれか、ああああああああ」
幼子を抱きしめて蹲る父親を突き飛ばし、ウィリアムは獣の前に躍り出た。
――――ズシャッ
そうしてまずは一本、その足を切り落とした。使わないと思っていた未来視をまた使ってしまった。他に方法がなかった。
グラグラと揺れる巨体にもう一太刀を浴びせる。角の熱がウィリアムの服を焦がした。
「ウィリアムさんだ……」
遠くで誰かが叫ぶ。
「ウィリアムさんが来てくれた……」
それは安堵から来る叫び。
「もう、大丈夫だ……!」
ウィリアムは先の戦争で武勲を上げ、その名を知らぬ街の人間はいない。ウィリアムはその声を聴いて誰かを助けられたのだと安堵した。贖罪にはまだ足りないとわかってはいたが。
一本の足を失ってバランスが取れなくなった獣を打ち取ることはたやすい。片側の足をもう二本切り落とす。獣は頭を振って抵抗しようとした。頭についた火がチカチカと光る。ウィリアムにもその火はかかった。
体が痛みを訴える。しかし引けない。この場にはウィリアムしかいないのだ。ウィリアムはその痛みを顔に出すことなく、渾身の力で獣の首を切り伏せた。
「突き飛ばしてすまない。もう大丈夫だ」
ウィリアムは獣に狙われていた親子に手を出した。その男親はウィリアムの手にすがって首を垂れる。涙交じりの声には安堵があふれていた。
「ありがどう、ありがとう、ありがとう――――」
「大丈夫。大丈夫だ」
高台の上に生き残った人々は、ウィリアムの傍にいることが一番安全だと集まってくる。リアンはその波に交じってウィリアムのもとへと駆けた。
「おじいちゃん! けがは!」
「心配ないよ、ありがとな」
ウィリアムはその頭を撫でた。リアンは目を細めた。
人々の中には、神レウコンの説教をぶつぶつと唱え続けるものもいた。ウィリアムはその声に耳を傾ける。『レウコン教の啓示の日だ』という彼の言葉が気になっていたのだ。
「すまない。レウコン教の啓示とはなんなのか教えてくれないか」
彼はびくりと大きく肩を震わせてウィリアムを見上げた。その顔にはひどいやけどがある。町から高台へ逃げる間についたものだろう。
「この大陸が近く大災害に見舞われるという啓示があったんです。レウコン様が予言されました。神官曰く、どこの大陸でも似たような啓示があったと言います」
レウコンの対だと名乗った神メランは、ウィリアムに能力を与える際に4大陸にわけてその体を封印されていたと言っていた。これが最後の封印だとも。4大陸すべてで何かしらが起こっていても不思議ではない。
これまでほかの大陸での被害を聞かなかったのは、最後の封印が解かれていなかったからだろうと思った。
「この大陸は近く山火事に見舞われ、大陸の多くが火に沈むそうです。私はそれが今日だと思ったのですが…………」
男は言い淀んだ。ウィリアムには、それがなぜだかすぐにわかった。高台から見える景色から言って、ウィリアムたちが住んでいた王都のはずれの村以外に、さほど被害が出ていない。神が大災害というほどのものがこれで済むとは思えなかった。
「そうか」
ウィリアムはそれ以上何も言えなかった。
「おじいちゃん?」
自分の責任だとわかっていた。今日、あの時、あの瞬間、ウィリアムが本を開かなければ、こんなことは起こらなかったのだ。
ウィリアムは高台の上にいた人々を安全な場所へと導いた。王都の方までくればもう、図書館のある町として栄えた場所に起きた悲劇を王都の人々は知っており、彼らは避難民として教会に受け入れられた。
神の加護を受けた教会は裕福で、どのような人も受け入れてくれる。人々の安全が確保されたことを確認して、ウィリアムはリアンとともに、教会には泊まらず、王城に程近い宿に来ていた。
リアンを寝かしつけ、紙に絶対に忘れたくない人と思い出を書き連ねた。この時ほど、紙に感謝したことはない。ウィリアムが若いころは、紙の大量生産技術は存在しなかったから、若いころにこの能力を手に入れていたらと思うと苦しくなる。
ウィリアムは朝リオンが起きるまで、ずっと思い出を書き続けた。
そして、未来を視たのだ。
「リアン」
「ん?」
「王様のところに行くぞ」
ウィリアムはリアンの手を引いた。ウィリアムの皺だらけの手とはまるで違う、すべすべした小さな手。
「山火事が起こるのは10日後。さっきの獣の大量発生が原因だ」
リアンは目を擦った。祖父が泣いているように感じたからだ。
「………おじいちゃん?」
リアンは祖父が消えてしまいそうな気がして、思わず名前を呼ぶ。
「なんだ?」
だけど祖父はいつも通りで、リアンはなんだかよくわからなくなった。
「……なんでもない」
「そうか」
王に会うのは思いのほか容易だった。ウィリアムが武勲を挙げた軍人だからではない。
「封印を解いたのはお前だな」
王が知っていたからだった。その横にはレウコン教の大神官も立っている。リオンはメイドに預けた。子供が聞いていい、見てもいいような状況になるとは限らないと思った。処刑となってもおかしくない。それでも。
それでも、ウィリアムは知っているのに無視することはできなかった。どのみち、災害が起きればリオンを含めた多くが死ぬ。選択肢なんてあってないようなものだ。一人でどうにかなると思うほど愚かにはなれなかった。
「お前には勇者になってもらう。邪神を倒せ」
だから、その言葉は意外だった。
王の言葉に大神官は頷く。
「邪神を倒せるのは能力を得たあなたたち、封印をといたものだけです。罪人として戦いに出すのは教会としては看過できない。勇者と呼ばれるようにしなくては」
いうなればそれはただの罪滅ぼし。
こんなことを招いた責任をとれ、ということだった。
「レウコン様より腕輪を預かっております。いずれ現れる勇者にこれを渡すようにと」
王はその腕輪をウィリアムがつけると、満足そうに笑った。
「それをつけてる人間とその人間が両手を広げた範囲にとどまる人間に限り、各大陸にあるレウコン教の神殿と他の勇者の元へ瞬時に移動したりできるそうだ。感謝しなさい」
玉座から王の声は良く響いた。
「他の大陸の勇者を仲間にし、大陸の危機を救ったのち、世界樹の元を訪れるがよい。レウコン様がお待ちである。勇者よ、覚悟はいいか!」
勇者なんて呼ばれるような人間ではないと自分が一番思っていた。それでも逃げられない。ウィリアムには、勇者になる以外に道はないのだ。
だって彼は、彼こそが。
この星を絶望に突き落とした、張本人なのだから。
「はっ」
「山火事をとめたのちに、そなたは勇者であるとこの大陸中に知れ渡るであろう。そうなれば、そなたの罪を人々が知ることとなる」
「はい」
「人々は憤り、そなたの味方は消えるであろう。それでもやるか?」
王はウィリアムの瞳をみて、これが愚問であったと悟った。
「孫に顔向けできない真似はしません」
「そうか、住民の避難は任せろ。そなたの役目は、獣をとめることだ」
王は力強く頷いた。
「託したぞ、勇者よ」
そうして、ウィリアムは勇者となった。