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峡谷を抜けると、一面ブナの原生林が広がっていた。ウィリアムは単身、獣王の元へとかけていた。リアンが危惧した通り、彼は一人で戦おうとしていた。戦えるという確信があった。戦わなければならないという信念があった。
風が鳴る。風が葉を叩き、ウィリアムを拒むように音を奏でる。族長の家を出て、獣王の元へと行く間に、ウィリアムは本を読破した。
因果律。
人が人の身に過ぎた能力を手にするには、代償を払わなければいけないこと。
神は受けた恩に報いる義務があること。
メランは神であって世界樹本体ではないと、ウィリアムは結論づけた。族長は彼は因果を超越した存在だと言ったが、それではウィリアム達に能力を授けたことが理屈に合わない。
因果律の定めの範囲外にいるのなら、わざわざ自分にとって不利となる能力をウィリアム達に授ける必要がない。獣を降らせた世界樹と、メラン本体は別物だと考えるべきだろう、とウィリアムは推測する。
ウィリアムはメランを倒すべきか、はたまたレウコンを倒すべきかしばらくわからなくなった。あの日のことを思い出すと、メランは自分を倒して欲しそうだったようにも思う。
おそらく世界樹は、世界を愛している。その中に人間も含まれているのだろう。だから、メランという存在を作り、そこに抗う人間を直接的に排除しない。レウコンの対になる存在を作り、現状の膠着を図った。人間を滅ぼすのは世界樹にとって最後の手段なのだろう。
裏付けるように、本体たる世界樹が無事であるというのに、メランが封印されている間、新しい神は出現しなかった。
それが、ウィリアムにとって答えだった。
(やはり、私がすべきはメランの打破)
人類の敵たるメランを倒した先に、リアンやレオナルド、そしてタルーラが不自由なく生きられる未来が待っているというのは、疑うべくもない。
ただ、レウコンを止めなければ、世界そのものを壊しかねない。世界樹を倒すくらいのことは彼の神ならばする可能性がある。
(そしてレウコン様の存在を消すことを願うか――――あるいは、レウコンもこの手で屠るらなければ)
ウィリアムは、自身の記憶がその時には無くなっているだろうと思った。その時にちゃんと戦えるかだけが気がかりだった。リアンたちさえ無事なのなら、彼らが笑って暮らせるなら、記憶などいくらでもあげるつもりだった。だってもう引けない。あまりにも多くを失った。
「よし」
前方に獣王が住まうという湖を見て、ウィリアムは馬を止めた。湖面は光を反射し、直視できないほどだった。とても獣王が住んでいるようには見えない。周囲では動植物がそれぞれの生を謳歌しており、死後の世界があるならばこうであればいいとウィリアムが思うほどだった。
この池に、羽の生えた大鯰がいる。
大鯰。
そもそもウィリアムは鯰自体を見たことがなかった。教会で見た絵だけが頼りだった。
(羽を削ぐ。飛ばれたら面倒だ)
出し惜しみはしていられない。鯰は空に飛び、その巨体を地面に叩きつけて大地震を起こすという。そうはさせられない。何万人と言わない人が死んだと、大昔の書物は言う。とても看過できない。これ以上自分のせいで人が死んでいくのに耐えられそうになかった。
――――――能力発動。
ウィリアムは羽の位置を突き止め、馬上でキリキリと弓を引いた。
――――バシュッッッッッッッ
弓は正確に羽を射て、大鯰が暴れ出す。水飛沫が上がった。ウィリアムは追い討ちをかけるように何発も矢を放ち、そして全てを命中させる。
――――――ギョァアアアダヴバァアアアアアアアア
馬を縦横無尽に走らせ、ウィリアムは弓で鯰を狙い続けた。
『あの、ウィリアムさんとリアンのことで話があるとけど』
『息子と義父さんがどうしました?』
未来視の能力を遺憾なく発揮して弓を穿つ。新しい怪物が空から降る中で大鯰に対抗するには、能力を使うしかなかった。
『ウィリアムさんに、この前助けてもらったったい』
『ウィリアムさんには、いつも助けてもらっとる』
『獣が来た時はいつも対処してもらっとるしな』
『んだ、それに近所の子らば集めて字ば教えてくれとるやろう』
矢が鯰の目を捉える。間一髪で避けられた。すぐに追撃。攻撃を休む暇はない。
『あんたみたいな若人が戦争に行っておらん間、ウィリアムさんが頑張っとってくれたっさ』
『だけん、お礼ばしたかなって思っとるとさ』
記憶は、断片から消えていく。ウィリアムは未来を掴むために過去を捨てていった。
『もうすぐでウィリアムさんの誕生日やろう?』
『ああ、あん人はお金ば孫の服ば買うために自分に使わんけんね。自分の服がボロボロたいね』
『ご飯も、ずっと孫やら娘やらにやりよったろう。あん人は大食漢やったとばってね』
『やけん、みんなでご馳走と服ばやろうかいって思ってね』
暖かくて、幸せな、夢のように美しい記憶。
『――――ありがとう、ございます。お義父さんも、喜ぶと思います………………!』
『なんであんたが泣くとや、シャキッとせんかい!』
『すみません、嬉しくて…………!』
剣を取りに家に戻ったウィリアムは、その話を偶然耳にした。初めは息子が困っているのかと聞いていた。どうやら違うらしいと気づいてからは、立ち去るべきだと思いつつ、どうしても気になって、木陰に隠れて聞き耳を立てていた。
『ウィリアムさんは俺たちにとっても兄みたいなもんやけんね』
『あぁ、若いもんにとっちゃあお父さんやけんね、大事にせんばいかん』
『んだんだ、リアンもみんなの息子やしのぉ』
『違いねぇ!』
こんなに幸せで、いいのだろうかと思った。
自分が戦争でたくさんの人を殺めて、傷つけた自覚があった。周りの人はどんどん死んで、自分は歳ばかり重ねていた。後悔ばかりだった。そんな日々が、浄化されていく気がした。幸せすぎて、気が狂ってしまいそうだった。
『よろこんでくれるかのぉ?』
『そこは喜ばせるって言わんと!』
『はははははははっ』
ウィリアムはその年の誕生日に貰った服を長年着ていた。何度も糸を通して、街の人に『いい加減着らんちゃ、新かとば買え!』と言われようと、ずっと気続けた。
その服をプレゼントしてくれた街の人は、あの日、高台の上にいなかった。ウィリアムのせいで死んだ。
『お義父さん』
『おじいちゃん』
『ああ、来たか』
図書館守に就任することが決まった時、王城に呼び出された。ウィリアムの勇姿を見たいと、息子も孫も王城にやってきてウィリアムを讃えた。
『おじいちゃんかっこいい!』
『さすがです、似合ってます』
『そうか』
軍服を照れながら着たのを覚えている。
『今日はご馳走にしようね!』
『俺、キョパを作っておきましたから』
『え』
『好物でしょう。何年一緒にいると思ってるんですか。知ってますよ、そりゃ』
『……』
『喜んでくれました?』
『ああ』
リアンが足に纏わり付いた。よだれがつくと困るので抱え上げると、リアンはウィリアムに頬擦りをした。目に入れても痛くないと思った。可愛くて、可愛すぎて、どうにかなってしまいそうだった。どうにかなっても本望だった。
『ありがとう』
『はい!』
その日の息子の笑顔が、瞳の裏に張り付いている。
『じゃあ、行ってきます』
『帰ってこいよ』
『必ず』
『お父さあああああああん! 行っちゃやだああああああ』
『ごめんなリアン。国の命令なんだ』
『やだよぉおおおおおお』
『じいちゃんを頼んだぞ、リアン』
息子はそう言って、ウィリアムの前から去った。
『父さんがいない間、爺ちゃんが無理しないように、一人で頑張りすぎないように見張っててくれ』
『しないぞそんなこと』
『お義父さんが俺のために無茶したのを知らないとでも?』
『…………』
『都合が悪くなったらすぐ黙るんだから、お義父さんは』
『うん、僕! おじいちゃんを守る!』
『そうだ、頼んだぞ。リアン、でっかくなれよ』
『うん!』
その背中は大きかった。
『お義父さん、リアン。大好きだ、次帰ったら、美味しいものをたらふく食べよう』




