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「あたし、先に帰る」
タルーラが気まずい空間に耐えられずに腕輪を擦ったのは、それから間も無くのことだった。ウィリアムは二人、族長とその家に留まった。
帰る、と言ったからにはリアンとレオナルドのところだろうとあたりをつけ、ウィリアムは構わずその本を読み続けた。族長は腰を抜かしていた。
「あ、れは」
「レウコン様からもらった転移と翻訳ができる腕輪です」
「そんな能力には、どれほどの代償が」
震える声で族長は尋ねる。
「代償はないと神官長がおっしゃっていました。代償がない力を我々に与えたので、レウコン様は弱っていると。だから、メランを抑えているのに精一杯だと」
「そんなことは不可能ですよ」
声だけでなく、体も震えていた。
「その本に記した通り、神が因果律に背くことは不可能です。因果律はそもそも、この世界がつつがなく幸せであるようにと作られたルール。その破壊ができないからこそ、レウコン神はメラン様を倒し、世界樹を倒し、因果律のない、新たな世界を作ろうとしているのですから」
ウィリアムは理解が追いつかなかった。であれば、この腕輪は何を犠牲に動いているのか。
「その本は、どこまで読み終わりました?」
「あ、あぁ。世界樹がすべる世界に現れた人という種族から、レウコン様という突出した存在が現れたところまでです。彼の人が信者を犠牲に、多大な力を得ていることまで」
「疑問に思いませんでした?」
「え」
「宗教を持つレウコンはまだしも、メラン様はじゃあどうして、あんなに力を持っているのか」
ウィリアムは、彼の封印を解いたあの日を思い出す。
『お前を最後に、我の封印は全て解けた』
暴風で崩された図書館から町を見たことを思い出す。火が町を覆い、人々は逃げ惑い、獣たちが人間を襲っていた。まるで悪夢。この世の終わりが来たのだと、あの時強く思った。
『我はこの世界を壊し、正常に再生する』
彼はそういった。
世界を壊し、再生すると。
だから、この世の終わりが来たというあの時の感想は、間違いではなかったのだとウィリアムは知る。
そうしてあることに思い至った。
では、メランは何者なのか。
「彼こそが、世界樹なのですよ。世界樹の意志です」
そう言われてようやく気づいた。目の前の男は、メランのことを、「メラン様」と呼ぶ。タルーラはそう言っていなかった。それを知らないのだと、ウィリアムは気づいた。その前に家出したのだと。
「封印が解けたことは人間以外の生物にとって望外の喜びであり、人間にとっては最悪の状況です。彼の目的は、人間を滅ぼすことなのですから」
目の前が揺れる。それくらいの衝撃だった。
族長はそんなウィリアムに構わず続ける。
「新しい生物を空から降らせるなんてこと、因果律を超越したものにしかできっこない。昔々、先代の勇者がレウコンに頼まれてメランを封印した時に一緒に封印されただけで、元は世界樹がそれを生み出したのです。レウコンや世界樹の意志の分離体でしかないメランも結局、因果律に囚われているのですからね」
「世界樹は、なぜ人間を滅ぼそうと?」
「人間の中の一人が、因果律を超えた存在になろうとしたからですよ。欲が肥大しすぎたからです」
「…………」
「レウコンは世界樹を斬り、因果律を超越して、人が死なない世界を、人間にとって都合がいい世界を作るつもりです」
「じゃあ、メランは」
「ええ。メラン様は世界樹から独立し、レウコンを、ひいては人間を滅ぼすために動いているのですよ」
ウィリアムは黙った。考えた。理解はできた。
「どうかお願いです、勇者様。メランだけではなく、レウコンをも倒して。そんな世界、うまく行くはずがないんです」
タルーラがこれを知れば、さらに烈火の如く怒っただろうとウィリアムは眉を顰めた。全ての元凶はレウコンにあると。そんなレウコンの信者も同罪だと。
タルーラはまだ幼い。反面、すでに十分に年を重ねたウィリアムはレウコンにも事情があったのだろうと推察してやりきれなくなった。
ウィリアムの推察を裏付けるように族長は言う。
「レウコン神が悪いわけではないのでしょうがね。伝説によれば、レウコン神は死から人間を解放するために因果律を抜けようとしているそうですから………………タルーラは、メラン様が世界樹であると知りません。家出をしたのが早かったので、ほとんど何も知らないままでした」
最後まで聞くなりウィリアムはすべきことが見えた気がして声を上げた。
「すみません」
残っていたお茶を一気に飲む。
「この本、お借りします」
「差し上げますよ」
「ありがとうございます」
ウィリアムは荷物を抱えて玄関から出ようと立ち上がった。
「あれ、腕輪を使わないので?」
わかっているくせに族長は言う。ウィリアムは悪趣味なやつだと低い声を出した。
「誰かが犠牲を払っている可能性が少しでもあるのなら、使えません。ゆっくり馬で帰ります」
玄関の扉から消えていくウィリアムを見ながら、族長は軽く笑ってそのまま寝そべった。晴れやかな気分だった。もう何十年も感じていない爽快感。
「俺たち一族の存在意義は、果たされたんだな」
腕で目を覆う。唇は弧を描いていた。
「これからも、伝え続けなければいけないけれど」
腕が湿っていく。仰向けになったまま咳をしたから、体が少し浮いた。
「ごめんよみんな…………タルーラは、いつか分かってくれるかな」
声が震えていた。死んだ仲間が祝福してくれた気がした。その声は、机に置いた花だけが聞いていた。
***
「さっさと獣王倒して出てけよ」
その頃神殿では、リアンとレオナルド、そしてタルーラが神官と揉めていた。
「お前ら見てるだけで不快なんだわ。自分たちのせいでどれだけ犠牲が出たか知んねーで図書館に篭ってばっかなのはなんなん? もしかしてあのこと調べてんの? 嘘じゃねーってわかった?!」
リアンが地を這うような声で言った。
「うるさい」
「本当だったろ? 逃げるなよ? 祖父があんだけ必死なのに孫のお前が逃げ出すとかダルいことしねーよな!」
「…………」
「メランを倒すには人が剣になる必要があるって、お前は剣になる運命だってわかったろ?」
タルーラは勢いよく振り返ってリアンを見た。
「古の勇者たちと同じように、お前は燃える剣になってメランを倒すんだ! ほんとその時のジジィがどんな顔するのか見てーよ」
神官は罵倒を続ける。
「お前の爺ちゃんのせいでセニオ大陸に住む俺の家族は亡くなったんだわ」
一歩、リアンに近づいた。
「あの爺ちゃんも、家族が亡くなればわかるかな?」
一発殴ろうと振りかぶる。神官は、振り下ろそうとしたのに何故か手が動かないことに気づいた。まるで、何者かに手を掴まれているような感覚。気味が悪くなった。
「けっ」
それだけ言って立ち去る。神官がいなくなると、タルーラはリアンの肩を揺すった。
「お、おい! 今の本当なのかよ!」
「調べた限り本当だ」
「爺さんに言わないと!」
「「ダメだ」」
リアンとレオナルドの声が重なった。
「おじいちゃんにはいえない」
レオナルドも続いた。
「僕たち話し合ったんだよ。ウィリアムさんの優先事項の一番はリアンで、そして多分、最近は僕もだ」
それをレオナルドが自覚するほど、ウィリアムはレオナルドにも優しかった。ウィリアムは実際の孫を見るような目をして、レオナルドの好物を差し出すし、口下手なのにレオナルドを楽しませようと、できる限り言葉を尽くしてそばにいてくれた。
「だからきっと、ウィリアムさんは僕たちを守るために一人で挑もうとするだろう。だけど、メランを倒すには、勇者の大切な人が剣になるしかないんだ。今までの勇者をみるにね」
「無駄死には絶対にさせない」
リアンが言った。
「おじいちゃんの命のためなら、それをおじいちゃんが嫌がっても、自我を犠牲に剣になるくらい上等だ」




