異世界転移と銀行狂騒曲
「……夢かな?」
ぶつかった琥珀を抱きとめたその青年が小さく何かをつぶやき、肩に優しく手を置いたまま動かずに固まっている。
そして頬を少し赤く染め深い海の色を思わせる瞳を大きく見開き、じっと琥珀を見つめたまま動かない美しい青年の横、こちらもなかなかに綺麗な顔の男性が何かを訴えるように、その青年の脇腹を肘で突き続けている。
「えっと、すみませんぶつかっちゃって。大丈夫ですか?」
琥珀もすでに三十に差し掛かろうという年頃だ。誰かにぶつかったならばしっかり謝れる大人なので、謝罪するとその青年は我に帰ったように体が大きく跳ねて、琥珀と大きく距離を取るように離れた。
「あ、の……。ごめんなさい。俺は全然大丈夫です。それよりも琥珀さんは大丈夫ですか? 怪我などされていませんか?」
「私頑丈なんでっ! というか、どこかでお会いしたことありましたっけ」
琥珀、と確かに名前を呼ばれたので知り合いだと思うが、当の本人としてはこんなキラキラ美形男子と友達だった記憶はとんとない。大学を出て社会人になっても残念ながらそんな素敵な出会いはなかったが……。
「会った事は……あります。だけど今は琥珀さんと颯さんが何故ここにいるのかという事の方が問題です」
いつ会った事があるのか、それから何か含みがある言い方だなとその真意を問おうとすると、軽く息を弾ませた颯が琥珀の横に走り寄り、青年との話をかき消す勢いで体をがしりと掴まれた。
颯をまじまじ見るとやはり肌の具合が旅に出る前と段違いに違う。
「これどうなっていると思う?」
「わからんけど、颯も肌つるっつるやん。やっぱ若返ってるよね。うちらアラサーだったのに当社比マイナス十歳ぐらい?」
琥珀と颯が己の顔を触ったりしながら肌がハリが違うやら髪の艶が戻ってるなどなど若がっていると思われる個所を確認し合っていると、先ほど琥珀がぶつかった青年が申し訳なさそうに会話を遮った。
「あの、お伺いしたいんですけれど、琥珀さんも颯さんもどうやってここに来たんですか」
「どうやってっていうか、二人で旅行に出かけたんですけど、高速乗った辺りで靄に包まれて……。前を走っている車を追いかけてきたらここに着いたんです。っていうかここ海老名のサービスエリアじゃないんですか?」
声をかけてきた青年が少しだけ困ったように眉を寄せると、一緒にいたもう一人が話を続けた。
「ここは海老名なんだけど、君達がご存じのサービスエリアじゃないんだよね」
「そうだけど違うってどういう事?」
「ここは……」
何やら話しにくい内容のようで、琥珀と颯の出方を仕切りに気にしている。
「若……。彼女たちに、確認したいんだけど」
若と呼ばれたその青年が軽く頷くと、では……と一つ咳ばらいをして話し始めた。
「オレは若……。織田信長様の第一秘書の佐久間。よろしくね」
「おだ……のぶなが……」
「その顔、言いたいことは分かるけど、まずは質問に答えて。君達は靄の中で前を走っていた車についてきたんだよね?」
「その通り。だってあんな靄の中不安だし」
「そう……。オレ達の車についてきちゃったんだね」
琥珀と颯がこくりつ頷くと、佐久間は一度大きく息を吐きだしてから続きを話し始めた。
「まずここは、君達の知っている日本じゃない。最近流行りの異世界と言ったところかな?」
何故信長達のこの世界と、琥珀達がいた世界を行ったり来たり出来るのかは今は説明しないが、ここは琥珀と颯が知っている日本ではないし、パラレルワールドでもない。ここは異世界で、靄の中を信長達の車を追いかけてきてしまった事で、二人はこちらの世界に迷い込んでしまったという事のようだ。
「向こうでは行方不明者として扱われるから……」
「佐久間、もう少し余裕を持って話さんか」
琥珀と颯がうつむきながら小さく頷きながら話を聞いているので、先ほど信長の脇を突いていた方の青年が、二人が気落ちしているのではないかと佐久間の話を遮って優しい笑みを浮かべて二人に声をかけた。
「そうは言ってもな、柴田よ……」
「急に説明されても突然の事で状況が呑み込めないだろう。後でしっかり説明するが、まずは安心して欲しい。こちらでも問題なく生活できるように……」
柴田と呼ばれた男が丁寧に説明しようと接してはいるが、やはり心配だと信長が琥珀の顔を覗き込むと、うつむく二人が高速で瞬きを繰り返したり口をぎゅっと結んだ。
かと思うと、琥珀はカッと目を見開いて隣の颯の頬をぱちんと軽くと叩いた。叩かれた颯も琥珀の頬を軽く叩き返すと急に二人で地団駄を踏み始めた。
傍から見ると急に頬を叩き合った後なんだか怪しい踊りを踊っているようにしか見えないのだが、目には力があるように見えるし楽しそうなので気落ちしているわけではなさそうだ。
信長がほっと安堵のため息をついたのもつかの間……。
「やばくない?」
「やばいな。これさ、もしかして」
「「異世界転移、的な?」」
「お二人ともポジティブ……ですね」
誤ってこちらの世界に迷い込んでしまったと知った琥珀と颯だが、キャッキャとはしゃいでいるその様子からは、沈痛な面持ちは見て取れない。とてもポジティブで寧ろあっけないほどその状況を楽しもうとしている様子だ。
「あの、聞いてます?」
「「聞いてます!」」
まったく話を聞いていなさそうな様子の二人が落ち着くまで、信長は手に持ったまま食べていなかったクレープを食べながら待つことにした。
信長はチョコバナナのクレープを上品に口に含み、少しだけ微笑んで大切そうにさらに食べ進める。
その様子がちらりと視線の端にはいった琥珀は、おや? とつい琥珀は信長に、
「あれ……? あの、もしかして夏祭りでよく食べに来てくれてました?」
その食べている姿を見た琥珀が、その食べ方を見て思い出したように信長に声をかけると、これからもう一口食べようと口を開いたまま固まってしまった。
「すみません、なんか面影がある気がして……。でもあの男の子、私と同い年ぐらいだったから年齢的におかしいか……」
「いえ、人違いでは……ないです…。ここは時間の流れがちょっと違うんですよ。お二人もこちらの時間の流れに乗って、十歳ほど外見が若返っていますし」
「そう! それ、なんで??」
そばにいた颯がずっと気になっていたことを口にすると、先ほど信長の脇腹を突いていた青年がようやく口を開いた。
「先ほどは名乗りを上げず失礼した。オレは柴田と言う。信長様の第二秘書だ。今後ともよろしく頼む」
「は、はい」
若返りは今までこちらの世界に来たものに見られる現象で、おおむね元居た世界の年齢から十歳ほど若返ることが分かっているとのことだ。ただ研究対象が少なすぎてしっかりと謎が解き明かされてはおらず、こちらの世界の時間の流れに準じるように若返るのだろう、という結論に至ったそうだ。
「じゃぁこっちの方が時間の流れがゆっくりしてるのかもしれないね」
「時間がゆっくり流れるのはまぁいいとして、アタシには巻き戻る原理がわからんな」
「私にもそりゃ分からんけど、そこは気にしちゃいけないところなんじゃない? 異世界あるあるで」
「ご都合主義的な?」
「それそれ。ご都合主義的なやつ」
二人の会話が軽快過ぎて、なかなかその会話の切れ目を見つけることが出来なかった柴田だったが、ようやく会話の切れ目を見つけてなんとか割り込む。
「それと大変申し上げにくいのだが、お二人は元の世界には帰れない」
「異世界転移あるある……的な?」
琥珀と颯が先ほどまでの怒涛の会話が嘘のように、その会話がピタリと止まった。
「行き来できる人間はいるが、それは条件を満たしたものだけだ。あなた方二人は向こう側に戻ることは……申し訳ない」
それだけ何とか柴田が言葉にすると、琥珀と颯は急に血の気が引いたように顔面蒼白になって座り込んでしまった。
急に具合が悪そうに座り込んだにもかかわらずなにかを二人でぼそぼそと話をしている。声が小さくて良く聞こえないので心配になって信長は琥珀のそばに腰を下ろした。
「何てこと……。大人として一か月前には退職願出さないとダメじゃん!? 別に引継ぎするような大きな仕事は任されてないけど、休み明けにやろうと思って残してた仕事どうしよう」
「アタシも! データ解析してまとめる予定だったんだけど誰かやってくれるかな」
話している内容が、なんだか思っていた反応と違い信長と柴田に佐久間も動揺を隠せない。もっと、こう……泣いたり呆然としたりするものだと思っていたのだ。
「あとあれよ、貯金」
「それな……」
仕事の引継ぎ云々の話をしている時よりも貯金の話をしている時の方が本気の表情に見えているのは、あくまで見えているだけ……だと思いたいほど真顔である。
「頑張って貯めた貯金は墓には持っていけないとは確かに言うけどさ……」
「琥珀は開業資金で貯金したたの、いくらぐらい貯まってたの?」
「いや、微々たるもんだよ。三百万ぐらい」
「独り身の老後を考えたら二千万は必要って言われる時代、三十で三百万じゃ心もとないわ」
「そう言う颯は!?」
「宵越しの金は持たない主義」
「何それ、男前」
やはり貯金の話をしている時の方が会話に切れがある、と途中まで話を聞いてはいたが話はなかなか終わりそうにない。佐久間はなんとか朗報を伝えようと二人の会話に割り込んだ。
「お二人の使用している銀行は……住重銀行ですか」
「「メインバンクです」」
「それならよかった。あそこはこの世界とふんわり繋がってるんで、多分大丈夫ですよ」
「ふんわり? 繋がってる? でも使えなかったら意味なんて……」
「こちらの世界で日本円が使えるようにも出来ますし」
「なにその究極のご都合主義。ありがたすぎる!」
と言いながらせっせと琥珀も颯も財布の中のキャッシュカードを確認している。財布の中の銀行のキャッシュカードの姿を確認すると軽く拳を握り、佐久間ににじり寄り早口で先を急かす。
「早く、早く! 凍結される前に銀行に行きましょう!」
「アタシのしけた預金でもなんか誰かに取られちゃったら嫌なんでっ」
「ちょっと、落ち着いて、落ち着いてください」
コツコツ貯めていた貯金がなかったことになったりせず、この世界でも使えなら本当にありがたいことだ。
琥珀も颯も、異世界であっても生きるためにはお金が絶対的に必要だと思うからだ。
「引き出せるときに、引き出せるだけ!」
「なにそれ、推せるときに推せるだけ! みたいなの」
こんなに切羽詰まっている雰囲気の癖に、何故か二人の会話はコミカルで楽しくて……。
羨ましいと信長は思いながら一歩前に出て安心させるように、極力ゆっくりと優しい声色で伝えた。
「ふんわり繋がっているだけなんですが、大丈夫です。凍結もされませんしちゃんとこちらの銀行で使えるようにできます。説明しますからこれから一緒に銀行に行きましょう」
颯と向かい合って話をしていた琥珀が、ぐるんと身体の向きを変えて真顔でじりじりと信長に寄って目の前に仁王立ちする。
信長は言えば、目の前で仁王立ちする琥珀を目の当たりにして、顔が緩まないようにと口をきゅっと真一文字に結んで耐え、彼女が次に何をするのかをじっと待つ。
すると琥珀はじっと見上げたまま、こくりと小さく頷き信長の手を取って大きな声で叫んだ。
「いざ、参ろうではないかっ」
大真面目な顔で琥珀が言うものだから、思わず我慢していた顔の表情が緩んでついつい大笑いしてしまったのであった。