第4話 開戦
家康による天皇殺害と新皇帝就任のニュースは日本と世界を駆け巡った。
家康は皇帝への戴冠式を、日本とはなんの関係もない聖公会の宣教師に担わせ、その上国号を神聖東亜帝国と改めた。さらに有効的な各藩を藩主を国王に就任させる。山城国王に徳川秀忠、近江国王に井伊直政、尾張国王に徳川慶勝、美濃国王に本多忠勝、大和国王に榊原康政...などなどである。皇帝家康はこの時点で畿内と東海の半分を掌握していたのだ。さらには長州を含む全藩に書状を送り、神聖東亜帝国への服従を迫った。家康は再び、自分の敵になるか、味方になるかの二択を迫ったのである。
この大変革への諸藩はいかばかりかは想像し難いが、これをきっかけに幕府、長州、薩摩は極秘裏に会談を持った。勤王で団結すべきと言う結論が下され、徳川慶喜は大政奉還を実施。明治天皇を中心とする大日本帝国がわずかばかり早く成立することになった。
しかしこの新生日本は首都である京都を失った状態から始まっており、英国との友好関係も不安定な、実に存立基盤の危うい国家であった。
鳥羽伏見で睨み合っていた両軍主力部隊だが、家康は侵攻と調略により次第に支配地域を広げ、敦賀、舞鶴、津などの港を確保して積極的に海外交流を行い始めた。各国の宣教師達に働きかけ、東亜におけるキリスト教の擁護者たらんと広めたことで、西欧諸国やアメリカ、ロシアなどの好意的態度を得て国交を結び、言うまでもなく大日本帝国との断交を要求した。特にイギリスはこの新しい革新的リーダーの登場に非常に興味を持ち、難癖をつけて幕府艦隊を挑発し撃沈するなど、薩英戦争以来の外交方針を完全に転換した。
家康はさらに先進的な法整備も進め、各王国に広範な自治権を認めつつも軍事的には皇帝へ権力を集中させる、徳川憲法を制定した。急速に近代化していく徳川方に対し、薩長も追いつこうと必死に近代化を進めようとしたが、家康の根回しにより欧米先進国からの支援が完全に打ち切られたため、その速度は史実より非常に遅れることとなる。
徳川と維新政府の戦力差は徐々に開きつつあった。現状に耐えられなかったのは、西郷隆盛である。家康が挑発するように陣取る京へと兵を進め、奴の首を取らねば日本は滅亡すると明治天皇と徳川慶喜に力説したのである、奇しくも慶応4年1月3日〈1868年1月27日〉、明治天皇率いる日本軍は、朝敵家康征討の大号令を発し、錦の御旗を掲げつつ戦端を開いた。