第3話 家康上洛
家康が近江で禁教令を解除したことは、彼が幕府権力を尊重しないという明白な意思表示となった。
幕府内では、家康を名乗る不届き者を成敗しようと言う機運が次第に高まり出す。
各藩も、幕府でも長州でもない、突然現れた第三の選択肢に困惑していた。家康は武力による恫喝と親藩や譜代への調略をすでに開始しており、近江一帯の確保に成功し、御三家筆頭である尾張藩の事実上の藩主徳川慶勝と会談するなどして、ちゃくちゃくと勢力を広げつつあった。
そして家康は保有する軍に加えて尾張藩を筆頭とする諸藩を加えた連合軍を結成し、京への進軍を始めた。
徳川家茂は心労のあまり病に倒れてしまい、揉めに揉めた末史実通り水戸藩の徳川慶喜が将軍職に着いた。
ことここにいたり、幕臣の圧力に負けた慶喜は天皇陛下に懇願し家康征討の勅命を頂いた。
朝敵となってしまった家康。絶対絶命のピンチかと思えば、彼には幕末の尊王思想などかけらもない。天皇など脅せば言うことを聞く存在だと信じているし、それでも従わないのなら......その選択肢すら彼は排除しない覚悟なのだ。
家康の大軍を迎え撃つのは、会津藩と桑名藩、慶喜の出身である一橋家からなる幕府軍。しかし幕府軍は天皇の手前、禁門の変で京を半壊させたこともあり鳥羽・伏見まで撤退し洛内をガラ空きにしてしまった。
家康は瀬田を突破すると山科を占領し、8割強の部隊を持って京の都へ突入、これをほぼ無血占領することに成功した。
「やってやりましたな殿、いえ上様」
忠勝が上機嫌で家康に話しかける。ここは御所の、しかも内裏である。天皇家の住む内裏を完全包囲した家康。天皇陛下を守るため決死で居残った薩摩藩兵は死に物狂いで抵抗を行ったが、兵力差がありすぎたのだ。決して少なくない損害は出してしまったが、家康ついに日本の中心、禁忌とされる場所に土足で足を踏み入れたのである。
「そなたが、徳川家康と申すものか」
自らの最後を悟ってか、孝明天皇は高御座に座し、その時を迎えた。
「朕は統仁、今の上である」
「孝明帝におかれましては.......否、単刀直入に申し上げましょう。家康を養子にしてくださり譲位なされば、御命はお助け申し上げ奉ります」
「朕の一存で臣下を帝とするなどできぬし、日の本のしきたり全てを否定するものではないか」
「ならば......」
家康は自ら刀を抜き、高御座の前まで歩み出た。
「一族郎党、御命頂戴仕り候」
神武以来2000余年に渡って維持されてきたY染色体は、徳川家康の刃によって潰えることとなった。
幕府は明治天皇を即位させたが、三種の神器を掌中に納めた家康は、それを京の町衆や外国人記者達の前で破壊し、自ら皇帝家康と名乗りを上げたのである。