第1話 関ヶ原
その日の関ヶ原には深い霧が立ち込めており、桃配山からは西軍の様子を窺い知ることはできなかった。張り詰めた戦場の空気の中、家康は苛立っていた。勝ち目は見えている。吉川小早川を抑えている以上、関ヶ原に展開する両軍の戦力差は決定的と言ってもいい。それこそが問題なのだ。
展開する東軍の主力部隊は徳川家の本隊ではない。福島正則、黒田長政、細川忠興といった豊臣恩顧の大名達だ。家康の大義名分は豊臣政権を反逆者から守ることであるのだから当然の成り行きなのだが、彼の目的は言うまでもなく、自ら天下に名乗りを上げることである。秀吉ならともかく、彼の子かどうかも怪しい秀頼に忠義を尽くすつもりなど、今の家康にはさらさらない。だというのに、秀忠率いる徳川家の最精鋭部隊は中山道の山の中だ。
苛立つ家康の座する本陣に、赤い甲冑に身を包んだ一団が現れて頭を下げた。
「殿、お呼びでしょうか」
「直政、忠吉。この戦いは天下分け目の戦いになる。その戦いの先陣を切るのは、徳川の直臣でなければいかん。言いたいことがわかるか」
直政と呼ばれた、まだ若い武士は口角を上げて頷いた。
「忠吉、これを使え」
家康は馬廻に命じ火縄銃を持ってこさせ、それを自らの手で忠吉に差し出した。忠吉はその銃に手を取ろうとしたが、家康は銃を握ったまま離さない。
「いかがなさいましたか、父上」
「妙じゃ。空気が変わった。何かがおかしい」
奇妙な温度が戦場を包み込み、猛烈な風が霧を瞬時に吹き飛ばした。
将兵達がざわめき始めた。霧が晴れた時、そこにあるべきものが失われていた。桃配山の麓にいたはずの、万を越す豊臣恩顧の大部隊は姿を消し、戦乱とは無縁の、長閑な村の日常がそこにはあった。