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パーティーが終わり、フロランスは会場を出てユーグ王子と別れ、自分の控え室まで戻るところでした。最初から最後までぶっ続けで踊り続けたせいで、足はパンパン、膝はちょっと震えています。汗も掻いたし、くたくたでした。それなのに、どこか晴れやかな気持ちです。
間もなくパーティーの参加者も会場を出るころでしょう。思ったよりも賑やかになったパーティーです。大きな粗相もなく終えられてよかったと、胸をなでおろしたフロランスでした。ダンスが終わった時、ユーグ王子がふざけて頬にキスしてきたのには驚きましたが、それも受け入れられるくらいには、せいせいした気持ちだったのです。
ふと、足音がして振り返れば、お付きの者を数名従えた王妃殿下がこちら向かって歩いてくるではありませんか。王妃殿下のお部屋はまったくの別方向。となれば何か自分に物申したいことがあるのか。フロランスは身構えました。
王妃殿下はフロランスの前までくると、優雅にスカートをつまんでお辞儀しました。
「フロランス・エモニエ嬢」
「はい」
(何、何、何? 私ひとりに文句言うためにここに来たのかしら)
フロランスはぐっと顎を引き、目に力をいれました。
しかし、王妃殿下はかすかに頬を緩めました。
「粗が目立ちましたが、……素敵なダンスでした」
王妃殿下が微笑むところを見るのは、初めてでした。花の蕾がほころぶような美しさに、フロランスはしばし言葉を忘れます。妃殿下はもう一度一礼すると、フロランスの横を通り抜け、廊下の向こうへ消えようとしました。
「あ、あの! 王妃殿下のダンスにはとても敵いません。今度、また踊って見せてください。お手本にさせていただきたいのです」
背後から声をかけるなんて失礼だったかしら。そう思ったフロランスでしたが、王妃殿下は角を曲がるときにもう一度、ふわりと微笑んでくれたのでした。
パーティーが始まるまでに燃えていた気合がゆるゆると鎮火し、胸の中で温かなものに変わるようで、くすぐったい気持ちです。
フロランスがそわそわと髪をかきあげると、どんと背後から何かがぶつかりました。
「お姉ちゃん、婚約改めておめでとう」
「ヴェロニク!? ヨランドも? ……あっ、お母様まで」
着飾ったヴェロニクが、フロランスを抱擁したのでした。数人の案内人に先導され、エモニエ家の人たちは、今宵開催される両家の晩餐会まで休む部屋に向かっているところでした。すでに一度、両家で顔合わせはしたのですが、今宵は正式な顔合わせの晩餐会です。一体何度顔合わせするのさ、とフロランスがうんざりしていたのは本人だけの秘密です。
「まったく……。だからあれほど、普段からダンスの練習はしておきなさいと言っていたのに」
「うっ、ごめんなさい、お母様……」
「でもでも、よかったわねお姉ちゃん。自伝を書いて印税生活しなくても良さそうじゃない? なんだかんだ言って、やっぱり愛ある結婚よりよいものはないのよって、お母さまが言っていたわよ」
ヨランドがにっこりして耳元で囁いた言葉に、フロランスは頭の天辺まで赤くなりました。
「ほら、お姉ちゃんの王子様が来たわ。また晩餐会でね~! しっかりやるのよ」
手を振って去っていく家族たちを見送って、フロランスは廊下の向こうを振り返ります。
家族の話が終わるのを待っていてくれたのでしょう。ユーグ王子がゆっくりと歩いてきました。
「部屋までお送りしますよ、フロランス。本当は歩くのも辛いでしょう?」
そう言って、王子は手を貸してくれました。踊っている時は気分が高揚していてあまり感じなかった足の痛みは、どんどん強く辛くなっています。腕を支えてもらうと、少しだけ楽になりました。
「ひとりで歩けますけど」
「そう強がらない。それとも、僕と腕を組んで歩くのが恥ずかしいんですか?」
「いいえ、別に。寄り添っているのは、足が痛いからです」
つんとそっぽを向いたフロランスの斜め上から、噛み殺した笑い声が降ってきました。
「憎まれ口ばっかりきいていると、この前のように抱き上げてしまいますよ」
「遠慮します」
仕方なく、フロランスはユーグ王子に寄り掛かるようにして歩き始めました。
「部屋に帰ったら足の手当をしてあげます」
「マルゥカにやってもらうから大丈夫です。それより……その、ユーグ王子こそ、大丈夫ですか。私、何度も王子の足を踏みました」
フロランスが気まずげに視線をさまよわせると、ユーグ王子殿下は朗らかに笑いました。
「覚えているだけで四回踏まれました」
「すみません……お怪我は」
「大丈夫です。気にしないでください、そんな些細なこと」
「でも、ごめんなさい」
「ふふふ」
王子殿下は、フロランスに合わせたゆっくりとした歩みを続けながら、こらえきれないというような様子で吹き出しました。
「あなたの靴で顔面を殴られたって大丈夫だったんですよ、僕は。踏まれたくらいどうってことないです」
「あっ、今あのことを持ち出すんですね? あれはそもそも王子殿下が急に足にすりすりしてきたからいけないんです」
「これからは堂々とすりすりできそうなのでホッとしてます」
「変態ー! くっ、やっぱり私は選択間違えたのか……っ」
身を離そうとしたフロランスでしたがユーグ王子殿下の腕の力はなかなか強く、逃げ出せないまま部屋に到着してしまいました。
ドアノブをひねって、ユーグ王子がそのまま部屋に入ってきそうな勢いだったので踏ん張ってフロランスは廊下に引き止めました。
「もう! ここまでで大丈夫です! ありがとうございました!」
「足の手当をする約束じゃないですか」
「マルゥカにしてもらうんで大丈夫ですってば!」
なんとなく、ユーグ王子に部屋に入られるのは気まずいような気恥ずかしいような気分で、フロランスは抵抗します。ユーグ王子が首をかしげると、さっき、ダンスの終わりに頬にキスをされた時を思い出してしまい、勝手に頬が熱くなるのでした。
「そう言いましても……、もう試着してもらうために、春の新作コレクションをあなたの部屋に運び込んでしまったのですが」
「は?」
ドアが開ききった部屋は、足の踏み場がないくらい、床一面に色とりどりの靴が並んでいました。マルゥカと他二人の侍女が、窓際に立ってフロランスに苦笑してみせます。彼女たちが歩いてドアのところへ来るのも大変そうな状態でした。
「お気に召しましたか、フロランス。好きなものを好きなだけ手元に残していいんですよ。僕からの婚約記念のプレゼントです!」
「わーい……ありがとうございます……」
上機嫌で、手前にあった靴を一足手に取るユーグ王子の顔を見て、最後はフロランスも苦笑したのでした。
変わった趣味のある王子様ですが、……そして、考えていた結婚ともだいぶ違う形になりそうですが、それも悪くないかもな、と。
数カ月後、結婚式まで、王子の足グッズの贈り物攻撃は、止むどころか加速する一方で、何度かフロランスは自分の選択を後悔したのでした。
しかし間断なき贈り物の波状攻撃も、フロランスのガラスの靴が、星辰の間のキャビネットに並ぶとやがて落ち着きました。
フロランスの瞳の色にあやかった琥珀の踵を持つガラスの靴は、彼女の生涯に渡ってキャビネットで輝き続けました。ユーグ王子とフロランスは後世に残る有名な靴メーカーの創立に携わり、仲良く楽しく賑やかにたまにくだらない喧嘩をしつつも、兄王の世を守り立てたそうです。後に王家の仲良し夫婦と語り継がれる二人でした。
さて、キャビネットのフロランスのガラスの靴のすぐそばには、長らく空白を乗せていた白いクッションがあります。クッションの上にあったガラスの靴は何かの弾みに行方知れずになったのです。
今はそのクッションの上にも、小さく美しいガラスの靴が一足乗っています。
一度盗まれたとある王妃のガラスの靴がいつの間にか戻ってきたのだとも、王への心を思い出した王妃がもう一度作らせたものだとも言われていますが、真相は定かではありません。
<了>