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フロランスは城に上がるたび、ユーグ王子の都合がつく範囲でダンスの練習に付き合ってもらっていました。近頃はなかなか息があうようになり、足元を見なくともターンもできるようになったのです。自宅で、ヴェロニクやヨランダに稽古をつけてもらっている甲斐があったというものでした。
しかし、根を詰めて練習して、少し困ったことになりました。
(ううう……まめが痛い……)
やりすぎて、足のまめを潰してしまったフロランスでした。手当てしたものの、婚約発表パーティーまであと一週間ともなれば、ゆっくり養生などしていられないと、また練習を繰り返し、足の裏はなかなかひどいことになっているのでした。
それでも、お城でユーグ王子と練習できる機会は毎日あるわけじゃないので、貴重です。
痛みを我慢して、王子と一緒に練習しようとホールまで来たのですが、組む前にユーグ王子が首をかしげました。
「フロランス、あなた、足をどうかなさいました? 歩きかたがおかしいですよ。わずかに重心がずれています。いつもより右ですね」
「重心? なんのことです?」
「足に怪我でもしたんじゃないですか?」
ユーグ王子の深い青色の目が、じっとフロランスを見つめます。居心地の悪さを覚え、フロランスは眉間に皺を寄せました。
「何をおっしゃってるんだか。この通り、ぴんぴんしてますけど」
軽くステップを踏んでみせたフロランスでしたが……。
(いったあああ! まめ潰れたところ、めちゃくちゃ痛い! でも、ここで足が痛みますとか言ったら、絶対、練習付き合ってくれないよね、ユーグ王子)
怪我を告白した途端、「美しい足に傷跡が残ってしまったらどうするのですか!」と目を血走らせて叱られるのだろうと、フロランスは心配していたのでした。もう、本番まで猶予はないのに、そんな悠長なことを言っていられません。
「……無理はしないでくださいよ、フロランス」
「わかっています。私だって、練習のしすぎで本番の日に踊れませんでしたー、なんて間抜けなこと、一番避けたいですもの」
(そうよ。王妃殿下の前で、きちんと踊って見せなきゃいけないんだから)
気合じゅうぶんのフロランスを見て、ユーグ王子はなんとか納得してくれたようでした。いつものように組んで、二人の練習ははじまります。まだ課題は残るものの、形にはなってきたとフロランスはほっとしました。
(さて最初の難関のステップだわ。昨日、さんざん練習したからきっとうまくいけるはず)
全集中力を足に注いで、フロランスは細かく素早いステップを踏みました。
「四、ニ、三……やった!」
王子殿下の足を踏まずに、このステップをこなせたのは、初めてのことでした。嬉しくなって、ぱっと顔を上げると、ユーグ王子殿下も笑顔でした。
「やりましたねフロランス」
穏やかな笑みをいつも浮かべているユーグ王子ですが、今回のは無邪気な、少年のような笑みでした。初めて見る婚約者のその顔に、フロランスはうっかり、集中力を切らしてしまったのでした。
まめが潰れてじくじくしているつま先で、どんと王子の足を踏んづけてしまいました。
「いっ……!」
あまりの痛みに、フロランスは片足立ちになってぴょこぴょこ跳びました。重いドレスを着ているのに身軽です。驚いたのは、王子殿下で、慌ててフロランスの腕を支えました。
「フロランス?! 大丈夫ですか?!」
「大丈夫です! ぶつけただけで」
「ちょっと見せてください」
言うが早いか、ユーグ王子殿下はフロランスのスカートをひっつかみ、右足首を捕まえました。立ったまま片足を掴まれたフロランスは体を傾がせながら、悲鳴を上げるしかできません。
「ぎゃあああっ!? ちょ、殿下殿下! やめてください、無理無理無理!」
大慌ててスカートを戻そうとするフロランスでしたが、思い通りにできませんでした。すっ転びそうになって、しゃがみこんでいるユーグ王子殿下の頭に捕まる形になります。ホールには、ダンスの講師と曲を演奏するピアニスト、数人のお付きの人がいますが、皆、王子殿下の奇行にぎょっとして一瞬反応が遅れました。
殿下はその間にもフロランスの靴を奪い取りました。
おそらく、レースの靴下に血が滲んでいるさまを、王子殿下は見つけたのでしょう。
「まったくあなたという人は! 無理しないと約束したでしょう」
珍しく怒った調子でそう言うと、ユーグ王子は立ち上がり、フロランスを担ぎました。
「ぬおあああっ! 殿下、やめて離してください!」
「暴れないでくださいフロランス」
「これで暴れないとか、無理でしょーーーー!!」
まるで荷物のように肩にひょいっと担がれ、両足は完全に浮いています。驚いた顔の講師やお付きの人と目があって、フロランスはかああっと赤面しました。
ユーグ王子殿下はお構いなしに、フロランスを運びます。目指す先は、彼女が泊まっている客室でした。
「やーだー!! 離してえええっ! 自分で歩けますからあっ」
じたばたしたものの、ユーグ王子殿下は離してくれそうにもありません。かくなるうちは膝蹴りかとフロランスは考えました。
「フロランス、これ以上暴れるなら、お姫様抱っこにしますよ」
冷酷な声がして、フロランスはしゅんと静かになりました。お姫様抱っこされたら、きっと、自分は立ち直れない。そう悟ったのでした。
ほどなくしてたどり着いた客室のベッドに、王子殿下はフロランスを座らせました。
「殿下ありがとうございました。まめが潰れただけで、自分で手当てできますから、だからその、大丈夫ですってっ!」
ベッドの前にひざまずき、足首を掴んだ王子殿下から逃れようと、フロランスは暴れます。しかしユーグ王子は頑なでした。
「無理しないと約束したのに嘘をついたあなたの『大丈夫です』は信用なりません。暴れるとスカートの中が見えますよ」
「マルゥカ! マルゥカ呼んでくださいってば」
「……」
「無視かーーー!」
ひととおり騒いでみたものの、あからさまに不機嫌そうに眉間に皺を寄せたユーグ王子殿下を見るのは初めてのことで、フロランスは内心戸惑い、おとなしくなりました。スカートを押さえ、じっと自分の足を見つめます。
白いレースの靴下のつま先には血がにじんでいました。練習前に薬を塗りガーゼを当てておきましたが、踊っているうちにガーゼはずれてしまったのでしょう。
フロランスの足の甲を包む花模様のレースを王子殿下は掴みました。そして左右にひっぱります。びっと音がして、靴下は裂けました。
「ちょ……殿下、何を」
「靴下を脱いでいただかないと手当てができませんが、まさか脱いでもらうわけにはいかないでしょう」
靴下は腿で吊っているので、脱ぐためにはスカートを持ち上げるか、スカートの中に手を突っ込むかしなければなりません。
フロランスは居心地悪さに足を引っ込めようとしたのですが、またも王子の手に阻まれてしまいました。指が長く、手の甲はややごつごつしていますが、美しい手です。その手が、慈しむように、レースの切れ端に包まれたフロランスのつま先をそっと顕にします。傷みやすい果実の皮を剥くように、慎重な手付きでした。
スカートを押さえたまま、フロランスはじっとしていました。怖いのとも違う、いたたまれない気持ちで心臓がどきどきしています。
傷口を確認したユーグ王子殿下は、はあ、と深いため息を吐きました。
「これで痛くないわけありませんよね。練習のしすぎです。まったく、負けん気が強いのはいいですが、加減というものを覚えてください。本当に、当日踊れませんでしたということになりかねませんよ。それでいいのですか」
「うっ……、すみません……」
素直に謝ったフロランスを見て、ようやくユーグ王子殿下は頬を緩めてくれました。どこからか取り出した軟膏を患部に塗ってくれます。そして、騒ぎを聞きつけて駆けつけた侍女が差し出した薬箱から、ガーゼを取り出し包帯を細く割いて固定してくれました。
「しばらく安静にするんですよ」
「でも、それじゃあ練習が間に合わないじゃないですか。王妃殿下に、完璧なダンスをしてみせるって言ってしまいました」
「もし当日失敗したら、僕も一緒に謝ってあげます」
「私が言い出したことです。王子殿下まで謝っていただくことは」
解放された足をスカートの中に隠して、フロランスはぼそぼそと言いました。
さっきまでユーグ王子が触れていた足の甲や指先が、火に当たったように熱く感じます。ドアが開けっ放しの部屋の前まで駆けつけて、はらはらした様子でこちらを見守っている使用人たちの視線も気になります。ですが、ユーグ王子から視線を逸らせませんでした。
「失敗したら一緒にドブに突っ込めばいいって言ったのはあなたですよ、フロランス」
からかうように言われて、フロランスは言い返せませんでした。晴れ晴れとした顔で言質をとられてしまったからかもしれません。
その夜、フロランスはなかなか寝付けませんでした。
手当てをしたその後もしばらく、ユーグ王子はフロランスに「痛みは?」「無理をしないで」と優しく声をかけてくれたのですが、一度も足のことを持ち出しませんでした。
(『あなたの足に傷が残ったらどうするんですか』とか言うのかと思ったのに)
考えてみれば人として普通の心配をされただけなのに、フロランスはどうしても、ユーグ王子の必死のような怒ったような顔を思い出してしまい、夜明けまで眠れなかったのでした。彼女の寝不足は、しばらく続き、ユーグ王子に今度は体調不良を心配される羽目になったのでした。




