閑話(ユーグ王子視点)
第一王子の生誕祭のパーティーで、ユーグ王子殿下はひとり中庭を歩いていました。というのも、パーティーの最中、国王陛下と王妃殿下のダンスがあるのですが、王妃殿下は気分が悪いと言って中座して、ダンスの始まる時間になっても戻ってこなかったからです。妃殿下を迎えに行くため、ユーグ王子は人の多い廊下ではなく、中庭を突っ切ることにしたのでした。
(また母上に嫌われるだろうな。どうせ母上は父上とのダンスを断るだろうし)
わかってはいますが、兄の第一王子殿下は主役なので中座するわけにいかず、父の国王陛下もそれは同じ。となると、王妃殿下をお迎えにあがるのは、ユーグ王子殿下以外になせぬことでした。使用人が部屋に伺ったところで追い返されるのが目に見えているからです。ユーグ王子がお迎えに行ったところで、王妃殿下がホールに戻ってくださる保証はありませんでしたが。
かつて、ガラスの靴を愛の形と語った母は、父への不信感を募らせています。ガラスの靴自体、どこかへ消え失せ――まるで自分たち家族の行く末を案じているようだと、ユーグ王子は暗く思うのでした。
ふと人の気配を感じ、ユーグ王子は道を逸れました。この時間は、中庭は閉鎖され、一部の者しか出入りできません。
(だれが……?)
ベンチにどっかり座り、スカートを膝までからげ、右太ももに左足を乗せた娘が、そこにはいたのでした。
◆
(う~ん、まさか、諾と返事してくるとは)
ユーグ王子殿下は、フロランス・エモニエ嬢からの婚約承諾の連絡に、内心困惑していました。
ご自身のご趣味があまり一般的ではないと王子自身がわかっております。それゆえ、うっかりフロランス嬢にしてしまった仕打ちは、嫌悪されて仕方ないともわかっているのです。
それでいて、なぜ婚約を申し込んだのかといえば、ダメ元で、もしかすると自分の趣味に理解がある人と巡り会えるかもしれないと一縷の望みをかけたからでした。これまでの婚約者殿たちは、純粋培養のご令嬢で、自分の趣味を受け入れるだけの度量がなかったのかもしれない、と。フロランス嬢が、他のご令嬢のように非常時に気を失ったり、泣き出して行動不能になったりすることもない、自力で反撃してくる根性のある娘だとわかっての期待でした。
あの素晴らしい足を持つ娘に、自分の傍にいてほしいという下心もありました。彼女の足は素晴らしい。あまりに足ばっかり見ていたので、人相書きを作成するときぼやっとしか顔が思い出せず、非常に曖昧な絵になってしまったのを悔いたほどです。
しかし、一度言葉を交わしたときのフロランス嬢の様子で考えれば、まず、婚約は本人が承諾しまい、と期待していませんでした。
するとしたら、……親を気遣って。
城に抗議にやってきたときのフロランス嬢を、ユーグ王子は思い出します。
血の繋がりのない継母の肘を、守るように支えていました。実は、彼女たちが言葉をかわしているところを、廊下の後ろからちらりと見たのです。そこには互いを気遣う思いやりや愛情が、端々に見て取れたのでした。
父である国王陛下から聞かされたことには、エモニエ夫人はユーグ王子とフロランスの婚約を喜んでいたそうなので、夫人を気遣ってフロランスが婚約を承諾したのかもしれないとは考えました。フロランス自身も、亡夫の娘という微妙な立場で思うことがあったのかもしれません。
仲の良さそうなエモニエ母娘を見ていて、ユーグ王子殿下は胸に疼痛を覚えました。ご自身の母君とは、決して良好な関係が築けているとは言えないからです。
とまれかくあれ、どんなめぐり合わせでも婚約は婚約です。
フロランス嬢が何を理由に婚約を受けると言い出したのかはわからないままに、ユーグ王子は彼女が喜んでくれそうなものを毎日エモニエ家に送りつけるのでした。
それは彼女の素晴らしい足への憧憬でもありましたが、別の気持ちもあったのです。いずれ彼女と婚姻を結んだ時、血のつながらない家族とも愛情を持てるフロランスとなら、自分にも少しは愛情を持ってくれるかもしれないと。
王家の長い歴史を振り返れば、それを手に入れるのは大粒のダイヤモンドを入手するよりはるかに難しいことだと、簡単にわかるものなのですが……ユーグ王子はどうしても期待せずにはいられなかったのでした。
◆
王妃殿下に喧嘩を売って以来、フロランス嬢は王城へやってくると必ず、ユーグ王子殿下とダンスをしたがりました。
フロランス嬢は、一度社交界を離れたせいか、ダンスはあまり得意でないようでした。身軽なのですが、ぎこちないのです。ユーグ王子殿下は、何度もすねを蹴られ、足を踏みつけられました。この腕前で、よく、王妃殿下に喧嘩を売ったものです。
練習をはじめ、小一時間。音楽はちっとも前に進まず、同じところを繰り返しています。
ユーグ王子の足を踏みつけるたびフロランスは集中力が散り、動きがぎこちなくなります。
やっているのはダンスの練習だと言うのに、フロランス嬢は難問に苦しむように眉間に皺を寄せます。苦手な箇所に差し掛かるとこの顔をします。
ターンが上手くいったり、スムーズに難しい箇所をこなせた時は、宝物でももらったかのようにぱっと笑顔になるのです。
(ふふ……)
ユーグ王子殿下は、ダンスの練習ははじめ、フロランス嬢のスカートの下の足の動きを想像して楽しんでいました。近頃は新たな楽しみ方も覚えました。彼女の表情の変化の観察です。今まで足ばかり気にしていたのですが、フロランス嬢の百面相は、見ていて飽きません。
不思議なことに、足ではなく彼女の表情の変化に夢中になってしまうことも増えました。夜寝る前に、明日はどのような靴を贈ろうかと思うことばかりだったのに、今日はフロランス嬢はどんな表情をしていたっけと思い返すことも増えたのです。
フロランス嬢自身は、自分がちゃんと踊れるかに注意を払っているので、王子がじっくり自分のことを観察しているなんてきっと気づいていないでしょう。
顔合わせの晩餐会のとき、家族の誰もがどう扱っていいかわからないでいた王妃殿下を、ひたりと正面から見返して言い返したフロランス嬢の姿を、ユーグ王子はこのところ毎日のように思い出します。
あれは本来、立場的にかなりよろしくないことではありました。口を慎むよう、王妃殿下に叱責されても仕方ありませんでした。場合によっては国王陛下や兄王子らに叱責される可能性もありました。一番いいのは、ユーグ王子殿下が諌めて場を収めることでしたが、王子が口を開く前に王妃殿下が普通に受け答えをしたことで、お咎めなしになったのです。
あそこで、少しの嫌味を含みながらも、母がフロランス嬢と話をしたことは、ユーグ王子にとっても驚きでした。王家の誰とも距離を置き、心を許そうとしない王妃殿下が、叱責もせず、無視もしなかった。何かフロランス嬢に言いたいことでもあったのでしょうか。
ユーグ王子殿下は、はじめてのダンスの練習の場に突然やってきた母君の姿を思い出すのです。練習に必死だったフロランス嬢はきっと気づかなかったでしょうが、ターンの時に一瞬見えた王妃殿下のお顔は、――辛そうで、寂しそうに見えました。……フロランス嬢のことを羨ましげに見ているようでもありました。
(あなたは不思議な人です、フロランス)
何がどう不思議なのかもわからないまま、ユーグ王子殿下は、くるくる変わるフロランスの表情を観察するのに没頭するのでした。




