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「すみませんでした、ユーグ王子。私、……頭に血が登って」


 ひんやりした廊下の空気にあたりながら少し歩くと、頭が冷えてきたのでした。フロランスは足を止め、王子に頭を下げました。とんでもない失態だと悔いる気持ちが産まれます。夫となるユーグ王子殿下にだって特別な晩餐会だったのに、彼まで巻き込んだのです。


 廊下は警備の者がひとり目の届くところにいますが、会話までははっきり聞こえない距離です。


「いいんですよ。むしろ、……ちょっとほっとしました」


 ユーグ王子は、穏やかな口調でそう言いました。


「ほっとした?」

「ええ。母の態度はまあ、いつもどおりですが、ああなると普段は、誰も何も言えず――嫌な言い方をすれば、はいはいと言うことを聞いて、相手をしないことで避けていました。腫れ物扱いと言いますか」

「噛み付いた方がよかったと?」

「そういうわけじゃありませんが」


 ユーグ王子殿下はフロランスに手を差し出しました。別に手など預けずとも歩けると、エスコートを断ることを考えたフロランスでしたが、おそらく自分や家族に気を使ってあの場を切り上げてきたユーグ王子をすげなくするのは、なんとなく心苦しく、不承不承ながら手をとったのでした。


 夜の城の廊下は、歩くのに必要な光量が確保されているのにかかわらず、どこか寂しい印象でした。広いからそう思うのかもしれません。パーティーの時はたくさんの人が行き来していましたが、今は要所要所に警備の者が立っているだけですから。


 しばらくふたりは無言でした。

 フロランスは、廊下の素晴らしい寄木細工の床に感動することも、天上の美しい絵に感嘆のため息をもらすこともありませんでした。妃殿下のことや、ユーグ王子の先程の言葉の意味を考えるので忙しかったのです。

 だから、自分の手を引くユーグ王子殿下の足取りが、どこか楽しげだということにも気づきませんでした。


 何度目かの角を曲がると、王子殿下が足を止めました。両開きの大きな扉がありました。


「ここをあなたに見ていただきたかった。この星辰(せいしん)の間には、代々王家に嫁いだ娘たちにゆかりのある品が収められているのです。本来でしたら、婚姻が成立してから案内するのですが……特別に」

「まーたそんなことして、妃殿下にねちねち嫌味言われますよ」

「いいんです。慣れてますし」

「あっそうですか……」


 王子殿下がドアを開けます。

 星辰の間の床は円形で、星を模したモザイクタイルが見事でした。壁には縦長の窓列がぐるりと並び、分厚いカーテンは開け放たれています。

 見上げたドーム型の天井もほとんどの面積が窓で、クリノリンを頭に被ったらこんな感じかしら、とフロランスは思いました。


 明かりはない部屋ですが、月明かりと星明かりで十分足元は見えるのでした。


 ユーグ王子は、フロランスを壁際にいざないます。壁に並んだ窓の合間合間には、歴代国王と王妃の肖像画が掛けられているのでした。そして、肖像画の足元に背の低いガラスのキャビネットが置かれ、中に収められた何かが、星明かりと月明かりを透過してきらきらしていました。


「御覧ください。こちらが、王家が代々作ってきた『ガラスの靴』です」


 王子が指し示したキャビネットの中には、ガラスでできた靴が収められていました。どれも少しずつデザインが違います。ミルクガラスのように淡い色がついていたり、中に宝石を埋め込んだものもありました。


「綺麗ですけど、実用性皆無ですよね」

「あはは、あなたならそう言うんじゃないかと思いましたよ、フロランス」


 いつの間にか、ユーグ王子殿下に呼び捨てにされていたのですが、フロランスはそれについては特に気にせず、肩をすくめました。


「じゃあなんで連れてきたんですか」

「あなたにぜひ見ていただきたかったからですよ、この靴たちを。そして、王家のガラスの靴について、知っていただきたかった」

「別に実物を見なくとも、王家のガラスの靴のお話は知っています」


 この国の王家は、代々、よそから娘が嫁いでくると、夫婦が将来仲睦まじいようにと祈りを込め、妃殿下の足に合わせた唯一無二のガラスの靴をこしらえるのでした。というのも、開国の祖である初代国王陛下が、魔法使いに依頼して王妃にガラスの靴を与え、生涯の愛を誓ったという逸話があるのです。

 それは、この国の子供ならたいていが知っているおとぎ話でした。


 もちろん、ガラスの靴は歩くためのものではありません。夫婦仲がよいことの象徴です。


 解説したフロランスに、ユーグ王子は微笑んだまま首を横に振りました。


「それは表向きの話なんですよ」

「……どういうことですか?」

「実は、初代国王陛下の王妃殿下は、大層恋多き女性だったようでして。初代陛下は妃殿下に夢中だったのですが、妃殿下には結婚前から他に恋人がいらっしゃったらしいのです。結婚後も、陛下の目を盗み逢瀬を繰り返したとか。

 そこで、初代は魔法使いに頼み、ガラスの靴を作らせ、妃殿下に履かせました。陛下が脱がさねば自力では脱げぬ呪いもかけられ、王妃殿下は自力では歩けなくなったのです。もちろん、恋人に会いに行くことも出来ません」

「聞きたくなかったあああ」


 寒気を感じ、フロランスは叫びました。声は高い天井に吸い込まれて消えます。

 ユーグ王子は楽しげに続けました。


「ガラスの靴は、素材が硬くてまともに歩けもしないでしょう? ですから妃殿下は立ち上がると初代に寄りかかる他なく――ふたりはいつも腕を組み、傍目にはとても仲睦まじい夫婦に見えたそうです。

 晩年、妃殿下は心を病み、初代を恨みながら亡くなったとも。

 つまり、ガラスの靴というのは、嫁いできた女性に王家への忠誠を誓わせるアイテムなのですよ。

 ちなみにこれが、兄上の奥方のものです。いずれはこの隣にあなたのものも並びます」


 きらきら顔を輝かせそんなことを言われ、フロランスは本気で逃亡計画を組み立てはじめました。


「あの、今から婚約解消できます?」


 ユーグ王子は聞いちゃいないという様子で、ガラスキャビネットの天板を指先でなぞり、ご満悦の様子です。


「幼いころの話ですが、母はよくこの部屋に僕を連れてきては『これが私の陛下への愛の形なのですよ』と優しく語って聞かせてくれました。もちろん、その時は初代の裏話なんか知りませんでしたから、純粋だった僕は胸踊らせたものです。

 ああ、僕のガラスの靴を履いてくれる女性は、どんな人なんだろう。どんな声音で話し、どんな笑顔の――どんな土踏まずのアーチを持ち爪の色は形は、かかとの丸みは……。

 いつしか自分の理想の女性の足を思うことに夢中になり、そして足そのもののたまらない魅力に気づいてしまったのです」

「ロマンチックなような、そうでないような……。とりあえず、殿下が足に並々ならぬ関心を抱くきっかはうっすら理解しましたけど。でも殿下、私の足だって、あと二十年もしたら踵はがさがさ、ふくらはぎは浮腫んでぱんぱん、お肌にはしみの浮いた中年のおばちゃんのものになるんですよ。それ、わかってます?」

「いいですかフロランス。足は老若男女関係なく美しく素晴らしいものです。老女の足を御覧なさい。長い時間、本人とともに人生を歩み、その人がしっかり地面に踏ん張って生活してきた証のシワやシミ。美しいとは思いませんか。赤ん坊のまだつるつるとした柔らかくシミひとつない足の裏、未来への可能性を凝縮した究極の形だと思いませんか」


 熱く語るユーグ王子に適当に相槌を打ちながら、フロランスはガラスの靴を眺めます。


(この部屋にユーグ王子を連れてきて、優しく語りかけた……。となると、王妃殿下は昔からああだったわけじゃないってこと?)


「どうかしましたか、フロランス」

「王妃殿下のガラスの靴はどちらですか?」

「……それが。母上のものは盗まれてしまったのです。犯人は未だわからず、靴も戻らず。……もう一度靴を作ろうという陛下に、母は『盗まれたのが、私の唯一無二のガラスの靴でしたの』と言って聞かず。このように永久欠番扱いです」


 ユーグ王子が指差したところには、白いクッションだけが置かれているのでした。


「とても美しいものでしたから、残念です」


 王子は、しんみりとそう言いました。そして、ぱっと笑顔になると、フロランスの手をとって、自分の胸に当てました。


「聞いてくださいフロランス。僕には夢があるんです。

 僕にガラスの靴を贈らせてくれた女性とともに、父や兄のことを助けながら、国を栄えさせ――大陸一の靴製造工場を作るという!」

「そりゃすごい夢ですねー、がんばってー」

「さっきあなた、夫婦というのは馬車の車輪のようなものだとおっしゃったじゃないですか。応援してくださいね。あなたに応援してもらえたら、僕も百人力です」

「応援も何も、私がなにもしなくたって、殿下は絶対に工場作るでしょ」

「まあ、そうですが。あ、ただ僕が靴が好きだからって、騒いでいるだけではありませんよ。我が国は紡績で栄えていますから、服飾関係の技術を底上げすれば、さらに富み栄えられると思うのです。よければ後ほど、その根拠となる数字をお見せしますね」

「それはそのうちでいいです」

「そうおっしゃらず」


 はいはい、とおざなりに返事をし、フロランスは苦笑したのでした。そして、何も乗せていない白いクッションに視線を戻します。


(それにしても、一体誰が王妃殿下の靴を盗んだのかしら)


「いつか、あなたにガラスの靴を贈らせてくださいね、フロランス」


 沈思していたフロランスの耳にユーグ王子の声が飛び込んできました。彼女が顔を上げると、王子殿下はいつもの穏やかな表情でした。

 声が真剣味を帯びていたのは、気の所為だったのでしょうか。

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