"Angel's" revisit
どうしたんですか?、そんなに周りを見渡して。
もしかして、私が居なくなったと思いました?黙っていなくなったらそう思いますよね。
"あなた"に一声かけてから離れようと思ったんですよ、でも、すごく考え込んでいたので、遠慮しちゃって。
はい? さっきの物音は何だったのか、ですか?
何か物音がするので、様子を見に行くと、ここに居着いている鼠が出て来ていて。なので私が追い払っていたんです。話しているときに現れて、邪魔になっても困りますから。
どんなやり方で、ですか? 私が現れると、気配を感じたのか直ぐに逃げだしたので、特に何もしませんでしたけど、どうしてそんなことを尋ねるんですか?
本当にそれは鼠なのか? すみません、この話、もう止めにしません?
もう済んだ話ですし、これ以上話しても、お互い何の実りもありませんから。
それなら、水が欲しい?
すみません、それは出来ないんです。
私がを積極的に誰かを助けると、相手の信頼を買ったと見なされ、私が『堕天使』になってしまいますから。
「信じる」という行為は、何かの見返りを見込んで行われると、それは「契約」や「取引」へとすり替わります。
これは、堕天使=悪魔の領域であり、天使のなす事ではありません。
選挙だってそうでしょう? 候補者が有権者に贈り物をすることは勿論、各自宅を訪問することも禁じられていることは知っていますよね。
これは、「自分達のことを決める権利を代表する人に信託する」という行為、選挙を正しく機能させるための決まりなんです。
人は見返りを求めるから、「自分のした事に対してリターンが少ない」「私はこんなに頑張っているのに」と、不満が生まれ、それが憎悪に繋がる。
だから神の愛は、「無償の愛」なんです。
善人も悪人も問わず、全ての人に雨が降り、ずぶ濡れにするように、神の愛も、全ての人に注がれる。
でも、人殺しをした大罪人と真面目に生きていた善人が、同じように愛を受け取るのはおかしいのではないか。
そう考えた者たちの中から、「正義」という概念が生まれます。
正しい人には愛が注がれ、そうでないものには罰を与える。もしかすると、こっちの方がしっくりくる、と"あなた"は思うかもしれませんね。
しかし、正義と不正義という線引きするということは、愛が「正しく生きるのであれば、神の愛が与えられる」という約束=契約によるものに成り下がってしまいます。
その結果、神の意志とは異なる働きをして追放された天使=『堕天使』が生まれるんです。
先程、"あなた"の足の痛みを緩和したのは、それが私を信じるかどうかに影響しない程度の行為だから。
さっきの例で説明すると、政治家の目の前で、段差に躓いて転けそうな人がいたら、その政治家は恐らく手を差し伸べるでしょうけど、それは別に不正ではないですよね。
手を差し伸べてもらったら人は感謝するでしょうが、だからってその人に絶対投票するとはかぎらないじゃないですか。
でも、難病で今にも死にそうな人の手術代をとある政治家が負担し、そのおかげで健康になった人がいたとして。その人は、その政治家にすっごく恩を感じて、その政治家に投票しそうですよね。
こうした「恩」も、純粋な、信じる心を曇らせてしまうんです。
"あなた"は何日も、食べるものも飲むものも無く過ごしていて、このままでは間もなく死んでしまう。
そんな状態の"あなた"に、私が水を与える。
そうすると"あなた"は私に感謝し、「こんな良いことをしてくるのだから、おそらく天使ではないのか」と考えたくなるでしょう?
これは相手の弱みに付け込んだ買収は相手の自由意志とは言い難いんです。。
そんなことをすれば、私も間違いなく堕天使になるでしょうし、
そもそも、
そんな 偽りの「信じる心」は、我々には必要ありませんから。
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