第九話 邪の力
宿泊の手続きをすませ、前金を払った神奈と梨乃は、レストラン奥の部屋へ通された。
大した広さはなく、家具といえば、硬い寝台だけ。それでも二人は、ほっと安堵の息を吐いた。
ひとつきりの窓から差し込む日は高い。お昼を食べた後に二時間かけてこの都市に来て、街を歩いてここにたどり着いたことから考えると、今は十五時くらいだろうか。
「お夕飯はこのレストランでって言っていたけれど、まだ時間があるし、もう一度外へ行かない? 街の様子ももうちょっと見ておきたいし」
「明日の前夜祭、どこでやるかも確認したいよね」
そうと決まれば、ここでのんびりしていることはない。
二人は部屋を出、レストランを通って外へ出ようとした。が、途中でおかみさんに「ちょっと待って」と呼び止められる。
「食事を用意したから、食べていっておくれよ」
「え? お夕飯には早いですよね?」
聞けば、おかみさんは、にっこりと微笑んだ。
「何時に来ても食べ物で迎えるのが、ロンディアの習慣なんだよ」
「さすが美食都市だね……」
神奈と梨乃は、案内された席に座り、テーブルの上に並ぶ皿の数々を見やった。
スープに始まり、前菜、メイン、デザートと、分量的にはハーフコースほどありそうだ。
「せっかくだからいただきましょう」
「うん、そうだね」
神奈はまずはスープを一口、口に含んだ。
野菜と肉の味がたっぷり抽出されたシンプルな味わい。これは相当煮込まなければ作れないのではないだろうか。
美味い、と思った。それなのに、飲み込んでしばらくたつと、胃がむかむかしてくる……。
「このスープ、なんかちょっと、おかしい気がする……」
「これ……」
呟き、梨乃は手にしていたスプーンを置いた。信じられないというような表情で、皿の中のスープを見つめている。
「このスープ……、きっと邪の力が働いているわ」
「邪の力って……」
「魔王が扱う力。女神カシャとは相反する力よ」
おかみさんたちに聞こえないようにだろう。声を潜めた梨乃に、神奈は「どうしてそんなことがわかるの?」と訊ねる。
「わたくしたち女神の代行者は、魔王や邪神の力が体内に入ると、拒絶反応が出るのよ」
梨乃ははっきりと告げた。
「でも、街の人はこの料理を普通に食べてるんだよね?」
「ええ、そうね」
「……ってことは、こんなものが流通してるロンディアって……」
「裏があるわね。確実に」
神奈は絶句した。
蒸し芋も豆の煮物も、肉も、魚も、果物も。
テーブルの上に並んでいるものは全部美味しそうに見えるのに。おかみさんは、とても幸福そうなのに。
(でも……)
神奈の脳裏に、勇者ブライアンの顔がちらついた。
でっぷりと太って入らなくなった鎧を、大事にしまっている彼。昔は勇者として各地を冒険していたのに、今は小さな村のレストランで、無銭飲食をしている……。
「とりあえず、この食べ物全部に邪な力がかかわっているか、食べてみましょう」
「う、うん……」
神奈は動揺しながら、梨乃に頷き返した。
食べたら具合が悪くなるかもしれないと思うと緊張するが、これも代行者の仕事なのだ。
そう言い聞かせている神奈の前で、梨乃は、野菜の煮物をとりわけ、口に入れた。
「とても柔らかい……味も悪くない、けど……」
だめね、と首を振る梨乃。それならと、神奈は、塩コショウで焼いた肉を口に入れた、が。
「あれ? すっごい美味しい!」
「気分は? 悪くない?」
「たぶん平気! もりもり食べられそう!」
神奈は、豚肉よりも少々硬めの肉を噛み、飲み込んだ。
「ほどほどにしておいてね、それだけでお腹いっぱいにならないように」
見守るように微笑む梨乃に、はーいと返事して、今度は、付け合わせのリゾットを食べる。
「これもこってり濃厚で美味しい!」
一方梨乃は、ゆでた芋や蒸した魚を食べていた。
「お芋は平気ね。魚も大丈夫。さっき、お肉は平気だったのよね。そういえば屋台のお肉も平気だったし……素材そのままのものは問題がない?」
「でもリゾットも大丈夫そうだ……ううっ……」
神奈は、突然口を押さえた。まるで今食べたリゾットが胃の中で暴れているようだ。胸のあたりまで、燃えるように熱くてむかむかする。
「神奈ちゃん、これを」
梨乃が、皮を剥いた柑橘の系のフルーツを渡してくれた。酸味のある香りは、それだけですうっとするよう。口に入れれば、爽やかな甘さが広がった。
「はあー、安らぐー」
食道付近まで上がってきていた吐気が、ゆっくりと消えていく。神奈ははっと息を吐いた。
梨乃は神奈を見ながら、神奈のものとは違うフルーツを食べている。
「日本では見たことがないものだけど、これも平気……。おそらく、素材は大丈夫ということね」
「ってことは、料理をするときに使うものがいけないってこと? なんだろう。調味料かな?」
「でも、塩コショウのかかったお肉は平気だったわよね」
「じゃあ、お砂糖?」
「スープにお砂糖は入れないでしょう」
「スープとリゾット、煮込み料理にも使うもの……」
具合が悪くなったものを並べ、神奈は、うーんと考えた。普段料理は親任せだから細かいことはわからない、が――。
「水?」
思いついたものを言ってみる。梨乃がはっとした。
「それよ、神奈ちゃん!」
それから二人は、カウンターでおやつを食べ、お茶を飲んでいるおかみさんに声をかけた。
「おかみさん、ロンディアの飲料水は、近隣の村のように井戸からとっているんですか?」
マークと出会った村に井戸があったことを思い出しつつ、神奈が訊ねる。
おかみさんは突然の問いに驚いた顔をしながらも、「違うよ」と言った。
「ロンディアは、今は城の向こうに隠れているけれど、もともと川のふもとにできた都市なんだ。水はその川からパイプで街に引いてる。広場で誰でも使えるようになってるよ」
神奈たちはおかみさんに教えてもらって、宿から一番近い広場へ行ってみた。するとたしかにその片隅には、簡易水道のような水場がある。
「これを飲めば、水がおかしいかわかるよね」
二人は冷たく澄んだ水を手のひらで受け止め、口に含んでみた。途端、胸やけのような気持ち悪さが込み上げる。
「うえっ……やっぱり水が原因なんだ」
「なにかを入れているのかしら……。もしそうだとしたら……」
濡れた唇を手の甲で拭い、梨乃は顔を歪めている神奈を見やった。
「神奈ちゃん、この水を引いている川の源流に行ってみましょう」
「水に何かを入れるなら、そこが一番効率的だもんね」
街の人をつかまえ、川の源流について訊ねる。
気さくな住民は、しばし腕を組んで考えていたが「たしか……」と語り始めた。
「川の脇には昔水汲みに使っていた道があって、散歩にちょうどいいって聞いたことがあるよ。だけど今は立ち入り禁止になっていたような……」
(それはますます怪しいんじゃ……)
こうして二人は城の裏にある川を、源流まで辿ってみることにしたのである