第一話 明日の希望
「はい、『明日の希望』でございます」
スマホの向こうから、そう聞こえた瞬間。
「ちょっと、なにこれっ!?」
清条神奈は、二重の瞳をさらに大きく見開いた。
ワンルームマンションの自室の壁が、ベッドが、机が、足元のラグが、いや、目に映るすべてのものが、ぐにゃりと歪んで見えたからだ。
形を失い色となった風景は、パレットの上で絵の具を混ぜたときのように円を描いて、宙の中心に集まっていく。
「どういうこと、なの……」
周囲から、ゴゴゴ、と大地を揺るがすような音が聞こえた。これまで生きてきた18年、何度か経験した地震や台風でも、ここまでの轟音を耳にしたことはない。
――と。
「ええっ!?」
床についていた神奈の足がふわりと浮き上がり、体が後ろ周りに回転し始めた。
スキニーデニムをはいた足が、パーカーのフードが、ポニーテールの髪先が、遠心力によって、ぐるんぐるんと宙を泳ぐ。
「待って待って!」
焦り叫べば、願いが通じたのか。体は直立の位置でぴたりと止まった。すとん、と首に触れる髪、背を打つフード。しかし安堵はつかの間。
「い、やああああっ!」
神奈の体は、急スピードで落下した。
「私、気を失ってたの……?」
返る声も反響音もない、ひたすらの闇の中で、神奈は目を開けた。
立っているのか横になっているのかもわからない。とりあえず首だけを動かして周囲を見てみると、はるか遠くに、光る点があった。
それはみるみる数が増え、あたり一面で、ちかちかちかちか、輝き始める。
「夢……? よくわかんないけど……これで少しは回りが見えるかな」
神奈は宙に手を伸ばし、腰をひねってみた。この動きで、上体が起き上がった気がした。
それならと再び上を見、横を見して、神奈は息を飲む。頭の上も足元も、いや周囲のすべてが、星さながらの輝きに満ちた空間にいたからだ。
しかも足のずっと下には、白く光る巨大な円状のなにか……地学の教科書やテレビでしか見たことがない、星雲に似たものがある。
「もしかして、ここって宇宙……?」
「に見えるでしょう? でもちょっと違うんですよ」
透き通った高い声が聞こえ、神奈ははっと顔を上げた。
さっきあたりを見たとき、あたりは星空だけだった。それなのに、今はそこに豪奢な椅子があり、純白のローブを着た女性が座っている。
「えっ、なっ、えっ!?」
神奈ははくはくと口を開いた。とはいえ驚きすぎて、まともな言葉にならない。
「まったく、あなたから連絡をとって来たのに……。こんなことじゃ、いつか心臓が止まっちゃいますよ」
女性は、ピンクの薄い唇をゆったりと動かし、よく通る声で告げた。その整った顔も、つやつやと滑らかなストレートのロングヘアも、白磁の肌も、人形のように美しい。
だが笑い顔には、隠すつもりもないのだろう、揶揄がにじんでいた。
「私が電話をかけたのは、普通の会社だしっ……」
女性の余裕の態度に気後れしながら、神奈がもごもごと答える。すると彼女は、細い首をこてりと傾げるた。
「あら、普通の会社だなんて、どこかに明記してありました?」
月の光を模したか銀髪がさらりと揺れて、白いローブの肩を覆う。それを手の甲で背に流し、女性はぐっと身を乗り出してきた。
「ね、神奈さん」
髪と同じ銀の瞳には、肌がちりちりするような眼力があった。その目で、彼女は神奈の全身を検分するように見回して、なるほど、と頷いた。
「ちょっと優柔不断そうだけど、特に悪いところはない感じですね。これなら我が社の仕事もこなせるでしょう」
「あ、なたは……」
見ただけで何がわかったのだろう。そもそもこの女性は何者なのか。驚きと疑心で掠れた声で聞くと、女性は、乗り出していた体をすっと伸ばした。
「人に名前を聞くときは自分からと言いたいところですが、その動揺っぷりじゃ無理ですよね。いいですよ、答えてあげます。私はカシャ。神秘を司る女神です」
「女神……!?」
(私、いつもと同じ一日を過ごしていたはずなのに……)
カシャの美貌と目力に、圧倒されながら。
神奈は自分がなぜ今、女神に会っているのかと、今日という日を回想し始めた。
「ああ、今日の会社も絶対落ちた……面接失敗だ……」
本日午後、十六時。
就職活動のために買ってもらったグレーのスーツに身を包んだ神奈は、一人ため息を吐きながら、帰路についていた。
歩くたびに、ポニーテールにまとめた髪が背中にあたる。まるでぽんぽんと背を叩き、慰められているようだ。
でも、気持ちはまったく晴れない。
それもそのはず、神奈が今不合格を確信している会社は、就職面接20社目の会社なのである。
「もう正社員は諦めたほうがいいのかなあ……」
高卒後、イメチェンのために長かった前髪を切ったおかげで視界は明るくなっている。が、未来はまるで見えやしない。
神奈は、熱くなった目頭を強く押さえると、唇を真一文字に結んで、顔を上げた。
ここはまだ外。落ち込むのは家に着いてから。
そう言い聞かせ、一歩を踏み出す。
――が。
「あっ……!」
突然、ヒールの足がたたらを踏むほどの突風が吹いた。足を止め、A4サイズのトートバックを抱きしめる。
「うう、早くやんでよっ」
トタン屋根ががたがたと鳴る音を聞きながら、ただただ、全身に力を入れて風に耐えた。と、その頭の上に、ふわりと紙が舞い落ちた。
「なにこれ……」
風がやんだ後、こんなところに落ちなくてもいいじゃないと思いながら紙をとる。
なんとなく紙面を見ると、そこには大きな文字で『Vtubeの中の人の募集!』と書かれていた。
「へえ、こんな求人があるんだね……」
流行りのブイチューバーは、アイドル系、料理、面白ネタ、お笑い、メイク動画など、人によって、活動ジャンルは多岐にわたってるはず。
なんとなく興味を引かれて文字を追えば、紙面には、求める人材の条件が細かに書かれていた。
――曰く。
「採用条件は…女性……学歴不問……」
(なら高卒の私でも大丈夫だよね)
「品行方正、身も心も健康……」
(とりあえず悪いことはしてないし、持病はない……)
「なんらかのスキル持ち、オタク知識に知見あり……」
(スキル……はわかんないけど、オタク知識は問題ないよね。ソシャゲとか好きだし、ブイチューバーも知ってるし)
そうやって考えていくと、神奈は、この募集はまんざらではない気がしてきた。
「でも、ブイチューバーかぁ……」
高校時代、神奈は勉強も運動も平均点だった。教科の好き嫌いはあれど、突出したものはなく、委員会などもあまりものをやっていた程度。文化祭や体育祭、音楽祭でも、まとめ役の言うとおり、淡々と活動をしたのみだ。
友達はいることはいるが、みんな地味で落ち着いたタイプなうえにマイペースだったため、親友と呼べるほど親しくはない。
つまり、高校時代の神奈は、特に目立つところのない人物だったのである。
そんな神奈が、いくら会社の後ろ盾があるとはいえ……。
(ブイチューバーなんて、人前に出ることができるかな)
そこまで考え、神奈はぶんぶんと首を横に振った。
「って、なにやること前提にしてるの、私はっ。こんなの条件に当てはまってたとしても、才能がなければ無理に決まってるじゃない!」
ひとりごち、チラシを両手で丸めて、トートバックに放り込む。
しかし。
帰宅して部屋着に着替えた神奈は、チラシに掲載されていた『明日の希望』という会社に電話をかけることになる。
本当は帰ってすぐに、チラシを捨てようと思っていたのだ。
でもその前にうっかりスマホを確認し、面接中に母親から届いていたメールを見てしまった。
『神奈、面接はどうだった? だめだとしてもまた次があるから頑張って』
好意だというのはわかる。これまで19社追ってれば、こう書きたくもなるだろう。だが……。
「だめなのが前提ってどういうこと?」
苛立った気持ちのまま、神奈はスマホの暗くなった画面を見つめた。
そこに映ったのは、眉も口角も下がった、疲れきった自身の顔。
(そういえば、最近笑ったのはいつだろう……)
そう考えると、ため息が漏れる。
(どうせだめなのが前提ならば、ブイチューバーにチャレンジしたっていいじゃない)
神奈はスマホを置き、丸めてあった募集チラシを手にとった。
正直に言えば、やけっぱちだったのだ。
丁寧にチラシのしわを伸ばした後、スマホを持ち、広告主である『明日の希望』の電話番号をタップする。
機械を耳に当てると、ルルルル、ルルルルと、コール音が響いた。
応募の電話は、何度しても慣れない。緊張に、スマホを握る手が冷たくなっていく。
(それにしても『明日の希望』なんて、すごい前向きな名前……。ブイチューバーは希望を与える人、とかいうコンセプトでもあるのかな……)
不安を逃すため、そんなことを考えていると――。
カチャリ。
「お電話ありがとうございます。『明日の希望』でございます」
スマホの向こうから、そう女性の声が聞こえた。その瞬間。
「えっ……!?」
神奈の部屋の風景が、変わったのである。