第5話【それでも前へ進まなきゃ】
既に頭の中は空っぽであり、刀を引摺りながらも帰路に着いた。
時間が経ったせいで腕の出血は止まっていたが、指を動かすだけで痛みが体中を走り、血が出るほど唇を強く噛み締めた。
痛みに耐えながら力なく扉を開けると、誰もいない部屋には明かりだけが灯っている。
目の前にあるのは山積みの野草と小さな布袋のみ――――桜香は膝から崩れる様に倒れ込んだ。
目先の布袋から香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
『そう言えばご飯……一口も食べてなかったなぁ……お腹空いた――――』
布袋の口を開き、中から野草に包まれた2匹の小ぶりな川魚が出てきた。
意識朦朧の桜香は、腹の虫が鳴っているのもあってか、夢中になって食らい付いた。
一口また一口と噛む度に、いつもとは違うせいか眉間に皺を寄せながら桜香は小声で呟いた。
『お祖父ちゃん。今日の魚、何だかしょっぱいな。また血圧上がっちゃうよ?――――私、2匹も食べたら太っちゃうよ……』
濡れた床に這いつくばる様に顔を擦り付けつつ、祖父が残した塩辛い魚を残さず食べた。
山積みの野草に手を伸ばしたが、そこまでの体力は残っておらず、桜香の意識は静かに離れていった。
森中を駆け回ったせいで出来たすり傷や、疲労と混乱のせいもあってか、気付いた頃には陽の光が部屋全体に差し込んでいた。
★
祖父の死から一夜明けたが、体が言うことを聞かないせいで、そのまま腹這いの状態で過ごし、同じ場所で日の出を二度見た。
二度目の陽が上り、あれから何も口にしてないせいか空腹に耐えきれず、残っていた野草を摘まむが、さすがに腐っていたのか直ぐに吐き出した。
応急措置のため、擦り傷に薬草を混ぜた軟膏と、簡易的だが布製の包帯を巻く。
『この刀は希少だからくれぐれも無くさない様に』と生前の祖父の言葉を思い出し、ついでに刀と体を包帯で繋いで背負う。
端から見れば包帯だらけの重傷人だが、それは仕方がない……とキッパリ割り切った。
少しだけ重心が後方へ下がるが、抱えるのとは違い両手が使えるので、目を覚ます様に頬を叩き気合いを入れる。
『これでよしっ!!』と自らを姿見で確認すると、やや不格好だが《《憧れの》》花の守り人――――っぽいと思った。
興味本位で触ってみたが、あの時以来――――母の形見が抜ける事はなかった。
気を取り直して、しっかりと戸締まりをし、日が暮れる前に森を抜けようと早足で急いだ。
道中では、様々な事が頭の中を駆け巡っていて、それは桜香自身が口に出さずに、心に秘めた1つの思い――――
武器を手にする事や植魔虫との対峙、今まで平凡に暮らしていた私にとって、想像も出来なかった位に未知の世界だ。
でも祖父が目指し母がそうだった様に、必ず〝花の守り人〟となって、この世界をあるべき形に戻す。
その為には誰もが認め、後世に語り継がれる程、強く美しい一輪花でありたい。
たとえ血が滲む様な事になっても、〝花の守り人〟として生涯を捧げた、母と同じ様に亡くなったとしても――――
そんな思いを胸に秘め、憧れていた〝花の都〟への道中に、桜香の足は祖父の墓へと向う。
到着後、不器用に盛られた土に置かれた〝種子刀〟に向かって、深々とお辞儀をした。
『いつか、強くなって戻ってくるからね?……お母さん達によろしくお願いたします』
――――数秒の沈黙後、顔を上げると不思議な事が目の前で起こった。
それは、瞳から落ちた雫のせいなのか?……
または、天上にある陽のせいなのか?……
事実は定かではなかったが、桜色の瞳に映る景色には、心地よく送ってくれる様に、祖父の折れた刀が燦然と輝いて見えていた。
他人に話せばそんなの偶然で、どうせ朝霜と陽のせいだろ?――――とでも言われるかもしれない……。
一見、些細なその出来事は――――彼女にとって心のモヤモヤした部分が、少しだけ晴れた様な感覚がしていた。
少しだけ気持ちが落ち着いた桜香は、心の帯を再び絞め直し、躊躇いも無く後方を振り返る。
眼前には木漏れ日が差す獣道があり、一歩――――また、一歩とゆっくり地を踏み締める。
歩を前へ出す度に、擦り傷で多少の痛みはあれど、〝今〟〝この時〟〝この世界で〟たった1つしかない命――――様々な人が紡いだ生を感じられる事が出来る。
先程まで体中に重くのし掛かっていたのは、疲労でもましてや刀のせいでもなく、これから1人で生きることへの不安だった。
だがそれは、祖父が背中を押しそして母に守られた事により、新たな目標に向けて歩み始める事ができた。
墓から数十歩程進み、自身の取り柄である元気で明るい表情で、空へと還った祖父に約束を誓った。
『サヨナラは言わないよ……だって〝またね〟だから!!』
そう言って再び桜香は、痛み等ものともせずに力強く歩み始めた。
刹那――――『体に気を付けて元気に過ごすんじゃぞ……』と聞こえた気がして、咄嗟に振り返ると、自らの墓に祖父が立っていた。
今近づけばまた、平凡な日常が戻る様な気がしたが、歩み寄りたい気持ちを踏み留め、その場で左右に大きく手を振った。
全力で力一杯――――天国で、自慢の孫だと誇りにしてもらうためにも、見た目を気にせず、顔がくしゃくしゃになりながらも続けた。
言葉こそ発しなかったが、祖父はいつも通りの屈託のない笑みで、お見送りしている気がし、これまでの感謝と気持ちを込めて思う存分振り続けた。
この時は、永遠にも感じられると思われた――――だけど……いつだってそう、〝終わり〟の時は音もなく突然やってくる。
髪の毛が風で靡き、直ぐ様右手で不明瞭な視界を取り除くと、いつの間にかその姿は見えなくなっていた。
桜香は気を取り直して、肩まである髪の毛を包帯で1つに束ねると、『早く街の方へ向かわないとなぁ……』と独り言を口に出し、馬の尾に似た髪を揺らしながら、新たな道へと歩み始めた。
桜香の視界には、いつもと変わらぬ風景が広がっている。
――――陽が木々から漏れ、病んだ体を温める。
――――時折、風で揺れ動く木葉が舞っている
――――集中しても聞こえるほど、小鳥達が鳴いている
そんな森での生命体は、恐らくただ1人の人間である桜香含め、小動物や危害の無い生物しかいない。
それは何故か?――――朝型の奴等は活発な種が多数であり、この場所に生息している個体も、決して例外ではない。
だが――――華技・桜贈返礼により、森全体を包んだ純白の膜は、空中や地中等、一切関係なく獰猛で攻撃性のある種のみだけ、眠りから覚める事なく塵と化していた。
ここで生れた〝植魔虫〟は最初こそ力もなく、高齢者である桜香の祖父、〝雅流風〟によって討伐されていた。
だがそれは食料が無く、空腹状態で地上を這いずり回り、寝床を襲われたために、万全ではないからだ――――
ゆっくりと進む桜香は、自らが思ったより足が上がらず、3cmにも満たない小石に躓いた。
『おっとっとっ!?……危ない。危ない。転んだら立てなくなっちゃう』
背負った刀の重みで倒れそうになり、片足で飛び跳ねながらも、何とか姿勢を立て直す。
時折姿勢が歪まない様に背伸びをし、桜色の瞳は振り返らずに前へと見据えていた。
その後、進んでは立ち止まり、また進むを繰り返し、背中へと視線を移しながら口を開いた。
『ふぅ……刀って重いもんだなぁ……』