月見里三日月とSF研究会
僕には、鴉羽郁斗には好きな人が居た。……いや、居た気がすると言った方がいいかもしれない。おぼろげな記憶に残っているのは、印象的な黒い彼女の髪と、どこか悲しそうな彼女の目だけ。僕は彼女と何かの約束をして、彼女と別れて、……そして彼女とはそれっきりだった。
記憶にあるのはそれだけだ。彼女の事はもう、顔も名前も笑い方だって、何も覚えてはいないけど、どうしてかずっと胸に引っかかり続けている。
もしかしたら、これは夢の中の記憶かもしれない。
けれど、空を泳ぐ白い鯨を見る度に、胸が締め付けられるような感覚と共に、そのことを思い出す。
「何一人で黄昏れてるの?」
校舎屋上に手をついて座り、空を見上げていた所によく知った声が聞こえて来た。顔だけを動かし振り向くと、やはりよく知っている顔がそこにはあった。
「なんだ、加賀美ちゃんか」
「瑞穂って呼んでってば」
髪を肩口で切り揃え、アンダーリムの赤い眼鏡を掛けている、真面目そうな見た目の彼女は、幼馴染の加賀美瑞穂ちゃんだ。昔から加賀美ちゃんって呼んでいたけれど、いつからか名前で呼ぶように返されるようになっていた。
別にどっちで呼んだって良いけれど、何となく加賀美ちゃんって呼び続けている。
「そんなとこに座ってると、制服が汚れちゃうよ?」
「汚れたら落とせばいいだけだよ。……よく此処が分かったね」
「まだ帰ってないのは知ってたけど、鴉羽くんの事だから、どうせ空でも見てるんだろうなって思ったの」
「……流石瑞穂ちゃん」
少しぎこちなくなってしまった笑みを返してから、ゆっくりと立ち上がって加賀美ちゃんの方へと向き直る。ズボンには彼女が言った通り砂埃が付いていて、両手で汚れを叩き落とした。
「それで、何の用? 一緒に帰る約束でもしてたっけ」
「それは昨日の話でしょ」
「方向音痴は高校生になっても治らなかったね」
「うるさい」
そう言うと彼女は腕を組み、頬を膨らませて拗ねてしまった。いつもならもう少し揶揄ってもあまり怒らないんだけど、今日はもうそっぽを向いてしまっている。方向音痴が治らない事を、僕が思っていたよりも気にしているらしい。
「……先生が、早く部活動希望の紙出してってさ」
「ん……。ああ、今日までだっけ? すっかり忘れてた」
高校生になってもう四日目。少し落ち着いてきたとは言え、まだまだやらなきゃいけない事はいくつもあって、その忙しさの中で忘れてしまっていた。
「明日の朝まで待つってさ」
「そっか」
「そっか、って他人事みたいに言うじゃん。怒られるのは私なんだからね?」
「委員長だから?」
「委員長だから!」
加賀美ちゃんは昔から、その如何にも真面目そうな見た目と、見た目通りの真面目な性格から、クラスのまとめ役に選ばれることが多かった。押し付けられていたって言う方が正しいかもしれないけれど。そして案の定、昨日のロングホームルームでも加賀美ちゃんの加賀美ちゃんらしさはしっかりと発揮されていて、ほぼ全会一致で委員長に抜擢されてしまっていた。反対したのは僕ぐらいだ。
「とは言っても、もう体験入部とかやってないよね」
「やってないね。私は、一昨日にはもう読書クラブって決めてたけど、鴉羽くんは何処か見てないの?」
「……陸上部だけ見て来たよ」
「ふうん。もうやらないの?」
「やらない」
一昨日、昨日の二日間は体験入部の期間であり、どの部も熱心に新入生の勧誘を行っていた。何せ部活動は数あれど、肝心の時間の方が限られている(一応名目上は進学校だ。仕方ないのかもしれない)からだ。とはいってもそれは運動部の話で、文芸部にはそういった趣味の生徒が自然と集まるので、部活動の名前と活動場所さえ知られていれば問題は無いというスタンスの所も多そうな印象だった。加賀美ちゃんも、初日は終業のチャイムと同時に、足早に図書室へと向かって行ったのを覚えている。
僕はというと、中学で陸上部に所属していたのもあって、軽く練習風景を眺めたりはしていた。随分と楽しそうに練習をしているような印象だったけれど、体験入部期間だ。外見を取り繕うくらいはするだろう。結局、改めて頑張りたいと思う程では無かった。
そして、昨日は加賀美ちゃんと一緒に帰っていたので、何処にも見学には行っていない。一昨日一人で帰宅したところ、迷いに迷って大変だったのだという。受験の時も一緒に帰って、道を覚えてもらったはずなんだけど、どうやら忘れてしまったようだった。
だから、現状、入りたい部活動というものに全く見当がついていない事になる。大問題だ。
「全員どこかには所属しなきゃいけないんだから、忘れずに決めておいてよね」
「分かってるよ」
「本当に?」
「本当に」
「ふうん?」
加賀美ちゃんの疑いの目。長い付き合いなんだからもう少し信用してくれてもいいのに、と思う。
僕が普段からこんな調子なのが一番悪いんだろうけど。
「本当なら、良いけど」
加賀美ちゃんは一拍、間を挟んでから口を開いた。
「……ねえ、今日はもう帰るでしょ? 一緒に帰らない?」
「……いや、少し部活の様子を見てから帰るよ。部活、決めなきゃだし。……それに、帰り道はもう覚えたでしょ?」
少し茶化すように言ってみた。
「大丈夫、もう目印は覚えたよ。朝も確認しながら来たし」
「そっか。じゃあ、また明日」
「うん。また明日、ね。あ、部活、もし決まらなかったら読書クラブにするのも考えといてねー」
「……考えとくよ」
ばいばい、と手を振る加賀美ちゃんを見送った後、屋上縁のフェンスまで歩き、僕は再び空を見上げた。視線の先では、相変わらず鯨の形をした雲が優雅に青空を泳いでいる。
「……はあ」
あの雲みたいに、悩みなんてもってなさそうなあの鯨みたいに、ただ空に浮かんで入れたらいいのにと思う。……やっぱり、少し疲れているのかもしれない。
「溜息を吐くと、幸せが逃げてしまうよ」
背後から聞こえたのは、今度は聞き覚えの無い女性の声。今日はよく背後から声を掛けられる日だと思いながら振り向くと、やはり見覚えのない顔がそこにはあった。
光沢のある長い黒髪と、あまり似合っていない赤いリボン飾りが目に付く少女。黒の濃い髪色に冬服の黒いセーラーも相まって、彼女の肌は酷く白んでいる様に見えた。
「鴉羽くん、と言ったかな? 申し訳ないが話は聞かせてもらったよ」
「盗み聞きしてたの?」
「なに、偶然通りかかったものでね」
もったいぶった身振りで彼女は言う。校舎屋上に偶然通りかかるというのは、一体どういう要件なんだろうか。そんな質問をしようかと考えている間に彼女はまた口を開いた。
「君、白鯨は好きかい?」
空を泳ぐ鯨雲を指して彼女は言う。
もし、あれを指して嫌いかと聞かれて、嫌いであると答える人は少ないだろうと思う。彼がこの街に現れてから、天気の良い日がよく続くようになり、また、彼が空に居ることによる住民への害は全くない。なんなら、その幻想的な見た目から、街の観光資源としても貢献してもらってる。鯨饅頭、鯨サブレなんかはコンビニにも置いてある人気商品だ。だけど、改まって彼の事が好きかと尋ねられると、果たしてどうだろうか。少なくとも僕が生まれた時には既に空を泳いでいて、この街の上空にずっと留まり続けている、言わば、生まれた時からそこにあるのが当たり前の物だ。
そんな、いつでも空を見上げれば確認できる存在を、自信を持って好きだと言えるかというと、僕の答えは、
「好きだよ」
即答だった。考えるまでもない。
「うん。そう言うだろうと思っていたよ。そんな君にぴったりな部活動があるんだが、興味はないかな?」
「……勧誘ですか?」
部活動の勧誘をしているという事は、どうやら彼女は上級生らしい。同級生全員の顔までは覚えていないから、別のクラスの子だろうかと勝手に思っていたけれど。
彼女は僕の言葉に頷いた後、くるりと背を向けて校舎の中へと戻っていく。その背中は、どうやら僕に付いて来いと言っているようだ。特に拒否するだけの理由も無いので、大人しく彼女の三歩後を追って歩く。
もう体験入部期間は終わっているのに勧誘を続けているという事は、昨日までに入部希望者が現れなかったのだろうか。先生が言うには部活動の立ち上げも毎年の様に行われているらしい(新しい事を始めたがる生徒はいつだっている)し、今年出来た新しい部活動なのかもしれない。それとも、単にあまり知名度が無いだけだったりもするのだろうか。
そんなことを考えながら降りた先は校舎一階。一階にあるものと言えば、職員室か図書室くらいのもので、教室なんかは無かったはずだけど、まさか本当に読書クラブに連れていかれる訳では無いだろう。そもそもあそこは勧誘らしい勧誘は全くしていなかったはずだ。それに、前を歩く彼女の雰囲気もそうだ。色白な黒髪乙女などと言うと文学少女らしさを感じてしまいそうだが、どうにも小説を読むようなタイプには見えない。大して話したわけでもないから、これは直感でしか無いけれど、どちらかと言うと漫画の方が好きそうだ。
「さて、此処が僕の所属する、SF研究会の活動場所だよ」
職員室の前を通り過ぎ、校舎の端にまでたどり着いて、彼女は漸く振り返ってそう言った。
彼女が立ち止まった扉の上には、生徒会室の名前がくすんでいる。随分長い間手入れがされてないみたいだ。
「さあ、入ってくれ。詳しい話は中でしよう」
彼女はそう言いながらドアを開け、僕の方へ手招きをする。中は雑然としていて、机の上には雑誌やCDケースなんかが出しっ放しになっている。控えめに言って汚い。少なくとも此処数年は生徒会室として使われた形跡は無さそうだ。そもそも入学してから、生徒会があるという話を聞いた覚えもない。
狭い部屋の中には机が五つ設置されている。若干の仰々しさがあるのは生徒会室時代からのおさがりだからだろう。部屋の左右にはガラス戸の棚が並べられていて、中には古いアルバムや背表紙に文字の無い太い本が仕舞われている。しかし、それに混じって明らかに雑誌の物と思われる背表紙も見える。記憶に間違いが無ければ、その殆どがオカルト雑誌のようだ。机の上に散らかっている物もそうだろう。
彼女は部屋の一番奥、かつては生徒会長が座っていただろう机に座り、傾きつつある太陽の光を背に受ける。
「改めて、ようこそ、鴉羽くん。ここはSF研究会。……正式名称はすこしふしぎ研究会だ」
彼女は少し言いづらそうに部活の名前を明らかにした。確かに、SFと書いて『少し不思議』と読むことはある。そして、一般的なSF、サイエンスフィクションと読まないのであれば、眼前に散らばっている雑誌群がオカルト系に寄っているのも納得はする。
ただ、高校生の活動場所としてはネーミングに少し難がある気もした。
「僕は二年生の月見里三日月だ。現在、この部の唯一の部員であり、それ故に部長に当たる訳だが……まあ、僕の事は気軽に『みかちゃん』とでも呼んでくれ」
気さくに自己紹介をした彼女は、その後じっと僕の方を見つめている。
どうやら、僕の自己紹介を待っているらしい。
「一のAの、鴉羽郁斗です。さっき聞いていたかもしれないですけど」
「うん、鴉羽くんだね。よろしく。早速だが、僕に対して敬語は使わなくていいよ。堅苦しいのは好きじゃないんでね」
彼女はそう言ってから、僕に座る様に手で促す。みかちゃんから見て左前の机だ。
「とりあえず座りなよ。折角だからお茶でもだしてあげよう」
彼女は会長席の引き出しからティーセットや電気ケトルを取り出しながら話し続ける。我が物顔で使っている所を見るに、みかちゃんの私物なのかもしれない。
「この部活動は名前の通り、不思議なものについて研究する部活動だ。その対象は、街に流れる奇妙な噂だったり、学校の七不思議だったり、オカルト雑誌の嘘記事だったり、あるいは空を泳ぐ、鯨の形をした雲だったりする」
みかちゃんが引き出しを漁ってかがんでいる為、窓の向こうをゆったりと泳ぐ鯨の姿がよく見える。彼は白い雲で出来た鯨だ。様々な研究者が躍起になって正体を探ったけれど、何故か鯨の形を保って、意思があるかの様に振る舞うただの雲であるという事以外何一つ判明していない。
不思議の一言で片づけるには謎が多すぎるけれど、研究対象とするにあたって、不思議さの多寡に限りはないらしい。
「案外歴史だけは長い部活でね、ここにある雑誌の量を見れば分かるとも思うが、長年の集大成がこの部室になっている」
雑誌を積み重ね、ティーカップを置く場所を空けながら、彼女の言葉に耳を傾ける。自慢げに言っているが、要するに買った雑誌の量が多すぎて整理が出来ていないだけだろう。文字通り積年の重みを両腕に感じながら(インクを大量に吸った紙は、見た目よりもだいぶ重い)、棚の隙間にそれを押し込んだ。
「紅茶と緑茶、鴉羽くんはどちらが好みかな?」
「じゃあ、緑茶を」
「緑茶だね」
みかちゃんは頷きながら緑茶のティーバッグを二つ取り出し、それぞれのカップに一つずつ添えた。電気ケトルからは蒸気が出始めていて、お湯が沸くまではもう少しといったところだろうか。
「さてさて、さっき鴉羽くんは鯨の事が好きだと言っていたね。質問なのだけれど、君はアレのどんなところに惹かれて空を見ていたんだい?」
仕切り直し。彼女は僕の目の前の席に座り直して、改めて質問を投げかけて来た。
……どんなところ、と聞かれると少し難しい。謎だから、と言うのはあまりにもアバウトだけど、綺麗だから、だけでは見飽きない理由にはならないだろう。恋焦がれている、とか言ったら笑われそうだ。冗談としては悪くないかもしれない。
「難しい顔をしているね。一言では表せない感情をアレに抱いている、そう解釈してもいいかな」
首肯する。
物心ついた時から、気付けばずっと空を見上げていた。その理由を一言二言で表そうだなんて、出来る気もしなければ思ったこともないというのが本音になる。
「……君には、少し残念に聞こえるかもしれないけれど、聞いて欲しいことがある。勧誘する立場としてこんなことを言うのはどうかとも思うけれど、SF研究会に入るかどうかはそれを聞いてから考えて欲しい」
打って変わって真剣な表情でみかちゃんは言う。
少しの沈黙が続いたところで電気ケトルが音を立て、お湯が沸いたことを僕たちに知らせた。二人分のカップにお湯を注ぎ、みかちゃんはティーバッグを上下に揺らしながら口を開いた。
「僕は、あの鯨が嫌いだ。その理由も、一言で表すのは難しい。だから詳しくは言わないけれど……」
一呼吸おいて、彼女は言う。
「僕はあの鯨を殺そうと思っている」
思わず、息を飲んだ。一瞬、時が止まった様にすら感じた。
そして、そう言った彼女の、哀しみの籠った笑顔を見て、僕はSF研究会への入部を決めた。