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運のいい悲劇  作者: 結城 真
9/10

7 死


間に合ってくれ。頼む、間に合ってくれ!


狂ったように頭の中でリピートしながら走る。

もしかしたらその声は頭の中だけにとどまらず実際に声に出ていたかもしれない。


僕は全てを失ったと思っていた。

でもそうじゃなかった。

僕には家族が残されていた。

守らなければならないものがまだあった。


無くなりそうになって初めてそれに気付くなんて皮肉なものだ。


鴨志田の言うように、僕はたしかに堕ちた。

強運のゲーム会社の金持ち社長は不運な狂った失業者に変わった。


でも麻有は、聖奈は…

彼女たちの未来はまだ終わっていない。

絶対に終わらせてはいけない。

彼女たちにまで感染者の手が及ぶなんて絶対に許してはならない。


鈴木の時は恨むべき対象が分からなくて、途方に暮れた。でも今ははっきりと分かる。

恨むべきは感染者でも殺意のウイルスでもない。


この世界だ。


残酷な運命を僕の人生に組み込んだこの世界だ。


僕は嘆きながらさらに足を早めた。

吐きたくなる弱音を消して、立ち止まりたくなる思いを消して。


また僕は大切なものを失うのか。

何一つ救えないのか?

黙って見守るしかないのか。


ああ神様、何故あなたはこんなに残酷な運命を私にお与えになるのでしょう。

私の大事なものを一つ残らず奪い去るつもりでしょうか。

私が何か悪いことでもしたのでしょうか。

あなたは私を恨んでいるのですか?

麻有だけはダメです。聖奈はだけはダメです。

運が尽きた私をもうそっとしておいて下さい。

これ以上痛めつけないで下さい。

あなたに善意があるのなら、少しでも慈悲の心があるのなら…


私にもう一度幸運を!

不運な私に幸運を!



最寄駅から自宅までは歩いて10分。

人と人の間を縫うようにして走り抜けていく。

10人抜き、15人抜き。

追い越していく人々は僕を不思議な目で見ていた。

「ねぇお母さん。何あれ?」

「ううん、さぁ」

疲れは全く感じなかった。むしろ走れば走るほど力がみなぎって、加速した。

そのおかげで10分かかる道をわずか2分で走り終えた。


全速力で走ると見慣れた景色がいつもと違って見えた。

街灯の光が霞んで僕の影は伸び、一瞬で後ろに消えていく。

新しい景色は僕をゆっくり、ゆっくり飲み込んでいった。


しばらくして目の前に曲がり角が見えてきた。

ここを曲がれば最後の直線だ。

このままいけばどうにか間に合う。


その大きな希望が僕の背中を押し、僕はラストスパートをかけた。

これまで以上に大きく足を前に投げ出し、力強く後ろに蹴る。

体を少し前に倒して歯をくいしばる。

それは不安を後悔を絶望を置き去りにするほどの全身全霊の走りであった。


かかとで急ブレーキをかけて大きな門の前で止まる。

僕は膝に手をついてはぁはぁと肩で大きく息をした。止まった瞬間にさっきまで感じなかった疲れがどっと押し寄せてくる。

こんなに走ったのはいつぶりだろうか。

というより全盛期でも僕はこんなに走れただろうか。

きっと走れなかったと思う。

もちろん体が学生時代より発達したなんてことはまずない。

そう、気力で走りきったのだ。


その証拠に膝は小刻みに震え、呼吸が上手く出来ず吐きそうなぐらい苦しい。


僕はゲホゲホと咳き込みながら門にもたれかかった。

門がガシャッと音を立てて僕の体を支えてくれる。僕はそれに頼るようにして全体重を預けた。


門は冷たく寂しい感触だった。

僕は初めてそんな風に感じた。

寂しい感触。そんな言葉があるのかは分からないけれどそれ以外ではとても形容できないようなものである。

生まれてこのかたそんな感情を抱いたことはなかった。

もともと感性が豊かな方ではなかったから物に触れてその感触、雰囲気を感じようなどと試みたこともない。

しかし今ただ純粋に、感じた。


命の宿っていないものはこんなに冷たいのかと。


それは僕に命の大切さを説き、もうすぐ失われそうな命を思い出させた。

同時に焦りが加速していった。

こうしている間にも聖奈と麻有が苦しんでいるのだ。今この瞬間に彼女たちが殺されたっておかしくない。


早く、早く行かなきゃ。

僕は目を見開いて体のいたるところに力を入れたが、いくら力を入れてもそのエネルギーが動力につながる気配はまるでない。

形のないものをひたすら一生懸命に押しているようで虚しいだけだった。


やれやれ。どこまでいっても僕の体はポンコツだ。大きな焦りとは裏腹にどうやら体は全く動く気がないらしい。

あと少しだ。あと少しまで来てるんだ。

僕が無理やりに体を起こそうとすると全身が一斉に悲鳴をあげた。

その刹那身体中に走る激痛。

「うっ」

思わず僕はうめきながら地面に倒れた。

アスファルトに放り出されたふくらはぎはみっともなくピクピクと痙攣している。

これは何も不思議なことではなかった。

むしろ当たり前だ。もうとっくに限界など迎えているのだからここまで走れたこと自体が奇跡なのだ。


それでも僕は諦めることは出来ない。

ほふく前進のようにして門に近づくと門を乱暴に掴む。

そしてうつ伏せになりながら何度も何度も懇願した。

誰か門を開けてくれ。お願いだ。

返答はない。

お願いだから…

残念ながらもう僕を出迎えてくれる人は誰もいない。

鈴木も田本も皆んな消えた。僕を置いて消えた。

もう会えることはない。もう…二度と。

考えるな。

門に頭を打ちつけた。

考えたらダメだ。

そんなことを考え始めたら立ち上がれなくなってしまう。

諦めたら大切なものを失ってしまう。


かなり強く打ち付けたはずなのだが不思議と痛みは全く感じなかった。

後頭部を触ってみると案の定大きなたんこぶができていた。


「ハハッ」

僕は力なく笑って手元に視線を落とした。

その手に雫が落ちた。


やっと僕の両目から涙が溢れてきたのだ。

その暖かい水滴は手から溢れてアスファルトに落ちた。

下を向くと次々とアスファルトにしみができていく。

何故今なのだろう。

もっといいタイミングがあったはずだ。

僕は今度は涙がこぼれないように上を見た。

本当なら、漫画やアニメであれば、大事な人が亡くなるシーンで泣くはずだ。

そっちのほうが感動的だし人間味があるし、何倍もいい。

でも僕の場合はそうはいかないらしい。


冷たく寂しい、そして鉛のように重く生命力のない門に触れた時、無感情の怪物は再び生命の重みを思い出した。


死に触れすぎて感覚が麻痺し、長らく忘れていた感情である。

辛い、苦しい、悲しい、寂しい、悔しい。全てがごちゃまぜになった感情。

胸の奥が張り裂けそうななんとも形容し難い感情。


「なんでいなくなっちゃったんだよ」


この門は僕一人で開けるにはあまりにも冷たすぎる。

そしてあまりにも重すぎる。

一緒に開けて欲しかった。笑って出迎えて欲しかった。

今でも時々思う。

鈴木も松田も中元も本当は死んでないんじゃないかと。

あの日見た光景はただの悪い夢だったのではないかと。

僕には彼らがそこの物陰からひょっこりと出てきて「冗談だよ。びっくりしただろ」と笑いかけてくる気がしてならないのだ。

………

分かっている。

あり得ない。そんなことは。

彼らは確かに死んでしまった。この事実は絶対に覆されることはない。


僕は門から手を離した。

落ち着いて姿勢を整えると驚くほど簡単に立ち上がることが出来た。

僕は立ち上がった状態でもう一度門に手をかける。


行かないと。


僕は両手で力一杯門を押した。

門が軋んだ音を立てながらゆっくりと開く。



家のドアの前に着いた。

けたたましい音とともに僕は家のドアを蹴破る。

もちろん、そこにいるであろう感染者に僕の存在を知らせるためである。


玄関の下駄箱の上に所狭しと並べていた陶器の置物が壊れる。

僕が長年かけて世界中から集めて来た大切な陶器たちにも今はなんの感情も抱かなかった。

僕は構わずに土足で室内に踏み込む。


「麻有、聖奈、いるか!」

下腹に力を入れて思いっきり叫んだが返事はない。

このただ事ではない状況で返事が返ってこないとなると…

それは僕の不安をさらに煽った。


それにしても感染者が入ってきたにしては随分綺麗な状態である。

見知らぬ靴もなければ人の気配さえもない。

タイルもワックスでピカピカだし、とても誰かが土足で入ったとは思えない。

この空間で乱れているものといえばさっき僕が壊してしまった陶器ぐらいなものだ。

おまけに僕が土足で歩くから僕の歩いたタイルが一つずつ黒ずんでいく。

これではまるで僕が強盗みたいではないか。


静まり返った廊下を慎重に歩いていく。

自分で言うのも何だが間違いなくうちは大豪邸という部類に入ると思う。

豪邸では足りない、「大」豪邸だ。

内装だけでなく外装までこだわり、さっきのようなごつい門を構えた城のような住宅になってしまった。

それもこれも麻有の「一度でいいからお城に住んでみたい」という幼稚な願望のせいである。

本人曰く幼稚園の時からの夢だったとか。

麻有は家事も育児も申し分ない完璧な妻だが、どこか幼稚で変な幻想を抱いているのだ。


僕はもちろん反対した。

金銭的には何の問題もないのだが何より周囲の目が気になったからだ。

少しオシャレだなくらいの高級住宅でいいではないか。今時こんな場違いな神々しい住宅を建てる人などいないだろう。

しかし、麻有もこの時ばかりは一歩も引かず結局僕が渋々受け入れる形になってしまった。

今は落ち着いたものの、無論最初は近隣の方々やそこを通る人々からの奇妙な視線が嫌でも感じられた。

麻有は気にしていない様子だったが、この家は目立ってしまうために悪質ないたずらもたくさんされたものだ。


つまり…何が言いたいかというと…家の中だけでも広すぎて麻有たちの居場所を見つけるのにも相当な時間を有するのだ。

部屋の数は15以上。

しらみつぶしにあたっていては手遅れになってしまうかもしれない。

出来るだけ麻有たちが居そうな部屋を推測して…


GPS機能で麻有の携帯がこの家の中にあることは分かっていた。

僕は通路の右側、手前から3つ目のドアの前で足を止めた。ここが麻有の部屋である。

僕はドアにゆっくりと近づき、ためらいながらもドアノブに手をかける。

ひねるだけだ。右に。長年この家で暮らして来たんだ、今更ドアの開け方を忘れましたなんてことはない。しかしどうも体は思い通りに動かなかった。


理由は単純だった。

ここに来て僕の中に恐怖心が芽生えたのだ。

狂った僕から消えていた感情のうちの一つ、恐怖。

それが何とも最悪なタイミングで戻ってきてしまった。

ドアノブを握る手に力を入れた瞬間に僕の脳内でこれまで見た3人の感染者の姿がフラッシュバックする。

あのおぞましい化け物のような姿。

中元の時は特に見るのが辛かった。

これまで平常だった人間が数日で人でなくなっていく様は耐え難いものであった。

人の死には慣れても、あの光景は忘れることができない。

僕は思わずドアノブから手を離して両手で頭を抱えた。

これまで経験した中でも一番痛く、どこか嫌な感じがする激しい頭痛であった。

あまりの痛さに僕は目を見開き、焦点の合わない目でドアノブを睨みつけた。


僕は戦えるのだろうか。あの化け物を目の前にしても怯まずに立ち向かい、麻有たちを救えるだろうか。

右手が、膝が、唇が震える。

僕は小刻みに震える右手を左手で押さえつけてドアノブをひねった。


木製の扉が小さな音を立てながら開く。

力を抜けば反射的につぶってしまいそうな目で部屋の隅々を見る。

ずらりと並んだ書籍。こだわりの一人用ソファ。真四角の白いテーブル。

そこにはいつもと変わらぬ几帳面に整頓された麻有らしい部屋があった。


僕は安堵のため息を吐く。

そして安心してしまった自分に深く嫌悪感を抱いた。

これではダメだ。僕は麻有たちを救うためにここに来たんじゃないか。

戦わない選択肢はない。躊躇があっては決して誰も救えやしない。

いい加減腹をくくれ!

自分を奮い立たせた。


その後、3部屋ほど回っても彼女らを見つけることは出来なかった。

これまで出来るだけ落ち着いていた僕も流石に焦ってくる。

「クソッ」

八つ当たりで廊下の壁を思いっきり殴るとそこにちょうど拳サイズの凹みができた。

やばい、これは間違いなく麻有に怒られる…

いや、今となってはむしろ怒られたいぐらいだ。


僕の頭の中に嫌な考えがよぎった。

もしかすると彼女らはもう連れさらわれてしまったのではないだろうか。

もしそうなら最悪のケースである。

確かにGPSで見れるのは携帯の場所だけだ。仮に携帯がここにあったとしても麻有たちは携帯を置いて連れていかれてしまったという可能性も否定できない。

一度考えだすとそっちの方がはるかに現実的に思えてきてしまった。

それだと呼びかけに返答がなく、人の気配が感じられないことも合点がいく。


僕は頭を激しく横に振った。

いや、相手は感染者なんだ。感染者はただの死への欲求の塊。

欲求のままに殺すだけなのだから欲求を抑えてまで一旦殺さないで外に運び出すとは考えにくい。

僕はあれこれと考えを巡らせた。

しかし、やはり解は見つからない。

僕にできるのはがむしゃらに捜索することと人の気配のない虚しい空間に声をかけ続けることだけだった。


「麻有!聖奈!返事をしてくれ」

自分の無力さを恨みながら声を荒げる。

その光景はもはや生存確認というより、僕が助けを求めているようであった。

頼むから生きていてくれ。返事をしてくれと懇願する。


やはり返事はない。


実はもう一つ先ほどの「連れさらわれてしまった」ケースより残酷なケースが存在する。

僕は必死にそのケースについて考えまいとしていたのだ。

そう、一番単純かつ一番残酷な答え。


「二人はもう死んでしまっている」


もう、認めざるを得なかった。


僕は膝から崩れ落ちた。

悔しくて悔しくて。

両目から大粒の涙がこぼれ落ちた。


この世界が憎い。


暴言を吐いて暴れてやりたいがあいにく僕にはもうそんな体力は残っていなかった。


振り向くと雫は僕の後ろにポツポツと連なっていた。

途中から自分は泣きながら麻有たちを探していたのだ。

涙を流し始めたその時からもうすでに半分諦めていたのだろう。

ただその現実を受け入れたくないがために苦し紛れの捜索を続けた。

最悪のシナリオを頭のうちから消して。

気を紛らわすためだけに無駄に歩き回って。


僕は最初から彼女らを救えると口で言っておきながら心では信じきれていなかったのかもしれない。

そう、きっと最初から諦めていた。


「二人はもう死んでしまっている。そして感染者はとっくに逃げている。ここに残っているのは遺体だけ」

この解が成り立つことは最初から明白だった。

これだけ時間が経っているのだ。

彼らが生きているとすればそれは二度とない奇跡である。

ーー奇跡

…これまでの僕の幸運の力を持ってすればそれも決して不可能なことではなかったかもしれないがあいにくもうあの能力は綺麗さっぱり失った。


そもそもこれだけ呼びかけて返答がないこと自体おかしいのだ。いくら家が広いといえど廊下の端から端まで歩いて声を張り上げていたらどの部屋にいたとしても聞こえるはずだ。

聞こえないということはもうここにはいないかそれとも…


僕は思いついたように顔を上げた。


あった。


この建物内では声が届かない場所が、僕の家の中に。


冷静に考えれば分かることであった。

感染者が入ってきた時にとっさにとる行動は逃げる、だ。

そして逃げる時にはより広い場所に出ようとする。まずはいち早く家から飛び出す。

そして小学生の聖奈を連れているから走って逃げるのは不可能。そうなると必然的に隠れるしかない。

隠れやすい場所。

庭か…


僕は庭に飛び出した。

うちは庭もテニスコートとゴルフ場が付いていて相当広い。

その中でも家の中の僕の声が届かなかったとなれば彼女たちがいるエリアはだいぶ奥の方に限られてくる。



一心不乱に茂みに向かって走り続けていると聖奈の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。


当たり前だがそれは電話越しに聞こえてきた声よりも何倍もうるさく、キンキンと頭に響いた。

僕は思わず表情を緩める。

生きてる。

安心したのは束の間。

感染者は麻有を左手で押さえつけ、右手で持ったナイフを高く振り上げていた。

聖奈は泣き止んで「ひっ」と恐れおののいたような声を出し、それと同時に僕の存在に気づいたようだった。

小さい体が張り裂けそうなくらい大きな声で助けを求めている。

「助けて!お願い、早く!お父さん!」

僕はもうその声が聞こえるくらいまで近づいて来ていた。

しかし、まだあまりに遠すぎる。

怪物もこちらに気づいたようで、充血した真っ赤な目を向けてきた。

瞬間僕は絶大な恐怖を感じた。足がすくんで走るフォームが大きく崩れた。

それでも僕の足は止まらなかった。その恐怖は僕の麻有を助けたいという気持ちに勝ることはなかったのだ。

怪物は邪魔が入ることを恐れたのだろうか。

急いで麻有に向き直ると今度は最短距離で小さめにナイフを振りかぶる。


振り下ろされるナイフを僕は手を伸ばして掴んでいた。

麻有の真っ白なワンピースに赤い斑点ができ、染まっていく。

ポタポタと垂れているのは麻有の血ではない。

僕の血である。

「真さん!」

「良いから早く逃げろ!」

僕も聖奈の泣き声に負けないほどの音量で叫ぶ。

とりあえず2人を逃せば後はどうなってもいい。


麻有は僕の指示に従い、あっけにとられて力が弱くなっている怪物の左手を押しのけると転がるようにして聖奈の方に避けた。

聖奈を抱き抱えて僕の方をじっと見つめる。

「何してるの?真さんも早く逃げて」


僕は皮肉なことにもうすっかり殺意のウイルスの専門家である。3人もの感染者を生で見て、実験では得られないようなリアリティを経験しているのだから。

僕みたいな人間、この世界中を探したってなかなかいたもんじゃないと思う。

だからこそ分かる。感染者は決まって足が遅い。何かに取り憑かれたような動きで…例えるなら酔っ払いの千鳥足のような感じで追いかけてくるからである。

筋力などの関係でその速度にそれぞれ個人差はあるにしろ大体の平均的な速さぐらいは取れる。

それを踏まえて考えて、もう恐らく僕にはその速度に勝てるだけの体力すら残っていないように思えた。

体の未発達な聖奈。抵抗したためか、怪物に体中を殴打されて肉体的、精神的にボロボロの麻有も同様に、恐らく逃げ切ることは出来ないだろう。


だとしたら残された手段はただ一つであった。

立ち向かう。それしかない。


「2人は先に逃げて」

僕は出来るだけ笑顔で怯えた表情をする麻有と聖奈の方を見た。

僕は自然と人間味のある上手い笑顔を作っていた。

こんな境地に立たされているというのに心から笑うことが出来るとは自分でも驚きだった。

新発見である。

人間は窮地に立っても案外笑えるらしい。


「じゃあね、ありがとう」

「嫌だ!」


叫んだのは聖奈ではない。麻有だった。

僕はそれに応えることなく背中を向ける。


怪物は力任せに僕の手からナイフを引き剥がした。僕の手には鈍い痛みが走る。

僕はあまりの痛さに地面をのたうちまわった。

深すぎる切り傷は僕の右手の感覚を完全になくすほどであった。

怪物はすかさずナイフの先を僕の方に向け、じりじりと迫ってくる。

とりあえずヤツの注意を引くことには成功したようだ。

これで麻有たちは安全に逃げれる。


本当は麻有たちを逃すだけで目標は果たしたはずなのだが、今になって長い間失っていた生への欲求が戻ってきてしまった。

僕は呆れてため息をついた。

人間というのはとことん厄介な生き物である。

ひねくれているというか何というか…

安全なうちは何とでも言えるが、いざ何かが奪われそうになるとそれがあたかもいいものののように見えてきて、手のひらを返したように失いたくないと思ってしまう。

僕はこの数日で嫌というほどそう感じてきた。


こんな悲惨な状況下でもまだ生きたいと思えるとは…諦めが悪くて、滑稽である。

潔く死ぬ度胸がないだけのような気がしてならない。

しかし不思議と嫌な感じはしなかった。


それが人間らしさというものだろう。

しつこくて、物分かりが悪くて、単純で、愚か。それが人間という生物の本質である。

僕はすでに人間とはかけ離れてしまった哀れな怪物の前で人間を語った。


もう恐怖はない。

そこにあるのは生きたいという欲求だけ。


怪物はもう一度左足をバネにして僕に飛びかかって来た。

僕も同時に前に出る。

力任せに一直線に突き出されたナイフ。

僕はその単純な一突きを交わしてナイフを握る右手を強く蹴り上げた。

怪物が唸り声をあげる。

自分の足の可動域を超える高さを蹴ろうとしたため僕の体は宙に浮き、右腕から不恰好に着地する。

怪物は衝撃で思わずナイフを手放していた。

僕は芝生に寝転がりながら手を抑えて唸る怪物の姿をじっと見ていた。

まさかここまでうまくいくとは思っていなかった。

しかし恐らく今の一撃でよりダメージを負ったのは僕の方だろう。思ったより手の甲の骨が硬かったため足はズキズキと痛み、着地を失敗したせいで背骨と足の関節も悲鳴を上げている。


僕はすぐさまその煩悩を打ち消して、地面に手をついて曲がり方のおかしい奇妙な内股でゆっくりと立ち上がった。

客観的に見たわけではないので分からないが恐らくその姿は怪物も顔負けのホラー感に溢れていたと思う。

怪物が僕を見て一歩後ずさりしたのがその何よりの証拠だ。

僕は冷静にその場に落ちているナイフを拾い上げ茂みの方に投げ捨てた。

これでもう相手は丸腰である。

感染者といえど体は普通の人間だ。

見たところ僕より年もいってるし殴り合いなら負ける気がしない。

あっちもそれを本能的に察知してか、さっきまでの気迫は跡形もなく消え去りずるずると無様に後退すると木の根に引っかかって尻もちをついた。

少しためらいはあった。が、完全な安全を得るためには再起不能にしなければならない。

僕は目をつぶって拳を握りしめ、彼の腹に渾身の一撃を加えた。



あれから何発撃ち込んだだろう。少し心が痛む。

相手はすっかり戦意喪失し、うなだれていた。


生死を分ける一戦を終えた後の僕は自分でも驚くほど冷静で、無意識のうちにすぐ110に電話をかけていた。


警察を呼ぶと一安心してその場に座り込む。


「お父さん!」

麻有と聖奈が同時に僕を呼びながら抱きついてきた。

僕が思わず態勢を崩して後ろに倒れると2人が僕にのしかかる形になった。

「良かった本当に良かった、本当に…」

麻有は目に涙をためてひたすらにそう繰り返している。上手く言葉にならない安堵が溢れ出ていた。

「ちょっと、重いよ。今僕はケガ人なんだから」

僕は照れ隠しのように愚痴をこぼした。

「お父さん本当に死んじゃうかと思った」

聖奈は泣きじゃくりながら僕の胸に顔を埋めた。

涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった聖奈の顔はみっともなかったがそれでいてどこか愛らしくもあった。

まったく…殺されそうになっても泣き、助かっても泣く。

子供は泣く以外の感情表現を知らないのだろうかと僕はつくづく思う。

「父さんが死ぬわけないだろ。父さんは世界で一番強いんだから」

「そうだった!忘れてた」

僕がおちゃらけて言うと間に受けた聖奈は目を丸くして驚いた顔をした。

こんな根拠もない雑な理論でも納得するのか…

麻有は笑いながら呆れたようにやれやれと肩をすくめている。

流石に子供騙しが過ぎただろうかと自分でも恥ずかしくなった。


「でもとにかく無事で良かったです」

麻有が言う。

「うん、まあおかげさまでね」

僕がそう答えると麻有は目を丸くして聞き返した。

「どう言う意味ですか?」

「そのままの意味だよ。麻有たちが生の大切さに気づかせてくれたから臆病な僕でも感染者に立ち向かえたんだ」

僕は続ける。

「2人に背中を押されてまだ僕にも居場所があるんだって思えて…もし襲われてるのが他の人だったら恐怖で膝を震わせてたと思うよ」

我ながらよくもまあこんな気恥ずかしいセリフを長々と言えたものだ。

しかし、この時の僕は心から幸せを噛み締めていたので大真面目に言った。

案の定、ふふっと麻有が上品な声を上げて笑う。

大方僕がすさまじく無様な格好でガクガクと膝を震わせている様子でも思い浮かべたのだろう。

まあ確かにそれを的確にイメージできたのなら笑ってしまうのも無理はない。

「私たちが何をしたわけでもないんですけど知らないところでお役に立てていたとは、嬉しいです」

麻有は声を弾ませて本当に嬉しそうに言った。


「もう、ずっと2人だけで喋って…」

聖奈は頬を膨らましながら静かに座っていた。

それでも、とうとう我慢の限界がきたのか意味も分からずに割り込んでくる。

要するに話に入りたくて仕方ないということだろう。

「ごめんごめん」

僕が頭をポリポリと掻きながら謝ると意外にも聖奈はコクリと頷いてあっさり許してくれた。

「それじゃあさ、聖奈も活躍できてたかな?」

聖奈はすぐに表情を明るくして問いかけてきた。

何と切り替えの早い。こういうところはお母さん譲りだろう。僕は割と後に引きずってしまうタイプだからな…などとどうでもいいことを考える。

麻有はあやすように聖奈の小さな体を両手で抱き上げた。

「そうですね、聖奈も今日は大活躍でしたよ」

「本当?!ヒーローかな」

聖奈はキラキラした眼差しを麻有に向ける。

「そう、ヒーローねきっと」

麻有が冗談めかして言うと聖奈は案の定また真に受けて「おおっ、正義の味方!」と興奮してポーズを取り出した。

これは…愛らしすぎる。

聖奈は女の子なのに見るテレビアニメはほとんど戦隊モノで話題のかみ合いからか、男子の友達が多いようだった。


ふと、僕は麻有だって聖奈の純粋さで遊んでいるじゃないかと思い、麻有の方を目を細くして睨むと彼女はすぐに気づいて慌てて視線を逸らした。


にしても…

今日のヒーローは流石に僕ではないのかと不満をつぶやいてみたりする。

子供と張り合うというのも何だか大人げないが、何てったってあれだけ苦労したのだ。

今日くらい僕にも花を持たせて欲しい。

もう少し感謝される予定だったのだが…拍子抜けだ。

もちろん厚かましいのでこんなことは口が裂けても言わないが。


そんな僕の嫉妬もつゆ知らず聖奈はまだ舞い上がっている。

誇らしいのか鼻を大きく膨らませながら…

全く、やっぱり子供はとことん無邪気である。

あんな衝撃的な出来事のこともすっかり忘れて飛び跳ねている。

親としてはマイナスの出来事は忘れてくれるに越したことはないが、ここまで簡単に全て忘れてしまうのもどこか危険に思えて僕は不安になった。

例えばショックが大きすぎて受け止めきれずに記憶が飛んでしまったのではないだろうかとか…

一方、もちろん大人はスッパリ忘れるというわけにもいかず、話がひと段落すると今度は聖奈にはバレないように細心の注意を払って麻有がこっそり僕の方に近づいてきた。


「あれが感染者なのですか」

僕の耳元でそう呟く。

人差し指で倒れて混んでいる感染者を指した。

麻有は急に思い出したように表情を硬ばらせると吐き気を催したのか口元を手で押さえた。

恐らく怪物に襲われた負の感情と、僕の命が奪われず安心した正の感情が入り混じって複雑な心境になっていることだと思う。

凶暴な性格と地に堕ちた目。強大な力を持った人でない何かは恐怖の具現化そのものであった。

それでいて人の形をしているというのもまたタチが悪い。

目を瞑ってもまぶたの裏にへばりついて離れないあの姿…

「そう、僕が苦しめられてきたのは…」

僕は同調して、手入れされた芝生の上に倒れている無残な成人男性に目をやった。

その視線には1ミリも恨みを込めてはいない。

込めたのは哀れみだけだ。


僕はあえて最後まで言い切らなかった。

辛いことを思い出すので最後まで言いたくなかったというのももちろんあるが麻有もわざわざ最後まで言われなくても分かると思ったから。


「これが本当に…人間なんですか?」

「ああ」

僕は感情をかき消すようにぶっきらぼうに答えた。僕だってにわかには信じがたいが、前に進むには無理やり理解するしかないのだ。

僕が答えると麻有が胸を押さえて苦しそうに呼吸し始めた。

安堵によって一時的に隠されていた恐怖が再び麻有の脳を侵食し始めたようである。

彼女はほぼ倒れるように座り込みそれと格闘する。

僕はどうすることもできず、ただ呆然と麻有を見つめていた。

「大丈夫か?」

こんな言葉しかかけられない。

大丈夫なはずがない。どんなバカでも一目見れば分かるほどにそれは明白だった。

僕は麻有の背中に手を当ててさする。

聖奈はただならぬ気配を感じ取ったのか駆け回るのをやめて僕たちの方へ寄ってきた。


「どうしたのお母さん?大丈夫?」

心配そうに麻有の顔を覗き込んだ後、「お母さんどうしちゃったの?」と僕に答えを求める。

僕は黙って首を振った。

「大丈夫よ。すぐに良くなるから」

娘の前では弱いところを見せまいと毅然に振る舞う麻有の姿は強い母の背中をしていた。


僕はまだ感染者を始めて見たあの日の光景が忘れられない。

目を閉じれば脳裏にその映像が鮮明に浮かんでくるほどに覚えている。

恐ろしい姿を前に膝はどうしようもなく震え、体は自分の意識とすっかり切り離されて遠いどこかに置き去りにされたような気分だった。

動かそうと頭で思っても本体はピクリとも動いてはくれない。

自分もいずれ目の前の怪物のようになってしまうのではないかと恐怖で何日も眠れなかった。


そして麻有たちには僕と同じような思いをして欲しくなかった。

苦しむのは僕だけで良かったのに。

麻有はここから立ち直ることが出来るだろうか。

聖奈はこれから先何かがきっかけで今日のことを思い出した時にそれを受け止めきれるだろうか。トラウマになって家から出れなくなったりはしないだろうか。

様々な不安が僕の中で錯綜する。


「落ち着きました」

数分さすっていると麻有は落ち着きを取り戻した。まだ浮かない表情をしているがだいぶ楽になったようだ。

「そんなに心配しないで下さい。乗り越えられますよきっと」

麻有は立ち上がるなり僕を見ながらそんなことを言った。

僕は初めは何の事かさっぱり分からず呆然としていたが、意味に気づくと笑いながら立ち上がった。

僕はそんなに顔に出やすいだろうか。それとも麻有の人の心を読む能力がズバ抜けているのか。

全て見透かされているとは。僕が何に悩んでいるかを知った上で励ましの言葉をくれたのだ。

どこまでいっても麻有には敵わないなと思いながら服についた芝生を払った。


ふと思い出して時計を見る。

20時12分。

ついに乗り越えたのだ。

20時11分に打ち勝ったのだ。


生きてる…。


僕は周りを見渡す。

麻有を見る。聖奈を見る。2人とも僕の不可思議な行動をキョトンとした顔で見ていた。

そして僕は両手を広げて空を見上げた。

2人にはいよいよ僕が気でもおかしくなったように見えるだろう。

しかし今の僕にはそんなことはどうでもよかった。

こうしていると夜風を体全体で感じることが出来る。

言い換えれば生を実感できる。


生きていることがどれだけ素晴らしいか。

どれだけ尊いか。

生きていればこれからいくらでもやり直していける。

いくらでも乗り越えていける。

結局は自分が幸か不幸かなどどうでもよかったのだ。

今日負った大きな心の傷も家族全員で乗り越えていきたい。

簡単なことではないと思う。きっと苦労するはずだ。

でも絶対にできる。


僕たちはしっかりと生きてこの地に立っているから…


僕は何とも表現し難い誇らしさで胸をいっぱいにしながらゆっくりと両手を胸の前に突き出した。


は?


何のポーズだ?これ?


意味不明な不恰好なポージングである。


今、勝手に腕が動いた?


間違いない。僕にはこんな不恰好なポージングをしようという意思はなかったはずだ。

つまり無意識のうちに…

僕は恐怖を覚えブルっと身震いした。

いや待てよ。身震いすらも出来ない。


何なんだいったい…


理解が追いつかない僕の脳を置き去りにして時間は淡々と進んでいく。

目の前がぼやけてきてついには…

暗転した。


少しして視界に光が戻ってくる。

何だただの立ちくらみのようなものか…ここ最近ストレスやら過度な運動やらで精神的にも身体的にも疲れていたから仕方な…


僕はその光景に目を見張った。

声が出なかった。

何度も何度も叫んでいるはずなのに口からは隙間風のような音が鳴るだけだった。



僕の手は…



胸の前に突き出した僕の両手は…



麻有の首を締めていた…


僕は…何をしている?

何故こんなことをしている?


冗談はよせよ。


僕は顔に引きつった笑いを浮かべて麻有の首を絞める手を緩めようとするが手を動かそうとすればするほどより強く締めてしまうだけだった。


ハハッ。何の冗談だよ。

おい、麻有。何でそんな青白い顔をするんだよ。

どういうことだよ。


麻有は苦しそうなか細い声を出しながら体をジタバタと捻らせる。


「何…やってるの?…お父さん…?」

聖奈は信じられないといった表情で僕を見上げていた。

それはそうだ。さっきまで麻有を全力で助けた人が今度は麻有を全力で殺そうとしているのだから。

何より僕自身が全く状況を把握できていない。

「離してよ。やめてよお父さん!」

聖奈は叫びながら僕の腹に非力なパンチを打ってきた。

もちろんその程度で僕の手は弱まらなかった。


麻有はもう声もあげなくなっている。

やめてくれよ。

奪わないでくれよ。

やっと守れた命なんだ。

だから…それだけは。

頼むから…

そのためだったら何だってするから。

命だっていらないから。


僕は目に見えない何かに…自分自身に許しを請うていた。


何なんだよ!何で何だよ!何でいつもこうなんだよ。


何で僕から大切なものを奪っていくんだよ。

僕が何をしたっていうんだ!


僕をどうしたいんだよ!


止まれよ。


なぁ頼むから


止まってくれよ。


もう誰か…


僕を…


殺して…


「ズッ」


聞き覚えのある鈍い音。

それとほぼ同時に僕の背中に鈍い痛みが走った。


倒れこむ僕。

手は麻有の首から外れ麻有は芝の上に落ちた。

ゲホゲホと咳き込みながら体を痙攣させている。

僕の視界は90度ずれ、気づいた時には空を見上げていた。

体を少し動かす余力ぐらいはあった。

顔をねじらせて後ろを見る。

そこにはさっきの感染者がいた。

彼が両手で力いっぱい握っているナイフは僕の体に刺さって真っ赤に染まっていた。

そうか…

彼が僕を刺したのか。

2本持っていたなんて…完敗だ。

ありがとう…

どうにかこの手で麻有を殺さなくて済んだようだ。

感染者はナイフを僕の体から引き抜き麻有たちの方に向き直る。

ナイフを構えて飛びかかるタイミングをうかがっているのだろう。


しかし、近くでサイレンが聞こえたかと思うとパトカーが到着して急いで麻有を殺しにかかる感染者を取り押さえた。


これで一安心だ。


もう痛みも感じない。


ああ、それにしても…疲れた。


もう、眠ろう…


僕は静かに目を閉じた…


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