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運のいい悲劇  作者: 結城 真
7/10

崩壊

5 崩壊


あれから葬式が終わり、もう早1週間が経っていた。

1週間どころで悲しみが消えるはずもない。

それほどに鈴木は大きな存在だった。

鈴木がいなくなってからは僕は仕方なく田本の運転する車で会社へ向かっていた。


当たり前だが鈴木の運転の方が気持ちがいい。

僕は細い目で車の天井を見つめた。

今僕は何をしようとしているんだっけ。

ああそうだ、職場に向かっているんだ。

意識もはっきりとしない。体が重くて、いくら寝ても眠気が取れない。

これが眠気ではないと気づくのには少し時間がかかった。

そう、虚無感だ。

胸にぽっかりと空いた大きすぎる穴を埋めるものは何もなかった。

何をしても力が入らない。

そして社会とは残酷なもので、悲しみにくれている暇を与えてはくれない。

確かに社会的に見れば僕と鈴木は親族ではないのだから休暇などもらえないのは当たり前だが、僕の中では鈴木は親族にも値するほどの存在であった。

誰でもいいからそれを分かってほしい。


今日も会社に行ったら大手スポーツ会社と契約を結んで、社内会議をして、書類に目を通して…

嫌気がさす。

いっそのこと…

僕は車の窓を開けた。気持ちのいい風が吹き込む。

あの夜と同じだ。

あの夜も同じように夜風を感じた。冷たく気持ちのいい風だった。鈴木が車から出て、少しだけ会話をしてそれから…

音楽を聴くために窓を閉じた。

……。

あの時窓を閉じてなければ、開けたままておけば、鈴木の異常に気づいたはずだ。

牧野に襲われた時、鈴木はいくら無反応な男といえど少なからず声をあげて助けを求めたに違いない。

大声で叫ぶ鈴木を想像する。

それを僕は窓を閉めていたがために聞き逃したのだ。

今になって悔しくなる。

鈴木は呼びかけて呼びかけて…最後まで呼びかけ続けたのだろうか。

それとも途中で諦めたのだろうか。

どちらでも変わらない。

どちらにしても辛かったに違いない。

彼が心から願った救いの手が降りることはなかったのだから。

あの時こうしておけばよかったと今更後悔してももう遅いことは分かっている。それでも後悔は止まらないのだ。

仕方ないで割り切ることは出来ない。

次はないのだ。仕事のようにこれからの頑張りで挽回することは出来ない。


責任転嫁が出来ればどんなに楽だろう。

そうしたくても僕は何を恨めばいいのかも分からなかった。

単純に牧野を恨めばいいのか?

でも牧野も自分の意思でやったことではない。

実際に僕が彼に会った時も彼はひどく怯えていた。

鈴木を殺して我に返った時、また犯罪を犯してしまったことに悲しみを感じたことだろう。

彼もまた僕と同じ被害者である。


では何か、殺意のウイルスが悪なのか。

そうだ、それこそが悪だ。根っからの悪だ。

さぁ皆んなでそれを恨んで!裁いて!殺して…

虚しいだけであった。

ウイルスを恨んだところで何の気晴らしにもなりやしない。

何が悪いというわけではない。この世に完全な悪は存在しないから。


それでも人の意思とは面倒くさいもので、自分のことになると僕のせいではない!と自信を持って言い張ることは出来ない。

やはり僕があんなことをしていなければ、あと少し時間がずれていたら。頭の中でそんなことばかりが渦巻いてしまうのだ。

他人が見れば僕のせいではないことは明白だと思うのだが…


「幸助さん、調子はどうですか」

田本が声をかけてきた。考え事をしていた僕にも何故か彼女の声だけはすんなりと入ってくる。

「悪いかな」

「そうですか」

そう答えるべきではないことは分かっていたが嘘をついて調子が良いというのも何だか気が引けた。

「それはそうですよね。変な質問してごめんなさい」

それっきり田本は黙り込んだ。長く重い間であった。

田本も鈴木について触れるか触れないか迷っているのだろう。

「さみしいですね」

結局田本は消え入りそうな小さな声で言った。

僕に言っているのか独り言なのか。

「そうだね」

とりあえず僕も同じようにつぶやいた。

「麻有様も聖奈様もとても悲しんでおられましたよ」

「そうか…」

意外だった。

聖奈は鈴木が大嫌いだったからだ。

子供は素直だから分かりやすい。いつも聖奈がどこに行くにしても僕が「今日は鈴木の送り迎えでいい?」と聞くと「ヤダヤダ!鈴木じゃなくて、田本がいい」と駄々をこねた。

聖奈から見ると仏頂面な鈴木は怖いらしい。

あんまり聖奈が嫌がるので「こら!そんなこと言わないの!」とよく叱りつけたものである。

懐かしい…


実は僕はあの日から一週間経った今も家に帰っていない。

あの日、僕は鈴木が亡くなったのを知り、田本を残して走った。目的地はなく、ただただ悲しみを振り落とすようにして体を必要以上に激しく揺らしながら一直線に走った。

疲れ果てて立ち止まり、その場に座り込んだ。人気のない道だった。そこで一晩を過ごしたのだ。


次の日からは近くのホテルに泊まった。

とにかく一人になりたかった。一人になって落ち着きたかった。

そうでもしないと辛い現実を受け止めきれなかった。

そして毎朝田本にホテルの前まで迎えにきてもらって会社に行っていた。

だから麻有と聖奈には全く会ってない。

ある程度は落ち着いてきたので、今日あたりで家に帰ろうと思う。


「田本」

「はい?」

僕が小さく名前を呼んでも田本の地獄耳にはしっかりと届く。

「麻有怒ってたかな?」

黙って飛び出して帰らなかったものだから麻有にも相当心配をかけてしまったと思う。怒られても仕方がない。

田本は首を横に振った。

「いえいえ、麻有様も幸助様の心中を察したようで『幸助さんは誰よりも鈴木を信頼していたから無理もありません』とおっしゃっておりましたよ」

有難い。本当に僕にはもったいないくらいよくできた妻だ。

「そうか」

僕は目頭を熱くして頷いた。


「ですが…」

田本の目つきが鋭くなったのがミラー越しに分かった。眉毛が釣り上がり口をへの字に曲げた顔。説教を始める時の顔だ。

「私はあまり賛成できませんね。

幸助さんが辛いのは当たり前ですが、麻有さんと聖奈さんだって同じように辛いんです。そういう辛い時に一家の大黒柱として家族を支えるのが幸助さんの役割だと思いますよ」

田本の説教は最初は強く、最後は優しく終わる。

田本も鈴木も長い間僕と一緒に過ごしてきたので、自然と僕に説教をする立ち位置になっている。いわば第二の親的な。

田本の説教もまた、しっかりと的を得ていて正しいことを説く。

今回のことも、その通りだと思う。

完全な正論だから反論する余地もないし、僕とてする気もさらさらない。

僕は素直に認めるだけだ。

「そうだね。その通りだ」

僕の行動は間違っていた。

心が弱かったがために僕は逃げ出してしまった。

自分のことでいっぱいいっぱいだったから他の大切な人のことを忘れていた。

現実逃避をしたかったから考えることを放棄した。

僕は何て情けない人間なんだろう。

生まれて初めて、心から自分のことを不甲斐ない人間だと思った。

僕はどんなに苦しくても生きている限り、立ち直って前に進まなければならない。

今日こそは絶対に家に帰る。


「まあ、私も人のこと言えませんけどね」

「どういうこと?」

「私も麻有さんと聖奈さんを元気付けることができませんでしたから」

それは流石に正義感が強すぎる。

僕はさらに後ろめたくなって田本から視線を外して窓の方を見た。

「それは田本のせいじゃないでしょ」

「いや、私も長い間雇ってもらっている身なのでそういうわけにはいきませんよ」

田本は言いながらブレーキを踏んだ。

車体がゆっくりと止まり目の前に会社のビルが現れる。

予定時刻ジャストだ。田本だったらもはや当たり前のことである。


「着きました」

「ありがと」

僕は荷物をまとめて車のドアを開けた。

「仕事頑張ってくださいね。辛いかもしれないけれど、幸助さんの強運は伊達じゃないんですから、これから良いことがたくさん起きますよ。きっと…」

田本は弁当を手渡しながらいつものように顔をくしゃくしゃにしてニッコリとした。

「うん、ありがとう」

そうだ、僕は強運だ。

僕は大きく一歩目を踏み出して職場に向かって行った。



エレベーターに乗ってボタンを押す。

社長室はビルの最上階にある。僕は30のボタンを押した。

エレベーターは早いスピードで上へ一気に上がっていく。

あっという間に30階に着いた。

エレベーターを降りて向かって左に社長室がある。ぼーっとしていても体が道を覚えていて、勝手に社長室まで連れて行ってくれた。

ドアノブを回して中に入る。

クーラーがガンガンに効いていて暑がりの僕には天国のような場所だった。


「おはようございます」

挨拶が奥の方から聞こえてきた。

「ん?」

中元の声ではない。

中元より声にハリがなくて高い感じである。

「ふぅ」

「うわっ」

僕はびっくりして思わず情けない声を上げながら奇妙なポーズをとった。

仕方ないだろと、これについて僕は弁解したい。こんな非日常的な登場シーンがあれば誰でも絶対に驚くはずだ。

段ボールの山がもぞもぞと動き出して女性がひょっこりと顔を出したのだ。

誰がこんな登場を予想できるだろうか。


「はぁ、暑い暑い」

女性はタオルで汗を拭きながら山から這い出てきた。

もちろん山は雪崩のように崩れ去って…

部屋が酷いほどに散らかった…

「あー、やばい。やっちゃったよ…」

女性は余程の天然なのか自分の失態に気づくと慌てふためいてあちらこちら走り回っていた。

その度に段ボールが蹴られて宙を舞う。

さっきからこの女性は一人で話しているが、僕の存在に気づいてはいるんだろうか?

素朴な疑問。

さっき挨拶されたんだから流石に認識されてる…よな?

そして彼女は尋常じゃないほど汗をかいていた。この涼しさの中で汗を掻くとはどこまでハードな仕事をしていたのだろうか。


女性は脱げた靴を段ボールの山から引っ張りだして履き直すと慌ただしく僕の方に走ってきた。

「初めまして、今日からお世話になります。高木美智子です」

高木はペコリと頭を下げてお辞儀をした。「次は何だっけ?」とつぶやきながらまたあたふたしている。

身長は中元と同じくらいだが足が少し短い。スカートの丈も何か不自然な感じがする。

鼻が高く綺麗な顔立ちだが、メガネが何かアンバランス。

ところどころ中元と似ているものの、全体的に中元よりどこかマヌケな感じがする不思議な女性だった。


一方僕はこのツッコミどころ満載の展開に大いに困惑していた。

段ボールの山から出てきた初対面のマヌケな天然女子。

どこからツッコんでいけばいいのだろうか。

「うーんと。まず、どなたですか?」

迷った末に出た、最初の質問はこれだった。

まずは身元を確認しないことには始まらない。

仮に部外者だったとすれば早急に追い出してこのビルのセキュリティを見直さなければならない。

「だから、高木です」

「いや、だからとかじゃなくて…君は新しい秘書かなんかかな?」

まさかそう返されるとは思っていなかったので僕は思わず言葉につまってしまった。

そういうことを聞いているんじゃない。

普通話の流れから分かると思うのだが、バカなのだろうか。いや、はっきり言おう、こいつはバカだ。

一言交わしただけで十分わかった。察するに彼女はだいぶ面倒くさい部類の人間である。

それも僕が特に嫌いな空気が読めない系。


「そうです。中元さんの代理です。中元さんは昨日から体調が悪く寝込んでるらしくて」

僕はこんなに短い時間で二度驚くことになった。

中元が病気?!

それは非常に珍しいことであった。

いや、中元が病気にかかること自体は珍しくないのだが、それで会社を休むことが珍しいのだ。

実際彼女は結構体が弱くて風邪をひくことが多い。でも、決して休もうとはしない。

熱があってもそれを隠して会社に来ようとするのだ。

一回熱が40度近くあった時もフラフラになりながら会社に来た。

もちろんその時中元の顔は真っ赤で咳をずっとしているし小刻みに震えていたのですぐに僕が気づいて帰らせたのだが最後まで「これぐらいなら大丈夫です」の一点張りでなかなか彼女も引き下がらなかった。

どこが大丈夫だよ。40度で「大丈夫」なら何度までいったら彼女の中で「ダメ」になるのだろう。

答えは分かっていた。何度までいっても彼女の中では「大丈夫」だ。彼女とて自分でも大丈夫じゃないことは分かっているに違いない。それでも「大丈夫」。

つまり、中元は一度も自分の意思で欠勤したことがない。

彼女にとって仕事は呼吸なのだ。するのが当たり前。当たり前すぎてもはや義務でもない。むしろ仕事をしない方が彼女は苦しく感じる。

中元はそういう人間だ。


そんな中元が仕事を休んだ?

全く想像できない。よっぽどのことがあったのだろうかと僕は少し心配になった。

オーバーなリアクションをする僕を高木は不思議な目で見ていた。

「そんなに大変なことなんですか?中元さんが欠勤って」

そりゃそうだ。事情を知らない人なら当然このような反応になる。

秘書が病気で休みと聞いただけで社長が血相を変えて不安がるなんてあり得ないから。

「うん、まあ1年半一緒にいて彼女が自主的に休むのを初めて見たからね」

「なるほど、そうでしたか」

高木は意外に物分かりが良く、すぐに納得してくれた。いや、もしかしたらこのバカは理解していないのかもしれないが。


とりあえず僕はドアのところでずっと直立している高木を座らせた。

「まあどうぞ、とりあえず座っといて」

来客用のソファを指し示す。

前まで中元とは気が合わないと思っていたがいざ、違う人が秘書になるとそれはそれで落ち着かないものである。

「ありがとうございます」

高木は少しためらいながらも素直にソファに座った。

僕はテーブルの上の資料をまとめ終えて、詳しい話を聞こうと高木の向かい側のソファに座った。

「中元が何の病気なのかまでは分からないよね」

高木は表情を強張らせながら面接の時のように緊張しながら答えた。

「そうですね、すみません。でも3日間の休暇を取るって電話に出た社員の岡野さんが言っていましたよ」

3日?たかが風邪で何故そんなに休む必要があるのだろうか。

他に考えられるのは…

仮病で旅行とか?いや、それこそもっとあり得ない。あの真面目な中元に限って。

僕は少しずつこの話を疑い始めていた。どう考えても中元がそんな行動をとるとは思えないのだ。

「何かあったのかな」

「確かに、風邪で3日は休みすぎですね」

高木が同調して頷いた。

「入院ではないんだよな」

「さぁ。分かりませんが入院で3日は逆に早すぎですよ」

それもそうだ。どうやら僕は頭が回らなくなっているらしい。この天然人間、高木に訂正されるなんて。

鈴木の死のショックに加え、中元の欠勤で不安が積み重なり、僕の精神状態が不安定だったせいにしておこう。

僕はとりあえずごちゃごちゃ悩むのはやめて、明日にでも中元の家にお見舞いに行ってみることに決めた。


「愛されてますね。中元さん…」

高木は小さな声でつぶやいた。

愛されている?僕に?

何が言いたいのだろう。秘書が来ないことを社長が心配するのは普通のことではないのだろうか。

「何か言った?」

本当はバッチリ聞こえていたが、僕はあえてとぼけて聞こえていないフリをした。

特に理由はない。何となくだ。

「何でもないです」

あっちもすっとぼけた顔で返してきた。

「とにかく、これから…んと、3日間?よろしく」

僕はぎこちなく話をまとめて高木に向かって手を出した。

高木はとっさに勢いよく立ち上がると両手で僕の手を覆って頭を極端に深く下げた。

「よ、よろしくお願いします」

一生懸命な姿勢で、やる気は見られるがやっぱりどこか頼りない。

「そこまで深くお辞儀しなくていいよ」

僕は高木をリラックスさせるために笑って見せたが、高木は顔を真っ赤にして余計に力が入ってしまった様子だった。

「高木君は、秘書の仕事が初めてなのかな

?」

僕が尋ねると、高木はとさらに顔を赤くした。

聞いてはいけなかったのだろうか。

高木はしばらく硬直してから残念そうに答えた。

「そうなんです。やっぱり様になってませんか…」

どうやら彼女は「初めて」=「下手くそ」ということになるらしい。

まあ僕もそういう意味を全く含めないで言ったのかと問われると、自信を持って返事はできないが、だからってそこまで落ち込む必要は無いと思う。

何だかやっぱり面倒くさい人だ。

「いやいや、最初から上手くやれる人はいないんだから少しずつ覚えていこう」

僕は片手でガッツポーズを作って見せた。

僕の思いつく限り最善の答えである。我ながらいい上司感が存分に出せていると思う。

「ありがとうございます」

高木も感動した様子でまた極端に深いお辞儀をしてきた。


僕は背もたれに全体重を預けて、何をしてもらおうかと考えを巡らせた。

あれこれと考えることは、意外に鈴木の件を忘れさせてくれて丁度いい。

「んじゃあ、とりあえず今日の僕のスケジュールから教えてくれる?」

スケジュール管理。秘書の主な仕事だ。

「はい!」

返事だけはいい。

高木はキリッと眉毛を吊り上げ、バッグからおもむろにメモ帳を取り出した。急に雰囲気が変わった。これは…普段おっちょこちょいだけど実は仕事はできるタイプ?!


「では読み上げますね。初めに、溜まっている書類に目を通して押印してもらいます。それから新規事業の提携の件で、ウィズの社長が来社されます。その後社内の新製品企画案の会議があり次は…」

「いやいや、ちょっと待って」

僕はすぐに割って入った。

高木がどうにか止まってくれたので助かった。

「何か?」

「会議とか商談とかは時間を言ってくれないと。いつ行けばいいのかわかんないでしょ」

不思議そうな顔をする高木に僕が指摘すると、さっきまでの自信満々の顔が嘘のように一気に慌て始めた。

「そうですね。申し訳ありません…」

紙が破れそうなほどの勢いでメモ帳をめくって戻して、めくって戻して…

目を回している。

どうやら、無駄な期待だったようだ。


結局高木は手を止めてうつむいた。

「メモするのを忘れてしまったみたいです。ごめんなさい。急いで確認してきます」

高木は大慌てで、つまずきながら社長室を出て行った。

「そんなに慌てなくても大丈夫だよ!」

僕は出て行く高木の背中に向かって叫んだが、恐らくあのパニック状態の彼女には全く届いていないだろう。

一人部屋に残された僕は思わず深いため息をついた。

「はぁ…」

高木がいるからもちろん言わなかったが、はっきり言ってここまで仕事が出来ないとは思っていなかった。

スケジュール管理に時間を確認してないなんて、普通に考えたらあり得ない。それでは待ち合わせ場所だけ決めて時間を決めていないようなものだ。

子供でも分かるだろ。

僕はここまでひどいともはや怒る気にもなれず逆に同情してしまっていた。

高木がいなくなった途端に次々と不満が溢れ出してくる。


その後も高木に色々な仕事を頼んだが、どれもことごとく失敗で、その日全く仕事がはかどらなかった。

水はこぼすし、壺は壊すし…

それでも高木には全く悪気はなかった。一生懸命しているのにこれなのだ。

可哀想に…

僕は最初彼女のことを天然とみなした。しかしそれはどうやらとんだ勘違いだったようだ。

高木は天然という言葉が表す定義域を遥かに超越していた。

アホなことを言ったり、すぐ転んだりするレベルを「天然」と呼ぶのなら、高木の場合は3歩歩けば物を壊す「デストロイヤー」である。


これがあと2日続くのか。頼むから中元、早く帰って来てくれよ。

最初必死にフォローしていた僕も限界を迎え、そろそろ本音が口から飛び出しそうになっていた。

一方、高木はすっかり落ち込んでソファに座り込んでいる。

何をしても失敗ばかりの高木に励ましの言葉をかけながら色々な仕事をやらせてみたが、とうとう苦しくなって最後には「今日はじゃあとりあえず見学してようか。ね。」と半ば強制で座らせたのだ。

「大丈夫だよ。まだ2日あるんだから上手くなるって」

「はい…」

唯一良かった返事も弱くなり、高木はすっかり意気消沈していた。

もう慰めようがない。

どうしたものだろうか。さっきから何を言っても「はい」か「すみません」である。

ここまでくると僕も親のような視点になってくる。一生懸命やっている高木にどうにかして自信を持たせてあげたい。


そうだ。


僕にふと画期的なアイデアが浮かんだ。

「じゃあ高木君。コーヒーを淹れてくれない?」

さっきこっそり引っ張り出してきた面接の時に使ったであろう高木美智子の自己PR書の特技の欄には「コーヒーを淹れること」と書かれていた。

これが最後の希望である。

「はい、かしこまりました」

高木はやっと少し反応を見せてくれた。

子供みたいにして嬉しそうにニッと口角をあげる。

待ってました!と言わんばかりの表情だ。

「実は私コーヒーには自信があるんですよ」

鼻を大きく膨らませて豪語する。

知ってるよ。だって調べたんだから。

もちろん声には出していない。

「期待しておいて下さいね」

期待する…その言葉は少々トラウマなのだが…

高木は僕の不安もつゆ知らず、そう言い残してルンルンと軽い足取りでキッチンの方へと向かって行った。

分かりやすい人間である。僕には何故だかその純粋さがとても貴重なもののように感じた。


高木は台所に立つとバッグからコーヒー豆を取り出す。

「持ってきてたの?」

まさか持参しているとは思わなかった。

僕は驚いてアホらしくポカンと口を開けた。

パッケージも見たことのないカラフルなもので、こだわりの豆という感じだ。

「そうなんですよ。たまたま行きつけの店で見つけましてね。これはなかなか手に入らないレアな豆ですよ」

前言撤回。これは期待できる。なかなか楽しみだ。

「社長。苦いのは苦手ですか?」

遠くでせっせと手を動かしながら高木が僕に尋ねる。

「全然大丈夫だよ」

「わっかりましたー」

明らかに機嫌がいい。声が弾んでいる。

「他の職場でも、高木はコーヒーの淹れ方だけはうまいって評判だったんですから」

「大丈夫か、そんなにハードルを上げて」

僕はあえて触れてこなかったのに、彼女はあっさり自分で、「コーヒーの淹れ方だけは」という表現をした。

そこは触れてよかったのか。もしくは機嫌がいい今なら何でもありなのか。

うーん、やはり掴めない。


それでも高木は自分で言うとおり、コーヒーを淹れる技術だけは高いようで手際よく豆を挽き、ものの数分で完成させてしまった。

「どうですか」

高木はお盆を抱きかかえて心配そうに僕の表情をじっと見ていた。

飲む方もすっかり緊張してしまって、ティーカップを持つ手が小刻みに震える。

変な緊張である。

頼むから美味しくあってくれ。この際あまり美味しくなくても大袈裟に美味しいと言ってやろうとあれこれ考えた。

隣では高木がもう少し時方がよかったかな。少し苦すぎかもしれない。と得意の独り言でぶつぶつとつぶやいている。

僕は遂に口をつけて一口目。

「うまい!」

僕は思わず声を出してしまった。

お世辞ではない。慈悲でもない。

本心からでた言葉であった。少し苦めに作られていて、変わった豆の独特な風味がしっかりとでていて深みがある。

正直予想以上である。

「本当ですか!?やったー」

高木は子供のように飛び跳ねて喜んだ。

それはもう大はしゃぎで成人女性とは思えない振る舞い…

「もう私はこれだけが取り柄みたいな女ですからこれがお気に召さなかったらどうしようかと思って」

高木は一気にまくしたてながら僕に近寄ってきた。

膝から崩れ落ちて安堵のため息をついている。

高木は泣きながら笑って、よかった、よかったと繰り返した。


僕は驚いて目を丸くしていた。

そんなに嬉しいのだろうか?

まさか褒めただけでここまで喜ばれるとは思っていなかった。

それも泣くほどに。

僕には少し理解しがたい感情であった。

僕は他人に認められて嬉しいと思ったことがなかったからだと思う。


「高木君は相当苦労してきたの?」

高木が落ち着いたところで、もう一度ソファに座らせた。

「はい、そうですね。もうお分かりかと思いますが、私全く仕事が出来なくて」

もちろん、最初から分かっていましたとも。

僕は口からこぼれそうになる余計な言葉を抑えた。

変なことを言わずに黙ってうんうんと相槌を打っていればいいのだ。

「聞きます?私の不幸話」

「んじゃあ聞かせて」

決して僕は他人の不幸話が好きとかではないが高木の話だけは少し聞いてみたくなった。

どこから来たものかは分からないが僕の中に純粋な興味が芽生えた。

ーー私は何をやっても失敗ばっかりでした。一生懸命やっているんだけど、うまくいかなくて毎日怒られ、謝り続ける日々。人一倍努力してどうにか並になろうと努めました。

それでも生まれ持った能力というのはしぶといもので、どんなに頑張っても(ドジ)のレッテルを剥がすことはできませんでした。結局最後にはクビにされて終わりです。でもいいんです。こんな私でも一つだけ長所を持って生まれることが出来たからーー

まとめると大体こんな感じの話だった。

彼女の言う長所が「コーヒーを淹れるのがうまい」ということだというのは容易に察せる。

何だか考えさせられる話だ。

「だからそのたった一つの長所が認められると本当に嬉しいんです。生きている意味を実感できるから」

高木はこの話をしんみりとした口調で話さず、むしろ自慢げに話していた。

そのエネルギーはどこから来るのだろう。

僕だったらそこまで失敗を繰り返していたら嫌になって投げ出してしまう。

何度も繰り返すようだが、僕は最初から親、周りの子、先生に認められていた人生だった。特に何をせずとも「この子は天才だ」「大物になる」と最高のレッテルを貼られてきた。

それに対して…

高木美智子。彼女はきっと僕と正反対の道を歩いてきた人物なのである。

誰からも認められず、何をやっても失敗ばかりで怒られる。それでもがむしゃらに挑戦し続ける。

だからこそ成功した時の喜びは僕の何十倍にも上るんだと思う。

僕は高木という存在に興味を持ち始めていた。

彼女の姿を見ていると鈴木の死ですっかり弱ってしまった僕の心が癒されていくような気がした。何度でも立ち上がれるという人間そのものの強さを感じた。

「君にはもう一つ長所があるよ」

僕は言った。

「何ですか?」

高木は首をかしげた。


「高木君は誰よりも根性がある」


僕が大真面目な顔で言うと高木はぷっと吹き出した。

「そうですね。初めて言われましたよ。ありがとうございます」

笑い続ける高木の顔にはまだ涙が浮かんでいた。

「こちらこそありがとう」

気づいた時には僕はそうつぶやいていた。

「え?何がですか?」

高木はもちろん何のことか分かっていない様子だ。僕すらも何に対しての「ありがとう」なのかよく分かっていなかった。

僕を勇気づけてくれたことへの感謝であろうか。

一度は絶望した。けどどうにか立ち直れる気がした。

これからは、いいことがたくさん起こる。

鴨志田も言った。「一度だけ不運が降りかかる」とその唯一の不運を僕は越えた。じゃあもう怖いものなしではないか。

コーヒーの最後の一口を飲み干した。

一口目は苦かった高木のコーヒーは最後にはマイルドに感じて、僕の気持ちを落ち着かせてくれた。



「大丈夫ですよ。もうすぐ晩ご飯を作り終わるので迎えに行けます」

「いや、そういうことじゃなくて今日は久々に電車で帰ろうかなって思って」

「そうなんですか?」

「うん、そういう気分なだけ。ありがとう。大丈夫、絶対帰るから」

「かしこまりました。お待ちしております」


僕は電話を切ると携帯をサイドのポケットに押し込んだ。

通話相手は田本。僕が「今日は電車で帰るから迎えは大丈夫だよ」と連絡したら案の定「すぐに迎えに行けますが、いいんですか?」と確認の電話がきた。

正直面倒くさい。大丈夫と言ったら大丈夫なのだ。僕は子供じゃないんだから。

僕が電車で帰ることに田本は賛成ではない様子だった。

彼女が嫌がる理由はただ一つ。

僕が今日も家に帰らないのではないかと疑っているからだ。

だがまあ、一週間家に帰っていなかったから疑われても文句は言えない。

「今日は幸助様の大好きなステーキですので、絶対に帰ってきて下さい」と釘を刺された。

まったく、成人男性を食べ物で釣ろうとは田本もなかなか考えることが斬新である。

しかし本当のことを言ってしまえば食に貪欲な僕には割と効果てきめんなのだ。

そこら辺をちゃんと分かっている田本はやはり恐ろしいと改めて感じた。

しかし、信じてもらえるかは分からないが、ステーキで吊られなくとも、もともと僕は今日は家に帰るつもりだった。時間も経って気持ちは落ち着いたし、高木の影響もあって前に進もうという気になっていたから。


田本の言う通りだ。

「これからはいいことばかりが起きますよ」

頭の中で彼女の音声が綺麗に再生された。

僕は早速高木に会うという幸運を掴むことが出来たのだ。

高木の生き様が僕に勇気を与えてくれた。

今また、全てがプラスの方向に動き出した。

僕は鴨志田の言う一度の不運を乗り切ったのだ。


一時はどうなることかと思った。

正直僕は運が尽きてしまったのではないかとまで考えた。

昔から周りに言われてきた。

「お前はいつか絶対に運が尽きる」

それが実現してしまったのではないかと不安になった。

あの日、あの瞬間から全てが上手くいかなくなって、いきなり神様に見放されて裸のまま砂漠に投げ捨てられたような気分だった。

全てが上手くいくようプログラムされた僕の人生の完璧な歯車は、逆に一つが狂い出すと全てが噛み合わなくなって外れてしまうのかも知れないと、そんなよく分からないことを大真面目に考えたりもした。

でも、もう大丈夫。

やっぱり僕は強運なんだ。

神様に見放されたわけではない。


僕は徐々にいつもの自信を取り戻しつつあった。


次の電車は19時11分。急行。

僕は電光掲示板を見ながら頭の中で暗唱した。

まだ後10分近くある。

近くのベンチに座って電車を待つ。

することも特になく、ぼんやりとホームの大きな広告を見つめた。

うちの新製品が大々的に張り出されている。

珍しく僕が長い年月をかけて苦労して作った商品だ。大ヒットは間違いなし。


ーー電車が通過致します。ーー

女の人の声のアナウンスが入って、電車がとてつもない速度で目の前を駆け抜けた。

風圧を全身に感じる。大きな音を立てながらそれは過ぎ去っていった。

思わず声を上げて肩をすくめる。

大迫力である。飛び降り自殺をする人はこれに向かっていくのか。

変な話僕にはそっちの方が生きていくよりもよっぽど勇気が必要な気がしてならない。


たまにどうしようもなく電車に乗りたくなる時がある。

もちろん満員電車は嫌だ。だからといってガラガラの電車も嫌だ。

適度に混んでいるくらいがいい。

変わってるねとよく言われる。

うん、間違いない。

適度に人と触れ合いたいと言った方がまだ伝わりやすいだろうか。

知らない人と一緒に同じ空間に立っていたい。

そうすることで自分の存在を再認識できる。

僕はそう考える。

僕みたいに社長室にこもって、リムジンで運転手と移動して、いつも決まった人間と行動していたら、いくら偉業を成し遂げたって自分の存在自体を噛み締めることは出来ない。

一般人を身近に感じて初めて自分という存在の特別感を得るのだ。

僕は特別な存在でないと気が済まない。

そんな高いプライドだけで作られたエゴ人間なのだ。

変人扱いされるのはごめんなので、これ以上は語らない。


考え事をしていると時間が過ぎるのは早く、もうすぐ電車が来る。

僕はスーツについた糸くずをはらってベンチから立ち上がると、バックを右手に持った。

とうとう家に帰るのだ。

家に帰ったらどんな顔をして麻有に会えばいいんだろう。

久々過ぎて緊張する。

麻有は怒っていないだろうか。田本は今朝大丈夫だと言っていたが、その言葉だけで完全に安心することは僕には到底無理であった。

第一声は何て言おう。

「ただいま」これは必須ワードだ。

でもこれだけだと素っ気なくなってしまうし、何より反省の色を見せることが出来ない。

これをベースに何か他の言葉を付け足して…「ただいま、本当に迷惑かけてごめん」

素直に謝るタイプ。

「ただいま、元気にしてた?」

明るく振る舞うタイプ。

「ただいま、久しぶりだね」

これは何タイプ?ちょっと鼻に付くなこれは…


電車が到着してドアが音を立てて開いた。降りる人はほとんどいなかったが、乗る人も少ないので電車内が混むことはない。

狙った通り、この時間帯のこの線は丁度いい人数だ。

僕は電車に乗り込んで、急行で間違いないことを確認すると周りを見渡した。

人間観察。電車に乗った時の楽しみの一つだ。

電車内は変わった人がいることが多い。

皆んなイヤホンをしたりゲームをしたりで自分の世界に入り込んでいる。完全にくつろいでいて、無意識のうちにその人のクセが現れているケースが多いのだ。

ゲームで連打をする時に唇を噛みしめる人がいたり、音楽に合わせて無意識に膝を打っている人がいたり。

今日はレアなクセを見せてくれる人はいない…かな。

少しだけ残念だった。


「ワッ!」

「いいっ?!」

耳元で大きな声を出され、人間観察に集中していた僕の意識は一瞬で現実に連れ戻された。

とっさのことに驚いて思わず声が漏れてしまう。

下手したら僕の声の方が大きかったかもしれない。よりによってこんな奇妙なリアクションを大音量で車内にアナウンスしてしまうなんて。

僕は絶望的な気持ちになって顔をしかめた。

電車の中でこんな大きな声を出すとはなんて非常識なやつだ。

今となっては自分も大きな声を出してしまったので何も言えないが、それでも100パーこいつが悪い。


僕はイライラしながら後ろを振り返った。

視界に映ったのは松田の姿だった。

「奇遇だね」

彼はしてやったりとでも言うように、口を横に伸ばしてイタズラな笑みを浮かべている。

何かの映画かなんかで覚えたセリフだろうか、手をひらひらさせながらカッコつけている。

「何だよ、松田か」

僕が胸を撫で下ろして前に向き直ると松田がさらに騒ぎ立て始めた。

「え?反応薄くない?何だよ松田かって何?軽く傷ついたよ俺。そこはもっと驚くところだよ!」

ああ、うるさいうるさい。

電車の中で松田に会ったら出来るだけ関わらないが鉄則だ。そうしないと僕までうるさい奴というくくりで見られてしまう。

松田はまだ頭を抱えながら喚いている。

周りの人はチラチラと互いを横目で見ながら、誰か注意しろよと無言の圧を加え始めていた。

ついに彼らの視線は僕の方に来た。

「お前友達なんだろ。責任持って止めろよ」

あーもう嫌だ。分かりました。ええ分かりましたとも。

仕方ない。僕は振り返って松田の方を向くと口に人差し指を当てた。

しーっとなだめるように頷く。

「お前ここ電車の中だぞ。喋りたいんだったらもっと声のトーンを落として喋れよ」

「だって、幸助が反応してくれないから聞こえてないのかと思って」

松田は頬を膨らまして拗ねたように反論してきた。

「ごめんごめん。分かったよ、聞いてやるから静かに喋れよ」

「うん…」

とりあえずはミッションクリアだ。

僕は目の前に二つ空いている席を見つけて松田を先に座らせてから座った。

周りの人たちも一安心したみたいで、視線での会話を止めると、またそれぞれの世界へ戻っていった。

まったく、無責任なんだから。お前らが反応するのは嫌なことがあった時だけかよ。

僕は険しい表情で周囲をにらめつけたが、松田はそんなのお構い無しで僕のワイシャツの袖を引っ張っている。

僕は仕方なく視線を松田に移して話を聞くような体勢をとった。

「んで、何?」

イライラしていたせいか、だいぶぶっきらぼうな入り方になってしまった。

「そんなに構えられるとこっちも話しにくいよ」

松田は僕の肩を叩いて笑う。

僕は正直彼と話す気力がなかった。今は話したくなかった。

あのことを伝えなければいけないと思うと口を閉ざしてしまいたくなるからだ。

彼だって何度も僕のリムジンに乗っていて鈴木と面識があった。

伝えないのは良くないことだと思う。

僕がいつ話そうかとタイミングをうかがっていると先に松田が口を開いた。

「でも意外に元気そうでよかった。怒る元気もしっかりあるじゃん」

僕はギョッとして目を見開いた。

「どういうこと?」

「幸助のことだから、もうどうしようもないくらい落ち込んでるんだと思ったよ」

松田はワックスでツンツンに固めた髪の毛を指先でちょちょいと直しながら言った。

「だからどういう…」

松田は思わず立ち上がりそうになる僕を手で制して頷いた。

「鈴木さんのことだよ」

驚いた。

まさか松田が鈴木の死を知っているとは。

自らの口から伝えなくていいことに対する安堵。というよりは何故松田が知っているのだろうという疑問が僕の頭の大半を占めた。

僕は直接松田に鈴木のことを伝えた記憶はない。

あと言いそうなのは田本ぐらいだ。

「だ、誰から聞いたの?」

僕は動揺を隠せず、松田に尋ねた。

「田本さん」

松田も端的に答える。

やっぱりだ。

「俺、少しの間沖縄に行ってたからそのお土産を幸助に渡そうと思ってさ。家に行ったら田本さんが出て来たのよ。幸助様はいらっしゃいませんって。今日は仕事がオフだと思うんですけど、どこかに遊びに行ったんですかねって聞いたら、そのことを教えてくれてさ」

なるほど、そういうことだったか。まあ結果としては田本の働きはプラスになったことになる。

「そう…鈴木は死んだよ」

改めてそう口に出すと、さっきまで忘れていた感情が僕の中にふつふつと蘇ってきた。

虚無感。

松田はその話を田本から聞いてどんな感情を抱いたのだろうか。やはり短い付き合いだったとはいえ、少しぐらい寂しく思ったのか。

松田は自分の感情を省いて説明した。

決して僕に自分の感情を語ろうとしなかった。

これも彼の優しさなのだろう。

彼は一番辛いのは誰か分かっていて、僕を慰める側に回るためにあえて言わなかった。

恐らく、そうだろう。

「辛いか?」

松田は隣に座る僕の方を向くことなく、まっすぐ前を見つめて言った。

その横顔はいつものふざけている松田からは想像できないほど真面目で凛々しかった。

「うん」

「そうか」

松田は頷いた。

僕はその後に付け足しを忘れなかった。

「でもね色んな人の支えで立ち直れたよ」

松田はふふっと小さく笑った。

何かおかしいことでも言っただろうか。

松田は僕が立ち直ったと知ってホッとしたのか次僕が見たときには表情が緩んでいた。

「その支えの中に俺は入ってるんだろうな?」

またイタズラな笑みを向けてくる。

「もちろん」

僕も自然と笑い返していた。

「まあ、この世界は悪いことばかり続くようにはできてないって。特にお前は強運なんだし」

彼なりの精一杯の励ましなのだろう。

「田本とおんなじこと言ってるよ」

僕は思わず吹き出してしまった。

「ごめん、これ田本さんからの受け売り」

松田は腕組みをしながら恥ずかしそうに頬を赤らめながら言った。

一度カッコつけて言ってしまった手前、引くにも引けず微妙な表情で前を向いている。

「ははっ、カッコわりーな」

もう笑いが止まらない。笑いすぎてお腹が痛くなって来た。

ドラマでここまで盛大に決めゼリフを外す役者がこれまでにいただろうか。

現実はやっぱりドラマみたいに上手くはいかないんだなとギャップを感じて笑いがさらにエスカレートしていった。

「仕方ないだろ。まさか田本さんが先に言ってると思わなかったんだから」

僕が笑えば笑うほど、松田はどんどん頬を赤らめていってとうとう組んだ腕の中に顔を埋めてしまった。

「ごめんごめん。ありがとな。本当に感謝してるよ。お前のおかげで元気が出た」

僕は松田の背中をバンバンと叩いた。

やっと僕は自分が大声で騒ぎ立てていることに気づいた。

さっきのように周りからの冷たい視線が注がれる。

僕も松田とそう変わらない。

僕はごめんなさいと軽く頭を下げてうつむいて反省しているようなジェスチャーを見せた。

松田は恥ずかしさで顔を覆って黙っているので、僕が黙ればもう喋る人は誰もいない。

電車内は急に静かになった。



「ううっ」

僕は目をこすりながら状態を起こす。

いつのまにか寝てしまっていたようだ。

隣の松田に寄りかかるようにして眠っていた。

はっとして窓の外を見る。

ああ、やってしまった。

現在の停車駅は僕の最寄りから5つほど離れたところだ。

乗り過ごした。

逆の電車に乗って帰らなければ。こんなことなら電車なんか使うんじゃなかった。

やっぱり最近なんだか妙についていない。極端に運が悪いわけではないが、細かい不運が嫌がらせのように降りかかってくる。

とりあえず文句は後にして今は早く降りなければ。

「松田、起きて」

僕は隣で爆睡し続ける松田の体を激しく揺さぶって耳元で叫んだ。

この車両に僕たち以外の乗客はいないから、うるさくしても大丈夫だ。

なかなか松田は起きようとしない。結構強く揺さぶっているのだが、死んでしまったのかと疑うほど全く反応を見せなかった。

ーーまもなく発車いたします。閉まるドアにご注意下さいーー

車内アナウンス。

ヤバい。これは急行だから、ここで降りれなかったら次に止まるのは3つ先の駅になってしまう。

やむを得ない。

先に謝っておく。ごめん。

僕は思いっきり振りかぶって松田の頬にビンタをお見舞いした。

「痛っ!」

ようやく松田が目覚める。

「何すんだよいきなり」

「いいから降りろって」

僕は不平を言う松田を無視して、無理矢理ドアの方に押し出した。

ドアが閉まるスレスレを通り抜けてどうにか出れた。間一髪である。

あの車掌、僕たちが降りようとしているのが見えていただろうに、容赦なく閉めてきた。

僕は電車が去っていく方向を思いっきり睨みつけて悪態をついた。

「痛いなもぉ」

松田は真っ赤になった頬を抑えながらのたうちまわっている。

少しやりすぎたみたいだ。

痛みが少しひくと、松田は僕に文句を言おうと、重そうな足取りでずんずんと歩いてきた。

「幸助、お前なぁ…」

言いかけてやめた。松田は駅の看板の方を凝視している。どうやら気がついたらしい。

目を丸くしてキョロキョロと辺りを見回し始めた。なんとも分かりやすい反応だ。

「ここ、どこ?」

「乗り過ごしちゃったんだよ。」

僕はちっと舌打ちをする。

ホームはすっかり静まっていて人がほとんど見当たらない。その静けさと地下鉄の暗さとが相まって、何だかとてつもなく気味が悪かった。

「まじかよ。面倒くさいなー」

松田は体を伸ばして一つ大きなため息をついた。

彼は寝過ごし慣れているのか、切り替えが早く、反対のホームに向かう階段を上り始める。乗り過ごし慣れているというのも問題ではあるが。

「待ってよ」

僕も急いで後を追う。歩くのが早い松田にはついて行くだけで息が切れた。

嫌がらせのように長い階段を上りきって次はそれと同じ長さの階段を駆け下りて、反対側のホームに着いた。

反対側のホームは人で溢れていて、むしろうるさいぐらいだった。

東京に向かう側だからだろう。

にしてもここまで変わるかと僕は少し驚いていた。

最初は人がいる安心感を得たが、それも数分で苛立ちに変わる。

僕にとっては究極の二択である。

静かで落ち着いているが気味の悪い場所か、安心はするがうるさい場所。

どっちを選ぶか…

んー難しい。

意味のない二択を頭の中で展開させながら時間が経つのを待つ。

松田はポケットから有名な銘柄のタバコを取り出して火をつけた。

もくもくと煙が立ち上ってその匂いが僕の鼻を突いた。僕はむせ返ってゲホゲホと自販機の後ろ側に隠れる。

タバコは苦手なのだ。

「ああそうか、幸助タバコダメなんだっけ?」

そう言いながらも松田は止める気配はない。

「分かってるんだったらやめてくれよ」

僕が懇願しても、松田はすっとぼけた顔をするだけだった。

「別にいいでしょ。ここ喫煙所なんだから。タバコ嫌いな人が喫煙所までくるのがおかしいんだよ」

的確な答え。今回は松田の言い分は正しい。

でも、僕がタバコが苦手なことを分かったなら少しぐらい遠慮してくれてもいいではないか。

松田は寝起きで機嫌が良くないのか、いつもより愛想がなくて表情が暗い。

僕が起こしてやらなかったらもっと先の駅まで行ってたかもしれないんだからもう少しぐらい感謝しろよ。

僕もどこか機嫌が悪いみたいだ。

目の前にあった空き缶を思いっきり踏み潰した。

アルミ缶なので綺麗に潰れる。

パッケージがぐちゃぐちゃになって飲みかけだったのか少し液体が靴について結局はさらに気分が悪くなっただけであった。

「わりぃ、幸助、ライター切れたからそこの売店で買ってくるわ」

松田が追いかけてきて要件を述べる。

「ん」

僕は振り返りもせず、この世で一番短いであろう返事をよこした。

しかし短すぎて松田には聞こえなかったみたいだ。

聞こえてる?と大げさに首を傾げる。

「ねぇ返事してよ」

僕は振り返って松田の口を手で塞いだ。

さっき電車でやったみたいに人差し指を口の前に当て、しーっとやる。

田本から電話だ。

「もしもし」

「幸助様!まさか約束をお破りになられるつもりですか!」

電話に出た瞬間にもう田本の怒りはマックスになっていた。現在時刻は7時56分。聖奈と麻有はお腹ペコペコで待っていることだろう。

完全に忘れていた。

もちろん家に帰ることを忘れていたわけではない。そこは固く決心したんだから。

ただ、晩御飯の約束がすっかり頭から抜けてしまっていたのだ。

思い出して僕はどんどん青ざめていった。

これはヤバい。家族と田本からの信用ががた落ちしてしまう。

電車を寝過ごしたと素直に言ったところで信じてもらえるだろうか。

「待って!あの信じてもらえるか分からないけど、僕今寝過ごしちゃって…」

「はぁ…」

電話越しでも完璧に聞き取れるほど大きなため息だった。田本の呆れ顔が僕の脳内にイメージされる

「それでどこにいるんですか」

意外にもあっさり信じてもらえたみたいだった。

「んと…3つ先の駅」

「まったく…。乗り過ごすんだったら電車なんて乗らないでくださいよ」

とりあえず信じてはもらえたものの、田本の不満は爆発していた。

「そもそも!何で今日という日に限って間に合わないんですか?幸助様には反省というものがないんでしょうか?」

「ごめんって…本当に」

僕に出来るのは謝り続けることだけだった。

無駄に言い訳しても余計に悪化してしまう。

無心になって時が過ぎるのを待つ。

「今からでも迎えに行きましょうか?」

「いや、多分後2分で電車来るから電車で帰った方が早いよ。先に食べておいてもらっても…」

「嫌です!ここまできたんだから待ってます。いいですか?絶対に寝過ごさないで帰ってきてくださいよ!」

田本は最後に釘を刺して豪快に受話器を切った。

僕の耳にもガシャンと大きな音が残る。

僕は思わず首をすくめた。

「大丈夫だったか?」

ベンチでくつろぎながら松田がのんきに尋ねた。胸ポケットには新しいライター。

結局買ってきたのか。いつの間に…。

「全然大丈夫じゃない…」

もう憂鬱でしょうがない。

松田が寄って開けてくれたベンチに座り込んで頭を抱えた。死刑を待つ死刑囚はこんな気持ちなのだろうか。

頭の次は顔を手で覆って。それに飽きたら次は指の隙間から外の世界を見る。


ふと隙間から見えた景色の中に見覚えのある人がいた。


「中元?」


僕はとっさに叫んだつもりだった。彼女を呼び止めるために。

しかし実際、口から出たのはつぶやき程度の小さな声だ。とっさのことに顎の筋肉が思い通りに動いてくれない。

いやいや、待てよ。きっと見間違えだろう。

中元の最寄駅はこの駅とは遠く離れているし、そもそも真面目な中元が病気なのに出歩くはずもない。

だからこんなところに中元がいるなんてあり得ないのだ。

僕は首を振ってから一度力を入れて目をぐっと閉じ、また力を抜いて目を開けた。

きっと見間違えだ。

しかし依然として中元の姿は僕の目に映っている。どうやら本当に中元らしい。

中元はこの暑い夏の中、マスクとニット帽を装着してポケットに手を突っ込んでそれでもなお寒そうにホームをふらふらと歩いていた。

だいぶ浮いた格好なので周りの人はすれ違いざまに奇妙な目を向けている。

おぼつかない足取りからして相当重い病気のように思えた。ふと目を離した隙にでも倒れてしまいそうである。

僕は何なら田本を呼んで中元を家まで送ってもらおうと思いついた。

もちろんそんなことをすれば田本をさらに怒らせてしまうのは確実なのだが、そんなことを気にしている場合ではない。

「中元!」

もう一度中元に向かって叫ぶ。

今度はしっかりと思ったように声が出てホームに少しだけ響いた。反響して余韻が残る。

しかし彼女は振り返ることなくスタスタと奥の方へ歩いて行ってしまう。

聞こえてない?

「どうしたの?幸助の知り合い?」

松田が不思議そうに尋ねた。

「ああ、そう。秘書の中元ってやつだと思うんだけど、人違いかな」

「今ので振り向かないってことは人違いなんじゃないの」

松田はベンチから腰を上げて盛大に伸びをした。まるで他人事だ。

僕にはどうしても彼女が中元に見えてしょうがなかった。

何だか嫌な予感がする。

もし今の人が中元で、呼びかけが聞こえないくらいまいっていたとしたら…一刻も早く病院に連れていかなければ最悪の事態になってしまう。

そんなことあるわけがないと思いつつも、一度考えてしまうといくらかき消そうとしても不安は拭えない。

「松田、ごめん、ちょっと持ってて」

僕は隣に座る松田に乱暴にバッグを手渡した。

「え?どうしたの?」

「ちょっと追いかけてみる」

僕は中元と思われる女性の方に走った。

鈴木の時のように、ああしておけば良かった、あんなことしなければ、と後悔するのはもうごめんだった。

自分の直感に従わなければきっとまた後悔すると、そう思った。

追いかけるって何を?と背中の方で松田が何かを言っているのを感じたが、答えている暇はない。


足を止めずに進む。

松田の声は遠ざかっていく。

フラフラと歩く女性のペースは遅く、すぐに追いつくことができた。

相手は女性なのでもし人違いだったら相当気まずいことになってしまう。

それも考慮して僕は念のため前まで回り込んで顔を確認した。


やっぱり、どう見ても中元である。2メートルぐらいの至近距離で見てやっと僕は確信を持った。

もっとも顔を確認したとは言え、ニット帽とマスクのせいで見えているのは目元だけである。

それでも彼女が中元であることを確認するのには十分だった。

あまりいいとは言えない目つき、目元の小さなホクロ、 彼女が持つ独特の雰囲気。

毎日顔を合わせているから間違えるわけがない。

「中元、どうしてこんなところにいるんだよ」

僕は息を切らしながら膝に手をついて中元の前に立ち塞がった。

普段あまり運動しないせいで体力が赤子レベルにまで落ちていることを今実感した。

中元は答えなかった。

数秒静止してから何事もなかったかのように僕を無視してまた奥に向かって歩き始めた。

僕は理解が追いつかなかった。

今あっちも僕の顔を見たはずなのに。

僕のことを忘れた?

記憶喪失?

それとも分かったうえで僕を避けている?

「ちょっと待てよ」

僕は反応が遅れた体をどうにか動かしながらもう一度中元の前に立った。

中元は相変わらず何も話そうとしなかった。

しかし今度はしっかりと僕の顔を見た。

黙ってじっと見つめてくる。


僕の体は固まった。

後ずさりしようとするも足が絡まってそのまま地べたに尻もちをついた。


彼女は誰だ?


中元なのだ。でも中元じゃない。

中元の中にいる中元ではない何か。

中元の姿をした化け物。

別に彼女の何を見たわけでもない、でも中元の目を見るだけで感じ取った。


その目には光がまるでなかった。

どこか遠くを見つめるような底の見えない黒い瞳。


彼女はもう中元ではない。


では、彼女は誰だ?いや、何だ?


もう一度目を見れば分かるかもしれない。しかし、それはかなわなかった。

もう一度その目を見る勇気は僕にはなかった。

意思に逆らって体が本能的に彼女の目を拒絶している。

その目をもう二度と直視出来ない。

その目の奥には得体の知れない怪物が住んでいるような気がして…


大量の汗が身体中から溢れ出してきてその場に居たくないという強い衝動に駆られた。

彼女が誰かなんてどうでもいい。

とりあえずここは危ない。

ここにいてはダメだ。逃げなければ。

「ニゲルナヨ」

ナカモトが初めて口を開いた。

僕は思わずひぃっと情けない声をあげて身を縮める。

話した、というよりは音を発したという表現の方が適切であるように思える。

それほどにその言葉の響きは単調で人間のものとは思えなかった。ただの機械音。

ニゲルナヨ?逃げるなよ?何から?

窮地を目の当たりにしてフル回転する僕の頭は空回りを続けていた。


今度はナカモトのほうからゆっくりと近づいてくる。

足を不自然に曲げた奇妙な歩き方が僕の恐怖をさらに掻き立てる。

彼女は僕から2メートルあるかないかぐらいのところで立ち止まるとマスクをゆっくりと外した。


ナカモトはマスクの下でずっと自分の指をくわえていたのだ。


否、食べていた。


彼女の指からはポタポタと一定のリズムを

刻みながら血が垂れている。

痛々しい傷口に歯跡が無数についている。


指を口もとから外すと今度は異様なほど激しい歯ぎしりを始めた。


その姿は怪物そのものであった。

中元は一週間前まで、普通に勤務していた。

普通に僕に小言を垂れていた。

つい最近まで…


それが少しの時間でこんなことに。


(最初に死への欲求が出てくるのは個人差がある。感染してからすぐの人もいれば遅い人もいるが再発は欲求が満たされてからちょうど1週間後と決まっている。

この数字がブレることはない。

それまでは何の変化もなく普通の人間と区別がつかない。ちょうど1週間たったときに体の奥から欲求が溢れてくる。)


西脇に聞いた時にとったメモを思い出した。

僕の中で何かがハマったような音がした。


まさか中元の病気というのは…


ーーまもなく、2番線に電車が参ります。危ないですので黄色い線の内側までお下がり下さいーー


アナウンスが遠くで聞こえる。


それが合図になったようにナカモトはポケットから小型のナイフを取り出した。


刃の部分がおぞましい光を見せる。


ナカモトは刃を隠していたさやを線路の方に投げ捨て、ゆっくりと、しかし最短距離を通って僕に向かって歩いてきた。


早く、動かないと。動かないと殺される。


死を間近にした僕は想像以上に弱かった。


足はガクガクと震えて使い物にならないし、頭は余計なことを考えてロクに機能しない。

僕は自分の膝を右手で思いっきり叩いた。

動けと言い聞かせるように刺激を与える。

効果があったのかは分からないがふいに枷が外れたように体が軽くなり、足がもつれながらも中元に背を向けて走る。

実際は走るという動詞の定義から外れるようなスピードだったと思う。

側から見たらノロノロと歩いているだけだろう。

でも少なくとも僕の脳はこれを走っていると解釈した。


周りの人たちは最初、極端に姿勢を低くした奇妙な走り方の僕を怪訝そうに見ていたがナカモトに気づくと悲鳴をあげだした。

一人が悲鳴をあげると恐怖は伝染し、あっという間にホーム内もパニック状態である。


人の波は僕を避けるように遠ざかっていく。

ご親切に僕のために道を開けてくれた。

というわけでもないだろう。

出来るだけ関わらないようにしているだけだ。

僕をおとりにして。逃げ惑う人々。

ふざけるな。


走りながら振り返るとまだナカモトはしぶとく追ってきていた。

走ってはいない。悠々と歩いている。

それでも僕との距離は縮まってくる。

これはどう考えても僕をターゲットにしているとしか思えない。

こっちはもう体力の限界が近づいているというのにナカモトは無表情のまま、息一つ上がっていなかった。

勝ち目はなさそうだ。


何でだよ。何で僕が狙われるんだよ。

何で僕ばっかりこんな目に。

分からないことだらけだ。


それについて深く考える余裕も与えられず、もう僕の視界にはホームの端の柵が映った。


側のベンチに松田が座っている。

松田は僕が近づいて来ているのに気づき、すっと立ち上がった。

僕の後ろで光るナイフが角度的に見えないのだろうか。

「どうしたんだよそんなに慌てて」と呑気に尋ねて、僕が預けていたバックを差し出して来た。


「落ち着けって、もうすぐ電車来るぞ。そんな走ったら危ないだろ」


「違う、止まるな、逃げろ、アイツ、感染者、ここで立ち止まったら死…」


上手く言葉が出てこない。

途切れ途切れの日本語では松田に何も伝えることはできなかった。


僕は松田の腕を引いた。


「おいおい、何言ってるか分からな…」


「ズッ」


鈍い音。連続して聞こえる鈍い音。それは僕の後ろで嫌な余韻を残した。


僕の後ろ…でも僕の背中に感触はない。痛みはない。


僕の後ろ、それは…


とっさに振り向いた時には松田の胸元にナイフが突き立てられていた。


遅かった…


遅かったのだ。またしても。


松田の体は大きく揺らめいて地に伏した。

その顔は最後に僕に見せた笑顔のまま硬直していた。


松田は体をピクピクと動かすだけで何も発しなかった。

いや、叫びたくても声帯を切られて声が出ないのだろう。

痛いけれど声が出ない。

助けを訴えても届かない。

辛いけれども終わらない。

周りの視線はこうならなくてよかったと安心するようなものばかり。

そんな視線に囲まれたらどんな気持ちなのだろう。

鈴木も…同じように…


僕の目に映る松田の姿は鈴木のそれと完全に重なった。


2人の姿が重なってまとまって消えた。


僕の手の届かない遠いどこかへ消えていった。


それを実感した時、僕の耳に周りの人たちの叫び声が入ってきた。

ぎゃあぎゃあと喚き散らす不快な騒音が。


中元はよろよろと膝を崩しホームに座り込む。

やっと我に帰ったのか、信じられないといった様子で自分の両手を見つめてはワナワナと体を震わせている。


終わった。全て。


また僕は大切な人を失った。

また僕に不幸が訪れた。


鴨志田の予言は外れた。

彼はたしかに一度きりだといった。

じゃあ今僕の目の前で起こっているのは何だ?


夢なのか?だったらこんな不謹慎な夢、今すぐ冷めてほしい。


今悟った。僕には運の尽きがまわってきたのだ。

恐れていたことが現実になったのだ。


もしかすると人間が人生のうちで得る幸運の量は決まっているのかもしれない。


僕はそれを先取りしただけだったのかもしれない。


それはいつしか先取りを通り越して、神様が決めた人間が一生涯で得れる幸運の量を超えてしまっていた。


そしてその帳尻合わせで不幸が訪れた。


僕はそう解釈した。


「あああああぁぁっ」

僕はホームで泣き叫んだ。

大の大人が子供みたいに泣き喚いた。

なりふり構わず。

周りの騒音をかき消すように。

目の前にある絶望から目をそらすように。


ー現在時刻20時11分ー

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