不運3
にしても…何だったのだ、いったい。
「全く変な人だ」と呟きながら、目で彼を追った。
男は何度もつまずきながら夜道に消えていく。
完全に見えなくなった後も僕はその方向を見つめ続けた。
何で彼に見覚えがあったんだろうか。
何か忘れているような…
そう、違和感。
あ。
………。
(え?…)
誰かが気まぐれに放り投げたように急にその違和感の正体が明らかになった。
嘘だろ。まさか。
その考えを急いで否定しようとするも、出来ない。
まだ確信はないが、ほぼ確実に…
同時に僕の背中に急に大量の汗が噴き出してきた。
まさか…そんなわけ…いや、でも…。
気づいたら僕はさっきのおっさんのようにみっともなく焦り始めていた。
目の前が霞んでくる。
鴨志田に予言された直後と同じだ。意識が飛ぶ一歩手前。
頭が真っ白になるのを抑えるため自分の頬を叩いた。
頬が痛々しく真っ赤になる程…
これが正しい対処法なのかは知らないがどうにか一歩手前で止まってくれたようだ。
視界が戻ってくる。
僕は思い出したように、視線を戻した。
頭の中には最悪の光景が浮かんでいた。
朝10分かけてセットした髪の毛を手でぐしゃぐしゃにする。目の前の光景を無理矢理にかき消すために。
やめてくれ。僕の思い違いであってくれ。そんなわけがない。鈴木に限ってそんな…
鈴木がいるのは車の後方であった。
後方にまわる。
僕は思わず息を飲んだ。
目の前にはこの世のものとは思えない光景があった。まるで映画みたいな…
映画と大きく違うのは、モザイクがついていないこと。
ーー横たわる身体、流れる赤い液体、大きく開いた口、苦痛に歪んだ表情ーー
鈴木は見るも無残な姿で倒れていた。
胸にはナイフが突き立てられていた。胸の真ん中にほぼ垂直で…一突き。二突き。三突き。
顔面も数10回殴打されているよう。
これ以上ないほどに痛めつけられていた。
僕は黙ってそれを見つめた。
悲鳴をあげようにも衝撃で喉が機能しない。
目をそらしたかったが体が動かない。
嘘だろ、嘘だろ、嘘だろ、嘘だろ…
僕の思い描いた最悪の事態が実現された。
ダメだ……
再び意識が飛びそうになる。
思い違いではなかった。
僕はさっき男に会った時、見覚えがあると言った。
それは決して気のせいではなかった。本当に見たことがあったのだ。
それも殺意のウイルス感染者の掲示板で…
興味があったので一時期ずっと殺意のウイルスを調べていた。
牧野智一。47歳。サラリーマン。家族持ちで人見知り。丸眼鏡が特徴的…
今になって掲示板の内容を次々と思い出す。
もろにさっきの男じゃないか。
すべての特徴が当てはまっている。
逆にここまで知っていても気づけなかったことに怒りが湧いてきた。
とりあえず救急車を呼んで、その後電話帳の一番上に出てきた田本に電話をかける。
ここが家のすぐ近くだったこともあり田本はすぐに駆けつけてくれた。
「大丈夫ですか幸助様」
大慌てで出てきたのだろう、上は家政婦の制服に下はサンダルだ。
強めにあてたパーマが夜風と汗であらぶっている。
「僕は大丈夫なんだけど鈴木が…」
僕はつっかえないように息を大きく吸い込んで一息で言い切った。
震える右手で鈴木の身体を指さす。
「何と…」
僕の指さす方を凝視して田本も思わず言葉を失っていた。口を手で押さえる。
急いで田本を呼んだので事情を全く説明していなかった。
うちの前の細い通りにいるから早く来て!とだけしか伝えていない。
「うううぅ…」
その声を聞いて僕と田本はほぼ同時に体をピクリと痙攣させた。
鈴木はまだ意識があるらしく、苦しそうに体をしきりにひねってはかすれた声をあげる。
たまらなくなって僕は鈴木に近寄った。
「鈴木!大丈夫だよ。今救急車呼んだから。もう少し辛抱して」
鈴木は目をぎょろりと動かして黒目を僕の方に向けた。血走っていて、涙も溢れそうなくらい溜まっている。
「幸助さん…」
血でいっぱいになった口でもごもごと必死に何か伝えようとしていたが聞き取れたのはそこまでだった。
「もう話さなくていいからじっとしてろ!」
僕が言うと鈴木は素直に話すのをやめ、ゆっくり目を閉じた。
田本も駆け寄ってきて大粒の涙をこぼす。
「何で泣いてるの?」
普通に考えればそれぐらい分かる。でも僕の脳は理解するのを拒否していた。
不思議と僕の目には涙があふれてこなかった。
甲高い救急車の音が近づいてくる。騒々しくわめきたてながら。
「やっとだ。鈴木、救急車が来たよ。これで助かる」
田本は狂ったように舞い上がる僕を止めようと腕をがっしりと掴んだ。
子供を??る時のように首をゆっくり横に振る。
彼女の反対の手は鈴木の胸にあてられていた。
「鈴木はもう亡くなりました」
刹那、呆然とする僕。
我に帰ると田本の一言が合図になって体の奥底にたまっていた涙が溢れだした。
我慢していた分、思いっきり泣いた。声をあげて泣いた。
心から慕っていた人は簡単に目の前から消え去ってしまった。
救急車のサイレンがむなしく耳元でなり、救急隊員たちが駆けつけ、僕の目の前はブラックアウトした。
鴨志田の予言は見事的中した。
間違いない、これが鴨志田の言う大きな不運である。
ここから僕の完璧な人生が大きな音を立てて崩れ始めた。
殺意のウイルスによって。
ーー現在時刻20時11分ーー