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運のいい悲劇  作者: 結城 真
2/10

殺意のウイルス

2 殺意のウイルス


7月も終わりにさしかかった頃だった。

学生たちは丁度夏休みが始まっていつも以上に弾んだ声で歩いている。

僕はその光景を窓からぼんやりと見ていた。

「社長、お茶はいかがですか」

「いや、大丈夫。今は喉乾いてないから」

秘書の中元里奈だ。

「ダメですよ社長。朝からほとんど何も飲んでないじゃないですか。室内だからと言って水分補給を怠っていると熱中症になるんですよ」

中元は説教を垂れながら湯沸かし器の方へゆっくり歩いていく。

最初から飲ませる気だったんじゃないか。だったら無駄に選択肢を与えないでほしい。

中元はなかなか頭の切れる秘書であった。仕事は早いし、気遣いもできる、ただ細かいことに厳しいのがたまに傷である。

「はい、お入れしました」

中元はお茶をお盆から下ろしてデスクに移した。

彼女の目が早く飲めと言っている。

「ありがとう…」

暖かい昆布茶が体の中に染み渡っていった。

僕は昆布茶自体は苦手なのだがこの昆布茶は僕好みにアレンジされていて非常に飲みやすい。流石は中元だ。

「これから水分補給はしっかり取ってもらいますからね」

僕はこくりと小さくうなずいて、近くにあったボールペンを手に取った。


35歳になった今、僕は大手ゲーム会社「lieb」の社長になっていた。

liebは小学生を対象にしたものから成人を対象にしたものまで幅広い年齢層のゲームを作っている会社だ。

もちろんソフトのジャンルも様々でその数なんと合計1000本にも上り、会社もなかなか歴史があることもあって沢山の人に愛されている。


最近ではVR機能を搭載した新感覚の機種「ヴァーチャルlieb」が大ヒットし、販売台数1億7000万台を記録した。

ソフトも既に100種類以上あり、つい先日今人気のイケメン若手俳優が踊って歌うリズム系のものが完成した。

そのダンスも若者ウケを狙って作ったのだが期待どおり巷で話題になっている。


ここまでですでに分かったとは思うが、言ってしまえばゲーム会社でliebに並ぶものはもう存在しないのだ。

完全な無双状態、僕が社長になるまでは他にもテーマやカブラギなどの会社と競い合っていたのだが、少し僕が社長に就いた途端に彼らはすっかり衰退し、このザマだ。


もちろん日常生活も順風満帆であった。

高校生の時、学年でダントツで人気だったマドンナに告白され意気投合しそのままゴールイン。現在は美人で家事もできる完璧な妻になってくれた。


7年前に生まれた娘も小学1年生になり、僕にべったりで反抗期がくる様子もない。

ゲーム会社の社長の娘ということでクラスでも人気ものだそうだ。

なるほど確かに、小学校低学年くらいの社会とはそういったものである。

住まいはもちろん屋上庭園付き、プール付き、テニスコート付きの大豪邸。家政婦と運転手までいる。

プライベート用の車は青のマセラッティ、基本移動は運転手が運転する黒のリムジン。軽井沢、熱海に別荘も構えていて…

そろそろ説明が面倒くさくなってきた。


要するに、僕は誰もが羨む完璧な理想の暮らしをしている。

お金にも全く不自由していないし、その気になれば運の良さを乱用してパチンコ、競馬、宝くじでいくらでも稼ぐことができる。

それをしないのはただ、僕に良心というものがあるからであって決して不可能なことではない。

これ以上稼いでも無駄遣いするだけだし、宝くじなんか特に、それを楽しみにしている人もいるのだから一等賞を簡単にかっさらってしまうのは気がひける。

ゆえにそこは欲張らない。


僕は別に自慢話がしたいわけではない。

この話を聞いて腹を立てた人がいるなら謝ろう。

ただ、成功体験しかないゆえ、淡々と事実を述べているだけで、自慢話のように聞こえてしまうのだ。


「どうやったらそんなに成功できるの?」

「成功の秘訣は何ですか?」

こんなことをよく聞かれる。

それに対する僕の答えは決まってこうだ。

「知らん」

決して誰にもこの極意は教えまいと意地悪をしているのではない。

本当に自分でも何故成功したのかさっぱり分からないのだ。

僕は今の幸せを手に入れるために特に何をしたわけでもない。

特に努力もしていなければ学生時代将来についてしっかり考えることすらもしなかった。

それでも結果僕は成功した。

一生懸命夢を目指している奴らを涼しい顔でゴボウ抜きにして成功した。

ここから言えることは何か。

それぐらいはもう分かるだろう。


つまりは…成功の秘訣を聞いてきたやつに助言を与えてやるとすれば…

「人生結局、才能と運だ。無駄な努力など必要ない、生まれた時にもう格は決まっている」

てな具合に…いや、これは助言でも何でもないか…


僕としては、何故多くの人が成功者になりたいのかがわからない。

僕が成功者代表として言っておく。

成功者は決して幸せとは限らない。

楽しいのは最初だけですぐに飽きる。

理由は簡単かつ明確。

極端に刺激が足りないのだ。


ゲーム会社の社長というのも絡めて僕の人生を言い表すなら「超イージーモード」「始まった瞬間に最高ランクの装備を所持しているようなもの」

ゲームは地道に装備を揃えていくから楽しいのであって、誰が最初から主人公が最強装備を持ってボスを1ターンで倒せるゲームをやりたいと思うだろうか。

例えが飛躍しているとも思うが分かりやすく言えばそんなとこだ。


さて、長くなってしまった。もっと不満をぶちまけたいのは山々だが、愚痴はここら辺にして話の続きをしよう。




仕事が終わって、時刻は夜の7時30分。僕は高級リムジンでタバコを吸っていた。

「加賀様、このままだと予定より3分程早く着きそうです。スピードを緩めましょうか?」

「いや、早く着く分には問題ないから」

「かしこまりました」

運転手の鈴木は右にウィンカーを出してハンドルを大きくきる。

リムジンの大きな車体をここまで綺麗に操作できるのはやはり全国探しても鈴木だけだと思う。

「着きました」

車は目的地のすぐそばに止まった。

「ありがとう。帰りは僕が連絡したら迎えに来てくれ。だいぶ遅くなると思うけど」

「承知しております」

「じゃあ頼んだ」

僕が車を降りると車はすぐにトンネルの方に去っていった。

店の強い明かりが目にしみる。

目的地はイタリアンレストランだった。少々値は張るが値段以上の味で僕のお気に入りの店の1つである。

今日は高校時代の同級生2人と食事をする日なのだ。

1年に2、3回ぐらいこの店で集まり近況報告をするのだが、2人が払える値段ではないので毎回僕の奢りと決まっている。

「予約していた、加賀です」

「はい、加賀様ですね、お席ご用意しております」

店の中に入るとウェイターに奥のテーブル席に案内された。

やはり一番乗りだ。

「先にワインをもらえますか」

上品なクラシックを聴きながら先に飲んで待つことにした。


同級生の2人、松田航と西脇奈津子が店に到着し、3人揃ったのはそれから20分後であった。

僕はもうワインを飲み終わりすでに酔いが回り始めていた。

「本当に奢って貰っちゃっていいの」

西脇は遠慮気味にメニューをめくっている。

「いいよ、というかいっつもそうだろ」

「うん、だからたまには私も奢ったほうがいいかなって」

「無理しなくて大丈夫だから」

僕はなかなか引き下がらない西脇を手で制した。

「そうだよ西脇、幸助は死ぬほど金持ってるんだからここで食わせてもらわないと損だろ」

松田は西脇と正反対、まったく遠慮しないでメニューの中でも特に高いページばかり見ている。

「お前にはもう少し遠慮してもらいたいな」

僕が冗談交じりに言うと松田も西脇も声を出して笑った。

「冗談冗談、さっきみんなで食べる用にキャビア入りのピザを頼んどいたからそれも考慮してよ」

「おお、ありがと。流石社長さん」

松田は僕と会うと口癖のように「流石社長」を連呼する。

バカのひとつ覚えのようだが、僕の成功を妬んでくる友人が多いのでそんな中で純粋に僕の成功を喜んでくれるのは有難いことであった。

僕は松田のそういうところに惹かれたのかもしれない。

「すごいよな、加賀は。成功の秘訣ってやつを俺にも教えてくれよ」

でた、鉄板のフレーズ。

それにこいつに限っては何回目だ?この質問。

松田がオレンジジュースをストローで飲みながら僕の背中を叩いてきた。

松田は極端にお酒が弱いので毎回決まってソフトドリンクを頼む。

「分かんないよ僕にも。たまたま運が良かっただけだし」

「ふーん」

松田は疑うような視線を向けてきた。探るように目を細める。僕が成功の極意か何かを持っていると本気で信じているのだろうか。

そろそろ僕はただの運がいいだけの男だと気付いてもいい頃だと思うのだが。


ちなみに2人の職業は松田は美容師、西脇は民間だがウイルス関係の研究室の室長だ。2人とも学生時代からなりたいと言っていた職業につけているので、それの方がよっぽどお金持ちになるより幸せなことなのではないかと僕は思う。

西脇は注文を済ませるとワインを自分のグラスについで「乾杯」と僕のグラスに合わせてきた。

「最近、liebの新しいゲームハードも大人気で絶好調じゃない」

西脇がグラスを回しながら話しかけてくる

「なんて言ったっけ?liebヴァージョン?」

「ヴァーチャルlieb」

「そうそれそれ。CMも見たよ。すごいね影響力」

西脇は基本ゲームに関しては全く知識がない。頭はいいのに極端な機械音痴なのだ。

「俺ももちろん買ったぜ」

松田がドヤ顔で報告をしてきた。松田は大のゲーム好きで、liebの新作ゲームは必ず発売日当日に買ってくれる。友達以前にliebのファンの一人であるのだ。

「特にあの最新作、もうすっかりはまっちゃってさ、暇さえあればコントローラー握ってんのよ。何がいいってあのグラフィック。臨場感…ストーリーも…美しくまとめている感じ…」

こうなってしまってはもう誰にも止められない。

ゲームの批評をしてくれるのは僕としては助かるのだが、一押しのソフトまで教えられてもそれはうちの商品だし…。

いまさら何を言っても遅い。僕は腹をくくってしばらくの間ずっと相槌を打っていた。しかも西脇はいつの間にか化粧室に行ってしまっていたからすべて一人で聞かされる羽目になった。


松田のゲーム批評がひと段落する頃、西脇も戻って来て話題は「殺意のウイルス」の話題になった。

「西脇も大変だよね。殺意のウイルス、今大流行で」

僕も酔いが回ってきて、西脇に絡む。


現在日本は史上最大の危機を迎えていた。

問題視されているのは「殺意のウイルス」。

まだ発見されたばかりで正式な名前がないからそう呼ばれている。

始まりは2018年7月14日、前宮区の団地で主婦が風呂場で遺体として発見された事件だった。

自殺ではなく他殺なのは誰が見ても一目瞭然だったという。

身体には数十にも及ぶ大量の包丁が突き立てられていて、苦痛で歪んだのか目はあらぬ方向を向き、唇は血で滲み、おぞましい表情をしていた。

そして発見から間もなく犯人は逮捕された。あっけない逮捕だった。犯人は血だらけのTシャツを着て刃物を持って家の近くを歩いていたのだ。

近所の人々は大いに驚いた。犯人はその主婦の夫。近所でも有名なおしどり夫婦で夫はいつもニコニコとしていて何があっても怒らないほど温厚だったからだ。

そんな彼が何故、猟奇的殺人を犯したのか。

その後身体検査を行なっていくと体内から見たこともない形のウイルスが発見された。

これこそが殺意のウイルスなのだ。

殺意のウイルスに感染すると意識がもうろうとし、恐怖心がなくなる。そして「死に触れたい」という残酷な欲求が高まる。新聞で知った情報から僕が知っているのはこれぐらいだが、とにかくこのウイルスのせいで通り魔事件が急増して日本中を恐怖に陥れている。


「そうそう、大変なのよ。昨日まで5日間泊まり込みで調べてたんだけど成果は上がらずじまい。みんな体力に限界が来てたから今日休みをもらえたんだけど…」

5日間泊まり込み?僕の思った以上にハードなスケジュールみたいだ。

松田がピクリと耳を動かしてひっきりなしに動かしていたフォークを止めると西脇の方に視線を移した。

松田は基本ニュースは全く見ないのだが、流石に世間を賑わせている殺意のウイルスについては非常に興味があるらしい。

「え、殺意のウイルスについて西脇も調べてるの?」

キラキラした眼差しで松田が問う。

「うん、まあね。ここだけの話だけど、国だけではとても手が足りなくて、元国の機関にいたうちの所長のところにも依頼が来てるのよ」

僕も少なからず殺意のウイルスに興味を持っているのでニュースや文献で見ることがあるが、どのメディアでも感染経路、原因、対処法については触れられていなかった。

つまり、まだ全く解明されていないのだ。

だから国も中では右往左往しているのだろう。


現在起きている通り魔事件は分かっているだけでも1日に2〜3件。このままのペースで感染者が増え続けていけば1ヶ月後には1日に10〜15件ほどにのぼる計算になるという。

そんな状況にも関わらず僕たちが何の気なしにのんびり暮らしているのは危機感が足りないからだ。

頭ではもちろんこのままではヤバいということは理解している。しかし、今はまだ、最近少し物騒だなーぐらいで片付けられる程度なので皆んな日本がだんだんと壊れていっているという実感がないのだ。口では早くしないとヤバいとは言っていても、人間の中にある危機センサーは目に見える危機に陥るまで作動しない。


「具体的にはどういう分析をしてるの?」

松田はさらに聞いてくる。

「それは…言えないわね」

それに関しては西脇もそう簡単に口を割ってくれそうにはなかった。

いきなり視線をそらして何もない窓の方を向き出す。

そこから綺麗な夜景でも見えると言うなら別だが、実際見えるのはただの車道だけ。

車道を照らしているのはこの店の明かりだけで街灯なんて全く立てられていない。

おかげでその車道はこの店がなくなってしまえばもう何も見えなくなってしまうのではないかというほどに暗かった。

まさか西脇もこんな景色が見たかったわけではあるまい。

松田も僕と同じようにそれを感じ取っていた。

しかし彼の場合はさらに一枚上手で、どういう分析をしているの?と聞いた時に少し間があったことから西脇の中にも多少は秘密を言ってしまいたいという思いがあることを見抜いていたらしい。

人間誰しも、禁止されたことは無性にやりたくなるものだと彼は分析する。

絶対に言うなよ。と言われれば当然、言いたくなる。

松田はそこを逃さなかった。

「お願い。教えてよ」

手を合わせ、頭を下げて懇願する。

ここからは単純、揺さぶって揺さぶって揺さぶり倒すだけだ。

「一生のお願いだから」

松田は頭を下げたままの姿勢で言う。

流石、「一生のお願い」はだいぶ強いワードである。

実際は一生に一度ではないにもかかわらず、相手を大きく揺さぶることができるからだ。

実際、西脇はだいぶ揺らいでいる様子だった。

眉間にしわを寄せてまぶたを指で押している。苦しそうな表情。

「ううっ…」

西脇はの口から苦しそうなうめきが漏れる。

松田は目をキラキラと輝かせながら西脇に視線を向け続けた。

あと一押し。

松田は僕の足を軽く蹴ってきた。

それはつまり、トドメをさせ!のゴーサインである。

「僕からも頼むよ。ほら、長年の付き合いだろ」

僕も松田と同じように懇願の姿勢をとった。

「はぁ…」

西脇は深くため息をついた。

「分かったよ。教えてあげる」

諦めたように姿勢を崩して、降参の白旗を上げた。

僕たちの勝利だ。


「人体実験だよ」


西脇は感情を消すように端的に答えた。

一気に酔いが醒めた。

松田は衝撃が大きすぎて口をポカンと開けて硬直している。

余韻が重々しい。

僕もそういう実験をしているのではないかと思ったことはある。

聞こえは悪いがそうでもして徹底的に調べ上げなければウイルスの解明は不可能であるから。


それにこれはあくまで僕の想像だが、殺意のウイルスの場合、感染者が強い死への欲求を持っているので研究員が殺されかねない。ゆえにガチガチに監禁して、安全を確保しながら実験を重ねているのではないだろうか。

もはや人間としての扱いを受けていない。


「人体実験?!それって合法なのかよ」

松田はやっと言葉が出たようで、またいつものうるさい松田に戻ってきた。

「非公式だけど認められている。西脇たちは国に依頼されて実験しているんだから」

僕は割り込む形で松田に答えた。

「いや、でも……そういうものなのか…」

松田は急に黙り込むと考えるような仕草を見せた。たしかにこの事実を正面から受け止め、正義のためと割り切るのはそう簡単なことではないだろう。


「私はね、一番辛いのは殺された被害者ではなくて感染者だと思うの」

西脇はうつむいた。

「確かに…」

その通りだ。

どんな善人でも感染すれば殺人鬼と化す。自分の意識の外で残虐な行為を繰り返す。そして、殺した後に理性が戻り人を殺めた自分を恨む。


絶対に逃れられない最悪のサイクル。

そして何より恐ろしいのは僕たち全員が感染する可能性を持っているということ。もしかしたら明日、この3人のうち誰かが感染者になっているかもしれないのだ。


「それにしても加賀ちゃん随分詳しいのね」

西脇が関心したように僕を見た。

「殺意のウイルスについてもっと知りたい?」

「うん」

「じゃあ言える範囲で教えてあげるわ」


この後西脇は研究のことを隅から隅まで全て教えてくれた。どう考えても言える範囲ではなくて、全てだ。

洗いざらい誰かに話してしまいたい。その思いが一気に溢れでたようだった。

僕は淡々と語る西脇の言葉を一語一句聞き逃さないように注意してメモを取った。

特に大事なものは赤で、


赤のメモ


(最初に死への欲求が出てくるのは個人差がある。感染してからすぐの人もいれば遅い人もいるが再発は欲求が満たされてからちょうど1週間後と決まっている。この数字がブレることはない。

それまでは何の変化もなく普通の人間と区別がつかない。ちょうど1週間たったときに体の奥から欲求が溢れてくる。)


(死への欲求を満たす術は殺人だけではない。はっきりしたことはわかっていないが、とにかく感染者が身近に死を感じればいい。)


「有難いけどこんなに話してくれてよかったの?」

「大丈夫大丈夫。どうせこのこともいつかはニュースで取り上げられるんだから」

西脇は屈託のない笑顔で笑う。彼女は昔から大のいたずら好きであった。活発なスポーツ大好き少女から研究熱心な大学教授になっても根本は変わっていないのだなと知って、僕は何故だか少し嬉しくなった。

話を聞くのに夢中になっていて気づかなかったがだいぶ時間が経っていたらしい。松田も寝言を言いながら爆睡してしまっている。

「やっぱり松田はとことんこういう店が似合わないわね」

僕と西脇は顔を見合わせて笑いあった。

「そろそろお開きにしますか」

「そうね」

僕は話をまとめると松田を起こした。松田は目は覚ましたものの、フラフラでとても自力では歩けそうになかった。

「仕方ないな、送ってってやるよ」

「私もいい?」

「もちろん」

「やったね」

僕が鈴木に電話すると10分も経たないうちに約束通りリムジンが到着した。

僕はフラフラな松田を後ろに押し込んで西脇をその隣に座らせた。

「ごめんね鈴木、こいつらも送ってってくれる?」

「かしこまりました」

車はまた夜道を軽快に走り出し、僕たちは帰路に着いた。


家に着いたのは1時過ぎであった。

松田と西脇を送ったのでだいぶ遅くなってしまった。

「今日は遅くまですまなかった」

僕は家の前でもう一度鈴木に礼を言った。こんなに遅い時間まで付き合わせて、しかも二人の送り迎えまで頼んでしまったのだ。

「いえいえ、これが私の仕事なので」

まあこう返されることは初めから分かっていたようなもの。


僕は鈴木と別れると家の門の方に向かった。

門の前で立ち止まった。

門はもちろん鍵が閉められている。僕は帰りが遅くなると踏んであらかじめ持ってきておいた鍵を鍵穴に通して時計回りにひねった。

ガチャリと明らかに開いたような音がして、門が軋みながら開いた。

妻が出来るだけ外見を良くしようとゴツい門を買ったせいで夜に見るとアメリカのホラー映画にでも出てきそうな風貌をしていて少しだけ怖い。

門を抜けて家までの長い道を一歩ずつ慎重に歩いていくと目の前に人影が見えた。

しかもその人影はこっちに向かってきているようである。


まさか感染者…?!


僕はたまらず叫び声をあげそうになったがその直前でその人影に見覚えがあることに気づいた。

「何だよ、お前か。全く脅かすなよな」

家政婦の田本だ。サンダルをパタパタと鳴らし慌ただしく走ってくる様子、普通に考えれば幽霊など出るわけもない。

僕は幼稚な勘違いをしてしまったことが恥ずかしくなり顔を伏せた。

心臓に悪いから驚かさないでもらいたい。

それに、なんで彼女はまだ起きているのだ。

「ご主人様、なぜ帰る前に連絡を入れてくれなかったのですか」

田本がぜいぜいと息を切らしながら尋ねてきた。

「だから今日は遅くなるから先に寝ておいてくれと言ってただろ」

「しかし…仕事を放棄するわけにはいかないので」


僕は大きなため息をついた。

鈴木といい田本といい、皆あまりに真面目過ぎるからどんなに僕の帰りが遅くなってもキッチリ働く。そのせいで僕は夜まで働かせるのが申し訳なくなってしまって思う存分遅くまで飲むことが出来ないのだ。

贅沢な悩みなのかもしれないが本当に困っているのである。


「とりあえず、家に入ってください。外にいると蚊に刺されますよ」

田本は僕を無理矢理家の方へ追いやった。


僕は家に入るとワイシャツのボタンを上から2つ目まで開け、ネクタイを緩める。

椅子の奥までどっかりと腰をかけ、手足を楽にした。


「お風呂はお入りになられますか?」

「いや、もう疲れてるからいいや」

「では何か飲み物は?」

「んじゃあ、水を一杯だけ」

本当は水を飲むより何より、一刻も早くベットで寝てしまいたかったのだが、田本が何かしなければ気が済まない性格なのは分かっている。

僕が頼むと田本は軽い足取りで台所の方に向かっていった。

何故こっちが色々気を使わなきゃいかんのだ。


彼女は5年前から家で働いている50代後半のベテラン家政婦であった。

長いキャリアを持っているので家事はもちろん、対人コミュニケーション力も高く顔が広い。あの気難しい運転手の鈴木とも仲がいいくらいと言ったらコミュニケーション力の高さが伝わるだろうか。

さらには子供への接し方もうまく、僕の一人娘の聖奈も田本にとてもなついている。

「ご用意できましたよ」

田本がお盆に水を乗せて持ってきた。

テーブルに水を置くと少し下がって僕の隣に立った。

「聖奈様が最近お父さんの帰りが遅いと悲しそうにしていましたよ」

「それは仕方ないだろ仕事なんだから」

僕がそう返すと田本は口元を少し緩ませた。

「麻有様も聖奈様に全く同じことを言っておられました」

田本は夫婦揃って同じ返しをしたのが面白かったのだろう。

麻有とは僕の妻である。良妻賢母で聖奈への教育は割と厳しめ、最近も聖奈の受験勉強が大変だとぼやいていた。僕はなにも小学生から受験する必要はないと思うのだが、それを口に出せば必ず「そういう考えが甘いのよ」と一蹴される。


聖奈も相当疲れが溜まっているはずだ。今度時間があったら久し振りに家族3人でどこかへ遊びに行きたいが麻有はそれすら許さないだろうか。

僕は水を飲みきってコースターの上に戻した。

「麻有は少し聖奈に厳しすぎやしないか?」

ふと思いついて田本に意見を求めてみることにした。

「さぁ」

なんと適当な答えだろう。

「でも、麻有様は聖奈様のことをとても愛しておられますよ」

それはそうだろう。受験も聖奈が後に苦労しないためにするのだということは僕も分かっている。

「田本は厳しく育てるのと緩く育てるの、どっちがいいと思う?」

「どっちがいいとは一概には言うことは出来ませんが、私は厳格な父のもとで育ちましたよ」

田本は斜め上を見て、少し考える素振りを見せてから言った。

「それで田本は良かったと思ってる?」

「はい、もちろんです。最後は父の愛に気づくことが出来ましたし」

今度は即答だ。

「でも子供の時はとても辛かったですよ。何をしても認められなくて、怒られてばかりで」

僕は黙って話を聞いていた。田本が自分の話をすることは滅多にないのだ。いつのまにか眠気も忘れてただただ田本の話に聞き入っていた。

厳しすぎてもだめ、緩すぎてもだめ。だから教育は難しい。

「私は加賀家の教育は素晴らしいと思っていますよ。麻有様は厳しく、幸助様は優しく。しっかりバランスが取れています」

なるほどな。田本にそう言われるとこのままでいいのだと少し自信を持てた。

25年近く世話係をこなしてきたキャリアは伊達ではない。


僕は席を立ちかけてふと思った。

「それで田本はどっちなの?」

田本はまた口元を緩めた。

「私はどうしてもついつい甘くなってしまいますね」

彼女は一本取られたというように笑った。

「じゃあ、僕はもう遅いから寝るよ」

目が覚めてしまったが、これ以上起きてやることもない。

「はい、明日は何時に起こせばよろしいでしょうか?」

「10時でお願い」

「かしこまりました。おやすみなさいませ」

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