第六十五話:糸口
空はまだ東雲色に移り変わったばかりで、覚醒を果たしている者もまばらな頃から彼は道場に身を寄せていた。やるべきことは昨晩と変わらない。少しでも強くなりたい。そのためには、ちょっとした空き時間も今の彼には惜しい。
そろそろ朝食の準備が迫っている頃だ。そうとわかっていつつも、道場から離れようとしないのは、本部には鬼丸国綱がいる。今日の当番が彼女であったなら、件の二人組のような危険性は皆無であると信用してよい。付け加えるのなら、たまには誰かが作ってくれた料理を食べてみたい気持ちでもあった。
備品の木刀、ではなく自らの得物を抜く。真剣を用いている時の方が、より一層集中できた。鮮明に虚空に描かれていく幻影は、相変わらず余裕を含んだ笑みを顔に貼りつかせている。人の神経を逆撫でするには効果は十分にあろう、がそれを咎める資格があるのは彼女よりも強い者だけだ。生憎と、結城悠は言い返せるだけの資格は持ち合わせてはいない。
(あぁ、やっぱり……)
臓物を掌握されるような感覚。冷たい汗が全身からどっ、と流れ落ちる。不快感を憶える間だけで、もう結城悠は三度も斬られた。
呼吸を整えて、悠も応戦する。今日はただ無様に斬られるためだけに道場にやってきたのではない。
勝つ、というのは高望みというもの。簡単に超えられる壁であったなら、こうも苦労することはない。まだまだ結城悠が幻影に勝つには時間も経験も、何もかもが圧倒的に足りない。千里の道も一歩より――せめて一太刀……掠り傷だけでも負わせてみせる。自らに立てた目標の再認識に、柄を握る手も自然と強まっていく。
(今日こそは……!!)
幾多と剣戟を重ね合わせる。
十回目――どれもこれも無様に斬殺された。顎を割られた時の痛みの光景は、思い返しただけでもぞっと肌が粟立つ。
五十回目――遅すぎる成長は否めない、がようやく慣れてきた。
六十五回目――とうとう十合まで打ち合えるようになったところで、意識が現実世界へと連れ戻される事態に悠は巻き込まれる。
どうやら邪魔が入ったらしい。背後からの強襲を仕掛けてくる不届き者には、それ相応の罰を与えねばなるまい。その刑罰が峰打とは少々やりすぎた気がしないでもないが。自業自得ということで片付けておくことにした。そもそもこの時、悠の意識は現実と仮想の区別がつけられる状態ではなかった。それほどまでに、この仮想戦闘には集中力を要する。
斬らなかったのは真剣を握っていることを彼が把握していたからに他なく、それは奇跡に等しい。
(いっぱい集まってるな……なんでだ?)
気が付けば、いつの間にやら人だかりが道場の前にできあがっていた。その内の一人の理性が振り切られてしまったのだろう。よくよく自分に視線を下ろせば、実に納得ができる。半裸の男が汗を流して突っ立っていれば、彼女達にしてみれば刺激が強すぎるのも頷ける。自覚が足りないという外野からの指摘も、今回ばかりは素直に悠は受け入れることにした。
「えっと、すいません俺が言うのも変な話ですが大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です……」
頭にたんこぶを作って床に突っ伏したまま動かない彼女が、親指を弱々しくも立てた。とりあえず無事であることも確認したし、後は御剣姫守だ。超人的な自己治癒能力に期待して、悠は身嗜みを整える。
「朝から精が出てるね」
知った声が耳に入ってきた。
何故ここに……。悠がそのように考えることに価値がないと理解したのに、そう時間は必要なかった。彼女の性格および行動歴を思い返せば、答えは容易に導き出される。
要するに、この娘はまた監視の目を盗んで脱走してきたようだ。相変わらず、自身の立場をわきまえていないが、言うだけ無駄なのでその役目は童子切り安綱に一任することにする。
「楓……お前、また安綱さんの目を盗んで脱走してきたのか。またこっぴどく怒られても俺は知らないぞ」
「だって退屈なんだもん。それよりも、早く帰らないと朝ごはんが冷めちゃうよ? 私様もお腹ぺこぺこなのに迎えにきてあげたんだから」
「別に、頼んではいないし先に食べていればよかっただろ」
「だって安綱がさ、夫が帰ってくるまで食べるのを我慢しろ、って言うんだもん。それに他のみんなも悠は自分の男だとかなんとか言って大喧嘩しだすし……」
「やれやれ。朝早くからご苦労なことだな――わかった。早く帰ろう」
「うん! それじゃあ早く早く!」
「わかってるって」
人混みをかき分けて、悠は楓と共に道場を後にした。
「――見てたんだけどさ。本当に悠ってすごいよね」
道中、そんなことを急に言ってきた。何がすごいのか。皆目見当もつかない悠はそのまま尋ね返す。
「すごいって何がだ?」
「うん? 何ってもちろん剣に決まってるじゃない。私様ほどじゃないにしても、人間でそこまで鍛え上げられるって信じられないって今でも思っちゃって」
「……全然すごくないよ俺は。これでもまだ守られてばかりなんだ」
「いいねぇ、そういうの。嫌いじゃないよ私様――昔は人間だけだったし、その中でも御剣姫守に匹敵するぐらい強かった人もたくさんいたから」
「えっ?」
思わず立ち止まってしまう。それほどの衝撃を与えたくせにして、この娘はどうしてきょとんと小首を傾げている。記憶を取り戻したのではないのか……。今はそのことに追求すべきだ。悠は楓に問い質した。
「お、おい今のはどういうことだ!? 記憶が戻ったのか!?」
「へっ? 私様何か言った?」
「何かって……昔は御剣姫守に匹敵するぐらい強い人間がいたって」
「えっ!? 私様そんなこと言ってないよ!?」
「嘘だろ……」
「それより早く帰ろ! お腹減って死にそうなんだから。あ、思い出したけど悠の愛刀……とても怖い顔してたよ」
「……早く帰るか」
悠にとって、この件はまだ終わっていない。終わらせられるはずがない。神威にてオキクルミのことも然り。御剣姫守を村正が生み出す以前から鬼に対抗してきた超人がいる。彼女らの軌跡を辿り着けることさえすれば、自らもその領域へと近付ける可能性は十分あるではないか。情報がとにかくほしい。
(三日月さんや……小烏丸さんなら何か知ってるかもしれないな)
天下五剣ならばまだ人間がいた頃に生まれている、ひょっとすると楓の言う御剣姫守に匹敵する人間について何か知っているかもしれない。小烏丸も作家活動であちこち旅をして回っていると聞く。直接ではなくとも口伝えに該当される情報を持っていてもおかしな話ではない。
だがその情報を入手するためにも、まずは本部への帰還を最優先事項とする。怒れる愛刀を鎮められるのは仕手の役目だ。悠は駆け足で本部へと急いだ。




