第六話:騒がしき朝
早朝の中庭で、悠は刀を抜いた。
造り込みは鎬造り。刃長はおよそ二尺三寸四分。刃文は広直刃。
日本刀としてはごく標準的な代物である。
だが、これこそが結城悠の半身たる愛刀である。銘はない。
日本刀が目指すところは切れ味と強度にある。
どれだけ銘があろうと腕前が未熟ならできあがるのは当然なまくらだ。量産目的の数打にすらも劣る。
銘など飾りである――ただ優れた日本刀を生み出すためだけに生涯を費やす一族の末裔から、悠は刀を受け取った。
悠自身も名前に対する興味をまったく持ち合わせていない。
名前があろうとなかろうと、突き止めれば日本刀は所詮人を殺めるだけの兇器にすぎぬ。
兇器に名前など必要あるだろうか。
否――必要などない。
ただ仕手に見合い最大限に力を発揮してくれるものであれば、悠はどの刀工であろうと気にしない。
故に悠の愛刀は無銘である。
無銘と言えどあなどることなかれ。
入念に立てられた刃と悠の技量が合わさることで生まれる一撃は、大木をも容易に両断する。
人であれば即死は免れない。
そもそも、刀で斬られる時点で致命傷なのだが。
構える。
型は剣術の中で攻撃的と言われている上段。
目の前に仮想の敵を想像する。
同じ日本刀を持ち、体格はやや悠よりも上。
人間の形をした幻影が吼えた。
幻影が地を蹴り上げる。
離れていた間合いが瞬く間に縮まる。
一足一刀の距離にまで縮まった、刹那。悠は鋭く息を吐いて大きく踏み込む。
鋭い風切り音が鳴り、白刃が虚空を斬る。
唐竹に打ち込まれた幻影が消失して、悠はゆっくりと息を吐く。
「特に問題はなし……だな」
寸分の違いなく返ってきた愛刀の具合に安堵の息を漏らす。
先の素振りで今日の調子も確認できた。まぁ、普通と言ったところだ。
また構える。
先ほどと同じく上段の構え。
敵を仮想する。状況も同じ。
踏み込む。刀を唐竹に打ち落とす。
虚空を見据える悠の虚ろな視線は、意識が外界へと外界に向けられていないことを意味していた。
悠は意識を、過去へと遡らせていた。
鳴守真刀流――鳴守館は滋賀県に居を構える剣術道場である。
実際には道場と言っても、門下生は誰もいない。
師範代を招くこともせず、ただ身内だけで好き勝手に剣術に没頭した。
その風習は現代にも受け継がれ、当時五歳だった悠も門下生として鳴守館の門を潜るのは必然だった。
結城悠は最強と言う称号に興味はない。
しかし他流派が認めるまでに最強の座を手に入れたのは、たった一つの情景があったからに他ならない。
同じ武術家でありながら自由に生きることを応援してくれた心優しい母を、武術家の恥晒しと罵声を浴びせ暴力を振るった父の冷ややかな眼差し。
武術の英才教育を施す父を師と仰ぐ傍らで、母の敵と悠は憎悪を抱いていた。
父は強い。だからそれ以上の強さを自分は得ねばならない。
生まれもっての天賦の才もそうだが、悠は死に物狂いの努力をした。
それこそ何時間も剣を振り回していたこともあったし、それが原因で過労死寸前にまで陥り生死の境を彷徨ったことすらある。
それでも悠は剣を振るうことを止めない。
全ては母を苦しみから解放するため。
そのために俺は強くなる。
剣鬼に魂を堕とすことも怖くはない。
「大和刀を所持しているのは、ただ単に酔狂だからではない……か」
「安綱さん」
声の主を見やる。
天下五剣が一人、童子切り安綱がいた。
昨日見た巫女服とは異なる。
朱色の着物を纏っている彼女は、やはり美しい。
寧ろ太刀やら鎧やらで武装しているよりも、断然今の方がいい――などと言えば、きっと彼女は怒るだろう。
口は災いの元。思わず出そうになった言葉を、胸の内に留めておく。
「朝早くから修練とは、精が出ているな」
「修練って言うほど身体は動かしてませんよ。安綱さんは?」
「悠と同じで修練だ。普段は鬼との戦いもないのでな。昨日のようなことは本当に珍しい――三日月から聞いたが、貴殿は鬼を斬り伏せたそうだな」
「えぇ、まぁ」
正直なところ、異形の怪物相手に己の剣が通用するとは思っていなかった。
鬼が弱かった、などと悠は思わない。
先の戦い。もしも読み誤っていれば殺されていたのは自分だったのだから。
ともあれ、鳴守の剣が鬼にも勝ると先祖が聞けば、さぞ喜んだに違いない。
「男性でありながら刃を振るい鬼を斬る……か。何故だろうな。本来ならあってはならないはずなのに、想像しただけでこう、心が高揚する」
「……ギャップ萌えってやつじゃないですかね」
「“ぎゃっぷ”?」
「要するに見た目に似付かない仕草とか格好に、きゅんとするってことです」
「よくわからんが……なるほど。悠の世界ではこのような現象を“ぎゃっぷ”萌えと言うのだな。憶えておくとしよう」
「いや、まったく憶える必要はないと思いますよ。それよりも、今日は少し皆さんにお話したいことが――」
「た、大変だよ!」
朝の静かな時間には不相応な声が中庭に響く。
どたどたと慌しい足音の主を見やる。
白い寝間着姿の鬼丸国綱の顔には焦りの色が濃く浮かび上がっている。
よほどの事態なのだろう。
寝間着がはだけて健康な肌が隠されていない。
つまり悠がいる前で鬼丸国綱は胸を晒している。
これがラブコメディなら、今頃主人公のごとく悠の頬には紅葉ができあがっていただろう。
しかし、ここは男女の価値観が逆転している世界。
胸を男性に見られたところで、彼女達はまったく気にならない。
「そんなに慌ててどうした鬼丸よ」
「そ、外! 外が大変なことに!」
「外? まったく、こんな朝早くから何が起きていると言うのだ?」
呆れ顔を浮べて玄関へと向かう童子切り安綱。
その後に、好奇心から悠は追従する。
勢いよく玄関の扉が開放される。
外からの眩い陽光が入り込み――その先に広がる光景に、童子切り安綱が唖然とする。
少し離れた場所に身を潜めながら様子を窺っていた悠も同じく。
何故、こんな朝早くから本部の前に人だかりができているのだろう。
何故、彼女達は一様に俺の名を口にしているのだろう。まるでわからない。
「な、何事だこれは!? 貴様ら持ち場を離れて本部にやってくるとはどう言う了見だ!?」
困惑しつつも、怒気を孕んだ童子切り安綱の声が高天原に反響する。
すると次の瞬間、わっと抗議の声が上がった。
聖徳太子も真っ青な数の声は、何十と重なり合って聞き取れない。
よくよく観察すれば、来訪者の手には一通の新聞紙が握られている。
更に目を凝らして――幸運にも飛んできた新聞紙を拾って、悠はついに理解する。
でかでかと号外と書かれた下には【歴史初! 刀を振るう男性の美しき姿!】と書かれてあった。
目を通していけば、昨日の事件についての詳細が記載されている。
それだけであれば、このようなことが起こるはずもない。
事の原因は、“桜華衆の一員として今後新たな風を巻き起こすかもしれない”と、記者の勝手な考えが綴られている。
内容自体に不正はない。
記者の考えは確かにそうなのだが。
これはいくらなんでも早すぎる。余計なことをしてくれたものだ。
「ちょっとどう言うことなのか説明してもらいたいんですけど!」
「男性が私達の支部で働くって本当ですか!?」
「はぁ? なんでアンタのところって決まってんのよ。頭沸いてんの?」
「これは結婚できる“ちゃんす”です! さぁ早く私の運命の殿方とお逢いさせてくださいませ!」
「えぇいうるさいうるさい! こんな朝早くからそれだけを言いにきたのか貴様らは!」
「そうだよ。悠は私達のところで働くって決まってるんだ。そして私と結ばれる運命でもあるんだよ。だからすべこべ言わずに早く彼に会わせてほしいな」
「黙れ小狐丸! 悠は貴様の……否、誰の物でもない!」
ぎゃあぎゃあと御剣姫守達の口論は激しさが増していく。
とりあえず、自分はこの場から離れておいた方がいいだろう。
口論の種となっている悠が出ていけば、火に油を注ぐのも同じだ。
ゆっくりと後退り――落ちていた物を踏んでしまい物音に気付かれる、などと言うことが起こらぬよう足元に注意しながら少しずつ下がる。
「こんなところにいたのですね悠さん!」
飛んできた一言で、悠の努力は一瞬にして水泡に帰した。
三日月宗近によって、全ての視線がこちらへと集中する。
かつて、こんなにも多くの女性から視線を浴びたことがあっただろうか。
今は亡き婚約者ができてから、悠は他の女性に目を向ける余裕などなかったし、好意を抱くこと自体ありえなかった。
だが今にして思い返せば。周りにいた女性達は、彼女達と同じ目をしていた気がしないでもない。
それはさておき。
「やぁ悠。号外を読んで君を迎えに来たよ」
満面の笑みを浮かべたロリ巨乳狐娘が手を差し伸べる。
間髪入れずに、横から伸びた別の手が彼女の手を払い飛ばした。
「あ、貴方が噂の男ね! ちょうど今人手が足りなかったから貴方の力を貸してちょうだい! わ、私は小竜景光って名前だからよろしく頼むわよ!」
「卑しい御剣姫守は嫌われるッスよ。アタシは祢々切丸って言うッス。アンタが最大限に働けるよう手取り足取り教えてやるッスよ!」
「私は三明剣が一人、長女の顕明連と申します。貴方のような殿方が現われることを心よりお待ちしておりました。さぁ、私と共に……って、なんですかにっかりさん! 私の邪魔をしないでください!」
「笑えない冗談は……嫌い。後青のことをにっかりて呼ぶのは、大嫌い」
妨害と名乗りを繰り返す御剣姫守。
もはや収拾がつきそうにない空気が漂う。
このまま悠が建物の中に引き篭もろうものなら、童子切り安綱の制止を振り切って押し掛けてきそうな雰囲気すらある。
血走った目に乱れた呼吸はさながら空腹に苛まれた獣の如く。
正直言うと、凄く怖い。
さて、この事態を如何にして天下五剣は収めるのか。
悠は童子切り安綱らを見やる。
と言うより、どうにかして収めてくれないと俺が困る。
「いい加減にしろ貴様ら! それでも誇り高き御剣姫守か!? それ以前に悠はまだ桜華衆として働くとは決まっておらん!」
「えっ? そうなの?」
「まったく、この号外に書かれているのはあくまで記者側の憶測にすぎん。大体悠は男だぞ。我らが守らねばならない存在を、貴様らは戦いに出すと言うのか?」
「誰も鬼との戦いに出すとは言ってないよ。私達の身の回りのことをしてもらえれば、それでいいんだ。家事はもちろん、夜の方もね」
小狐丸の一言に、何人かが赤面して、何人かが同情の相槌を打った。
一体何をされられるのか。などと問うほど悠は幼くもない。
もちろん、ほいほいと承諾する気もさらさらない。
「えっと……とりあえず俺は今のところ桜華衆で働くつもりはありませんので。ですからこの号外の内容は信じないでください」
これ以上の厄介事は、桜華衆の評価を下げる危険性もありうる。
助け舟のつもりではないが、悠は自らの意思を伝える。
桜華衆で働くつもりはない。そう、今は。
「ともかく、全員早く持ち場へと戻れ! まったく……私情で力を使うとは御剣姫守の恥と思え」
ぴしゃりと言い放った童子切り安綱によって、扉は固く閉じられる。
しばらく扉越しに不満の抗議が上がったが、やがて聞こえなくなった。
どうやら、やっと小狐丸達が諦めたらしい。
「朝から戦闘以外のことで疲れさせられるとは……減給処分を言い渡すか?」
「ま、まぁまぁ。俺はあまり気にしてませんから。そこまで厳しくしなくてもいいですよ」
「……貴殿は優しいのだな」
「……優しくなんかないですよ」
優しい人間が、一時に感情に身を委ねて人を斬ったりなんかしない。
俺は、罪を犯した罪人なのだから。
自嘲気味に小さく笑い、その様子に小首をひねる童子切り安綱と三日月宗近を置いて、悠は立ち去った。