第四十八話:それは危険な誘い
鬱蒼とした森の中を歩く少女の足取りは、ふらふらとしておぼつかない。
現に彼女が森に身を投じる前、立ち寄った街では何人もの人が怪訝な眼差しを向けては懸念の声を投げ掛けている。いったいなにがあったのか、と。それに応じず素通りするものだからより一層不安と心配を寄せられて、幽鬼のように彷徨うこの少女はそれすらも気付いていない様子で森の中をどんどん進んでいく。
少女――千年守鈴姫の心境を一言にして表わすのであれば、それは虚無以外に他あるまい。たったさっき、愛する男の所有権争いに敗れたばかりであれば、その心も穏やかではない。
仕手に応えられるだけの刀でなければ、隣に立つことなど許されない。ナマクラとわかっている刀にどうして自らの命を預けられよう。より優れた刀を選ぶに決まっている。そう意味でなら、千年守鈴姫の知る結城悠という男は決して性能云々で判別するような男ではない。
優しい彼のことだ。絶対に見捨てたりなんかしない。ずっと一緒にいてくれると言ってくれたあの言葉は本物だ。けれど、果たして彼が立つ戦場に自分はいるだろうか。隣に立っているのが他の刀ではないだろうか。
一つぽんと浮かんだ疑問は、二つ、三つと彼女の中で無限の膨張をし続ける。
(嫌だ……そんなの、嫌だよ……――)
悠に見捨てられたくない。じゃあ今のボクにはなにができる。それがわからないから、千年守鈴姫は当てもなく、ただ彷徨い続けることしかできない。
その足が、不意にぴたりと止まった。
「は~い、元気なさそうな顔してるわねぇ。そんな顔してると幸せ逃げちゃうわよ~」
千年守鈴姫の行く先には一人の女が立っている。
長年付き合いのある友人との再会を喜ぶような言動に対して、彼女の反応はまったく異なるものであった。強張らせた顔を相手に向けて、女を収めている眼は落ち着きなくゆらゆらと動いている。
何故、どうして……。そのように捉えられる言動の何が愉快なのか、からからと嗤う女はとても楽しそうで、それが余計に千年守鈴姫を警戒させる。
「禍鬼……!」
話だけならば、千年守鈴姫は聞いたことがあった。
鬼の上位種であり、その実力は真打ですらも一筋縄ではいかないほどの強敵。どうして初めて相対したのにソレとわかったのかは、敵手の身より発せられる邪気があまりにも異質であるから。今まで戦ってきた雪鬼がとてもかわいく思えてしまうぐらいに、あの禍鬼は禍々しい。
刀を抜こうとして、既に己の手の中にあることに今更ながら気付く。白刃には血がべったりと付着していて――いつ、これを付けた……いや、抜いたのかすらも千年守鈴姫には憶えがない。
「君さぁ、ここに来るまでに随分と鬼を斬ってきたわねぇ。なんて言うの? ヤケクソ? もう目に付いた鬼を手当たり次第って感じだったわよ。ずっと見てたけど、今の君の方がよっぽど鬼らしいわ、うん」
「……言いたいことはそれだけ? じゃあさっさと消えてよ。今のボクはものすごく機嫌が悪いから、跡形もなくきっちりと殺してあげるよ」
「あららららっ。なんだかすっごく怖い顔――そんなに自分が大好きな男を盗られたのが悔しいんだ」
「ッ」
全身の肌がぞわりと粟立った。
図星である。けれども、どうしてお前がそれを知っている。千年守鈴姫は混乱の中で、二振りの血刀を構える。
「まぁまぁ待ちなさいなって。私はね、悩みを持ってる相手の背中を押してあげるのがすっごく得意なの。君も悩んでるんでしょ? だったらさぁ、この私に任せてみない? うんその方が絶対にいい。私が協力してあげる」
「何を言って……痛ッ!」
千年守鈴姫の顔が苦痛に歪む。
不敵に微笑むばかりの女は彼女と対峙したままで動いていない。攻撃を自ら仕掛けていなければ、では誰がやったというのか。その正体を初撃で回避することは、女に気を取られていた時点で気付けぬも同じ。千年守鈴姫の前に姿を見せたあの瞬間から、女の攻撃は既に始まっていた。
「これ、は……」
痛みの正体に千年守鈴姫は舌打ちをこぼす。
痛みの発信源たる彼女の指先に、それはいた。一センチにも満たぬ小さな襲撃者――おどろおどろしい模様を背に浮かばせた蜘蛛が一匹。どうやら噛まれたらしく、同時に与えられた命令を完遂させたのであろう、きっと睨む千年守鈴姫を見やって力なく雪の上に儚く散った。
「な、何を……!」
何をされたかなど、とうに知れている。じんじんと熱と痛みが帯びていて、その元凶が蜘蛛となれば思い至るのは毒以外になく。一瞬にして窮地に立たされた、自身に与えられた猶予がもうわずかにしかないことを千年守鈴姫は悟る。
毒の効果がなんであれ、御剣姫守にも効果がある以上は危険であることに違いはないのだから。焦りを顔に示す千年守鈴姫は地を蹴り上げる。
適切な解毒の処置を知らぬ輩でも、まず冷静を失わず激しく身体を動かさないことだけは、なんとなくながらも思い浮かぼう。となると彼女の行動は冷静さを欠いたが故のものか――と問われれば、千年守鈴姫は否と答える。決して考えなくして取った行動にあらず。
術者を介しての攻撃であれば、それを打破する術も術者にあり。
あの禍鬼さえ倒してしまえば、この毒も消える。問題は時間だ。あの時は不意を突けたからこそどうにかできたものの、今回ばかりは自分の力のみが頼りになる。付け加えて、悠長に戦っている時間もない。
(即効でカタをつける!!)
故に短期決戦へ。全身全霊を賭した一撃を、にやにやと不気味な笑みを終始浮かべたままで佇む禍鬼へと叩き込む。
その手が、ぴたりと止まった。禍鬼が何かしたのか――否。相変わらず挑発的な、心底見下すかのような笑みを浮かべてその場に突っ立っている。
「そんな……どうして……」
大刀を振り上げた姿勢をそのままに、狼狽した様子で千年守鈴姫は問う。驚愕に染まり切った彼女の視線を追えば、その先にいるのが禍鬼ではないことは明白で……ならばいったい彼女は何を見て、何に驚いているのか。彼女の瞳のみに映る姿なき敵手が見えない限り、第三者が真実に到達することは永遠に訪れまい。
「は、悠……」
屯所にいるはずの悠がいる……いや、これは幻影だ。となるとあの蜘蛛が宿していた毒は対象者に幻覚症状を引き起こさせるものと、なんとなくながらも理解して――だというのに、千年守鈴姫は動こうとしない。いや、動けなかったのだ。
安定した精神状態であったなら、鼻で一笑に伏した後に幻影ごと敵手に鋭い一太刀も浴びせられていようが、不安定な状態の彼女にそれを実行するだけの余裕などなかった。ましてや、愛する仕手から冷たく軽蔑するかのような眼差しを向けられては、千年守鈴姫を疑問と悲絶の鎖で縛るのも同じ。結果、ただただ己にしか見えない幻影を前に彼女は無防備な姿を晒すこととなる。
――鈴……――
幻影が口開く。千年守鈴姫は、なんとなくそこから放たれる言葉を察してしまった。
聞きたくない。握り締めていた刀をも投げ捨てて、千年守鈴姫は両耳を塞ぎ、ぎゅうっと強く目を閉じた。これから来るであろう衝撃に備えるように。
そうまでして、愛する者からの拒絶を彼女は何よりも恐れていた。捨てられてしまったら、また一人ぼっちになってしまうから。そんな千年守鈴姫の内なる想いを、自らの意思を持ちえぬ幻影が知る由もなく。
幻影が放つ言葉は、無情にも彼女の両手をするりと通り抜けていった。
――鈴……お前には失望した。例え相手が天下五剣だろうと、俺の刀なら……鈴姫一派が打ってくれたお前なら、どんな相手だろうと負けないと思ってたんだが。どうやら俺の見込み違いだったらしい――
「ち、違うよ悠……も、もう一回。もう一回戦えばきっと……っ!」
――お前はもう俺には必要ない。俺にはこいつがあるし、何より周りにはお前なんかよりもすごい刀がたくさんある……じゃあな、元愛刀。千年守鈴姫という名のナマクラ――
「や、やだやだ! お願い悠ボクを捨てないでよ、置いていかないでよっ! お願い、だからぁ……」
「あらららら、泣いちゃった。でも、これはさすがの私でも心に来ちゃうかも……――で? どうだった?」
禍鬼の問い掛けに、千年守鈴姫は涙で赤く腫れぼった目できょろきょろと辺りを見回す。無情にも見捨てていった幻影の姿はもうどこにもいない。再び自分と、しゃがみこんで顔を覗きこんでくる禍鬼の二人っきりとなった。
「い、いま……の……」
「幻覚よ。アタシの毒はね、相手に幻覚症状を強制的に引き起こさせるの。でもただの幻覚じゃない。相手の心の奥底に隠れた不安や恐怖を幻影にする――今君がもっとも不安に思ってること。それが今君が見てた幻覚ってこと」
「ボ、ボクの……不安や、恐怖……」
「悔しいと思わない? だってさ、本当ならこんな思いなんかすることなんかなかったんだもん。でも邪魔な御剣姫守のせいで君はこんなにも不安と恐怖を抱くことになっちゃった。それってすっごく悔しいことだって、君もわかってるでしょ?」
「…………」
千年守鈴姫は言い返せなかった。皮肉にも禍鬼の言っていることはあまりにも正しかったから。もっと早くに御剣姫守になって悠と再会していれば……、三日月宗近さえいなければ、こうも苦しむことなんてなかったのに。沸々と煮え滾る感情を、千年守鈴姫は拒まない。
「さっきも言ったでしょ? アタシはただ悩みを抱えている相手の背中を押してあげるだけって……」
「ボクは……」
「じゃあこのままでいいの? 好きな男を他の女に盗られたまま、親指咥えてじっと見てるままで君は満足なんだ。ふ~ん」
「……だ――それだけは絶対に嫌だ!!」
「じゃあ、決まりじゃない?」
差し伸べられた手を、千年守鈴姫は掴んだ。にしゃりと不気味に嗤う禍鬼を見やるその瞳に、憎悪の炎を燃え上がらせながら。




