第九十七話:小さき鶴姫、怒る
いつもの光景が変わっていくような心境。
稽古を始めてからすぐに違和感に気付く。
一見しただけではわからない小さな綻びは、いつも彼らを指導してきたからこそ、彼は見抜くことができた。
悠は一人の門下生を注視する。
見やれば見やるほどに、違和感が鮮明化されていき、彼の眉間も強く顰められていく。
「えいっ! えいっ! ……ッ」
「おい昴」
「は、はいなんですか悠さん!」
「お前、どこか調子が悪いのか?」
「い、いえ別に! 僕は大丈夫です……!」
「いやいやいや、どう見たって大丈夫って顔じゃないだろ」
今日の昴の様子がいつもと違う。掛け声も張りがなく、まっすぐできれいな太刀筋も僅かばかりに乱れが生じている。そして呼吸を整える度に、彼の表情は一瞬だけ苦痛に歪んでいた。
違いはこんなにもあるのだ、彼の大丈夫という台詞も説得力が大きく欠けている。
痩せ我慢をしているのは明白だ。よって悠は師範代として彼を咎めなければならない。
「体調不良なら休め昴。無理をして身体を壊したら意味ないんだぞ」
「ほ、本当に大丈夫ですから!」
「……腹が痛いのか?」
「え?」
「お前、さっきから腹を庇うように木刀を振るっているだろ――ちょっと見せてみろ」
「だ、駄目です悠さ……あぁっ!」
「変な声出すなよ……男同士なのに何を恥ずかしがってるんだか」
弱々しくも抵抗の意志を示す昴を無視して、悠は稽古着を強引に捲り上げた。ちょうど鳩尾の少し下。くっきりと打撲痕が残されている。
(痛みの原因はこれか……)
単に何かにぶつかっただけでは、こうはなるまい。
人為的に、強い力で打ち込まれなければできるような痕ではない。
一つの可能性が脳裏によぎった。もし、この可能性が真実であるのなら、早急に解決する必要がある。
師範として、大切にしているからこそ門下生の誰かがやったとは、悠も考えたくはなかった。だが、もしそうだとすれば……。早急に解決する責務がある。
「……怪我をしたのか?」
「え、えっと……ちょ、ちょっとある人に稽古をつけてもらったら怪我しちゃって」
「ある人? 俺以外に誰かに師事しているのか?」
「ぼ、僕は悠さんのようになりたいんです! だから、ちょっとでも強くなりたくて……」
「……なるほど」
「ご、ごめんなさい悠さん! 僕、勝手に他の人に師事したりなんかしちゃって……!」
「いや、そこはいい」
一先ず、いじめによるものではないとわかって悠は安堵の息をもらす。改めて、門下生による絆の固さを知れて、悠は一人頬を緩ませる。
それも束の間。思考は別のことへと切り替えられた。
小牧昴は、いったい誰に師事をしているのか。少なくとも、自己の知り合いでないことだけは確かだった。彼の鳩尾の打撲痕は、刺突によってつけられたもの。このことから悠の脳内では二人の御剣姫守が可能性として浮上する。
鬼神丸国重と加州清光――二人は共に刺突を得意としていた。だが、この可能性が極めて薄いことを悠は同時に理解していた。
もしも本当に彼女達のどちらかであったなら、真っ先に自分に会いにくるはずだろうから。二人は……いや、新選組は未だに結城悠を勧誘することを諦めていないらしい。つい先日も、癇癪を起した小狐丸の書類を何気なしに繋ぎ合わせてみれば、結城悠の身柄を寄こせという書状だった。
逢うこともせず、自分に何の得もならないことをする方がありえない。
「昴、お前誰に教えを受けてるんだ?」
昴に強くなれると思わせるほどの相手に、興味を持たぬわけがない。門下生を取られた、などというお門違いな苦情を上げる気は一切ない。悠の心中にあるのは、強い好奇心である。
(一度手合わせしてみたいな)
道場経営者といっても、彼自身でさえもまた強くなれる術を探し求めている。
「それで? そいつの名前は? どこにいるんだ?」
「え、えっとその……じ、実はひ……」
「ひ?」
「飛燕丸って御剣姫守でして……」
「あいつに稽古をしてもらっていたのか」
「は、はい……あの、悠さんは飛燕丸さんと会ったことがあるんですか?」
「あぁ、一度だけ手合わせもしている」
「ど、どうでしたか!?」
随分な食いつきように小首をひねるも、特に気に留めることもなく悠は答える。
「正直言って、相手が俺との手合わせが初めてだったから勝てたな。次もう一度やったらどうなるか、なんとも言えない」
「そ、そうですか!」
まるで自分のことのように昴が喜んでいる。飛燕丸と小牧昴……両者の間にどのような関係があるかはわからない。
ただ、弟子の挙動を見やるに良好な関係を築けていることはわかった。
このまま馴れ初めも聞きたい悠であったが、他の門下生らが彼を待っている。道場の運営は、まだ終業時間にきていない。
好奇心にざわめく心を鎮めさせて、悠は修練を再開させる。指示に従って素振りを再開させた門下生らを横目にやりながら、悠は昴をひょいと抱きかかえた。ひゃっ、と短い悲鳴をもらして赤面する彼に、悠も頬を一瞬だけ赤らめる。
(本当に女の子にしか見えないよな……)
男の娘が好きという男性の言葉の意味を、なんとなくながらも理解してしまいそうになった己に喝を入れたところで、悠は昴を道場の隅まで運ぶと、そっと横たわらせた。
体調不良者を稽古に参加させるわけにはいくまい。帰らずというなら、せめて見学に徹してもらう。見ることで新たな学びや気付きを得られるのだ、損することは一つもない。
「今日は見学しろ昴。さすがに俺もけが人を稽古させるつもりはないぞ」
「で、でも……!」
「痛いのがなくなったら、またいつでも稽古すればいい。時間はまだあるんだ、焦って無理して、身体を壊す必要なんてないぞ」
「……わかりました」
「それでいい」
「たのもぉっ!!」
「ん? って……」
やたら活気ある来訪者かと思いきや、あまり関わりたくなかった相手であったものだから、たまらず嫌悪感を顔に出してしまった。向こうも同じだったようで、悠に鋭く向ける眼光には激しい憎悪が宿っている。
いったい何をしにきたのだろう、とわざわざ問う必要はあるまい。彼女がわざわざ憎んでいる男の元へやってくるなど、理由は一つしかない。そうわかってて、悠はあえて尋ねてやることにした。いわゆる様式美というやつである。
「一応聞く。今度は何の用だ?」
「ワタシと手合わせをする約束でしょう!? まさかアンタ、逃げる気じゃないでしょうね!?」
「いや憶えてる。でも、わざわざこの時間帯を狙ってくることはないだろ――とりあえず、今は勘弁してくれ」
「そういって逃げるつもりね!」
「おいおい、勘弁してくれ……」
「ま、また悠さんにやられにきたんですか!?」
「あぁっ!?」
昴が竹俣兼光に食って掛かった。ドスの効いた声と共に凄まれて、一瞬だけ慄くも負けじと正面から睨み返している。
今の彼を支えているのは、彼女に対する嫌悪感と言ってもよい。最初の出会いが最悪な形だっただけに、心底毛嫌いしている。
「何よアンタ。ワタシになんか文句でもあるの!?」
「お、大ありです! 今は悠さんに稽古を付けてもらってる時間です! 僕達はこの時間が何よりも大好きなんです……! それを邪魔しないでくれませんか!?」
「そんなのワタシの知ったことじゃないわよ! 邪魔するって言うんならアンタだって容赦しないんだから!」
「ひっ……!」
「おいいい加減に……!」
「こんなところにいた!!」
また新しく誰かがやってきて、真っ先に竹俣兼光が驚きに目を丸くしている。対照的に、悠は救世主が現れたとでも言いたげな表情で迎え入れた。
彼女を止められるのは、彼女が愛してやまない存在しか務められまい。
その存在――姫鶴一文字はというと、童顔を精いっぱいに使って怒りを表現している。いまいち迫力に欠けて、どちからというと小動物の威嚇に近しいものと悠は感じていた。
もっとも、竹俣兼光にとっては絶大的な効果を発揮した。がくがくと全身を戦慄かせて、ついには尻もちを突いてしまった。
がちがちという音は、彼女の歯が小刻みに打ち合っているもの。恐怖感を演出するにはこの上ない挙措ではあるが、やはりわからない。
(そこまでするほど怖いか?)
もう一度、姫鶴一文字をじっくりと見やる。
(……うん。全然怖くないな)
どこに恐れを抱いたのか、結局わからなかった。そこに竹俣兼光からの指摘が入る。
「アンタ何も感じないの!? あの姫お姉さまが怒ってるのよ!?」
「いや、それはわかるけど……」
「あの顔は、間違いないわ……! かつて購入した春画を読む前に鬼にバラバラにされて激昂した時の姫お姉さまと同じ顔……!!」
「いや怒る要素が随分と小さいな」
「小さい!? アンタ一度医者に罹った方がいいんじゃないの!?」
「酷い言われ様だな……」
「……竹ちゃん?」
怒りを露にしている姫鶴一文字が一歩、前に進んだ。短い悲鳴を上げて、竹俣兼光が倍の分後退る――やはり、姫鶴一文字のどこが怖いのかさっぱりわからなかった。
「竹ちゃん、ここはお兄様が運営している道場なのは知ってるよね?」
「もももも、もちろん知っています姫お姉さま!!」
「それじゃあどうして、お兄様を困らせるようなことをするのかな?」
「い、いえいえいえいえいえ! ワワワ、ワタシは決してそのようなことは考えていないですハイ!!」
「そう……? それじゃあ、どうすればいいかわかってるよね?」
「ももも、もちろんです姫お姉さま! そそそ、それではワタシはこれにてご機嫌よう!!」
電光石火の如く飛び出していった竹俣兼光に門下生らが唖然として見送る中、姫鶴一文字に深々と頭を下げられて悠は戸惑いを隠せない。
「申し訳ありませんお兄様。竹ちゃんが……竹俣兼光がお兄様に御迷惑をおかけして……」
「あ、いや、別に俺は気にしてないから大丈夫だ姫。それよりも、いいタイミングで来てくれたから正直助かった」
「お兄様のためなら姫はなんだってやります! それよりも、竹ちゃんがご迷惑したお詫びを是非させてください。姉として責任を取るのは当然のことですから」
「そこまで求めてないから気にするなよ」
「いいえそういうわけにはいきません!! ここは姫が身体で償って――」
「尚更いらないな――とにかく、助かった。それと、昴」
「は、はい!」
「あまり無茶しないでくれ。何かあったら親御さんに申し訳ない」
「ご、ごめんなさい悠さん……。で、でも僕! 僕悠さんが馬鹿にされるのが我慢できなかったんです」
どうもこの男の娘は、俺のことになると意気込みがちになりやすい。彼から神聖視されている、とは実に大袈裟で自意識過剰とばかり考えていたが、ここ最近の挙措があながちそうではないと物語っている気がしてならなかった。
悠は子犬のように落ち込んだ昴を見やった。
顔を俯かせて、袴をぎゅうっと強く握りしめている。ふと、足元に視線を落とせば、透明な雫が床を打っていた。反省しているのなら、悠もこれ以上言及する気はない。頭をそっと、撫でてやる。
「……その気持ちだけいただいておく――さぁ、修練を再開するぞ」
「……お兄様」
「……はぁ、わかったわかった。それじゃあ今日は特別だ、姫……少し俺の稽古相手をしてくれるか?」
「は、はい! そ、それじゃあまずはお布団を用意して……!」
「……やっぱり帰ってくれていいぞ? 寧ろ帰ってくれ」
「なんでですかぁ!!」
悲痛な叫び声を上げる姫鶴一文字を残して、悠は門下生の下へと戻った。
いそいそと布団要したけれど、どこから出したのかは、あえてツッコミを入れなかった。




