第八十一話:月下の剣士
第四部、ここに開幕!!
月明かりが二つの影を照らしていた。
人間と人非ざるモノ……彼らは一様に天空を見上げている。
漆黒の空に白い月がただひっそりと浮かんでいるだけ――否、誰かがいる。
白い月を背にした少女が、竹の上に立っていた。
手にした白刃がきらり、と輝いた。
不幸というものは唐突にやってくるという。
正しく、そうだ。少年はしんと静まり返った竹林を必死に駆けていた。
夜更けすぎ、しかも一人で出歩くことがどれだけ危険であるか知らないわけじゃない。それでもこうしているのには、自己の中に驕りがあったからと彼は認めねばならなかった。
高天原において真の英雄とは誰か。
こう尋ねると、男ならば決まってかの剣鬼のことを示す。
結城悠――男でありながら幾度と高天原を救った英雄。太刀を手に前線に立つ姿は勇ましく、惚れてしまったのは御剣姫守だけに留まらない。
同性であることも忘れて、彼に惚れた男がたくさんいる。各言う少年も、また然り。
彼と少しでもいたい。本来であれば異性に向けるべき感情を抱いてしまったことを恥じぬわけではないが、それでも自らの欲求を優先させて、彼に弟子入りを志願する者が後を絶えない。
こんなものは、もちろん口実だ。
どう足掻いたところで、剣鬼のようになろうなど夢のまた夢でしかないのだから。それでも真面目に取り組んでいたから、筋が良いとお墨付きを少年はもらっている。
それがいけなかった。
彼のように慢心することなく、精進する心掛けを持ってさえいれば、ひょっとするとこのような事態を招くこともなかったかもしれない。
「はぁ……はぁ……っ!」
死が、背後からどんどん迫ってくる。確実に死を告げる足音が恐怖を増長させる。
死にたくない。誰だっていい、誰か助けて。
少年の悲痛なる叫びも、夜の竹声にただ虚しく消えていくのみ。
誰も助けにこない。変えられない、耐えがたい現実にとうとう少年は声を荒げて泣き出した。
「あ……!」
足元が小石に取られた。少年は激しく身体を地面へと叩き付けられた。
全身が痛む。特に足が痛い。見ると膝の皮がべろりと向けて、程なくして血が流れ出た。
それが返って冷静さを与えるとは皮肉なことこの上ない。
今は逃げることだけに集中する。身体が動く内は少しでも遠くへ。足を引きずりながら、地面に点々と血の跡を残してでも、少年はただ前へと進んだ。戦う術も勇気もない彼には、そうすることしかできなかったから。
「ぐっ……」
痛みに彼の顔が引きつるも、歩みが決して止まることはない。
少年には希望があった。頑張って逃げてきた甲斐あって、もうすぐ町に着こうとしている。町にさえついてしまえば、確実に自己の命は保証されよう。いかに化物でも数多の御剣姫守を相手に敵うまい。
もうすぐだ。自身に言い聞かせて、少年は最後の力を振り絞った。荒れた自然道を、片足だけでぴょん、ぴょん、とさながら兎の如く移動することは安易ではない。少しでも体制が崩れれば、呆気なく地面に激突しよう。そうなれば最後だ、もはや助かる道はない。
少年は、跳び続けた。疲労の蓄積された脚に更なる負荷が加わっても、最期まで兎のように片足だけで鬼からの逃走を続けた。
だから――
「はーはっはっはっはっはっ! そこまで邪悪なる鬼よ!!」
――静寂をぶち破るあまりにもうるさい笑い声に、少年は思わず脚を止めてしまった。鬼でさえも困惑した様子が窺える。竹林が生い茂る中でも一番高い竹の上に、彼女はいた。どうしてそんな場所に立っているのか、夜中で人気がないとはいえ大声で笑うことに近所迷惑と考えたことがないのか、などなど。
色々と言及したいことが山々あった彼ではあるが、危機的状況を思い出したことで少年は平常心を取り戻せた。彼女の正体が何者であるかは、この際気にしないことにして、御剣姫守であれば鬼など赤子の手をひねるに等しい。
「あ、あれ……?」
ぼろぼろと、涙がこぼれていることに気付く。
それも、そっか。少年は納得して、嗚咽を小さく漏らす。恐怖から解放されたことへの安堵が、御されていた感情を一気に爆発させた。
少年は泣くのが抑えられない。涙で視界が潤んでしまっては、あの御剣姫守の活躍を確と見届けらないというのに……。
「おのれ悪鬼! か弱き男児を恐怖に陥れて泣かせるとは笑止千万――とうっ!」
すちゃ、という効果音付きで軽やかに着地した御剣姫守が得物に手を掛けた。
なんて長さだろう。すらりと鞘から抜き放たれた白刃に、少年は生津場をごくりと飲み込んだ。飾り気がない、されど特記すべきは刃の長さ。ざっと見ただけでも四尺(およそ百二十センチメートル)はある。彼の記憶にも、これほどの長さを誇る刀を目にしてきたことがないから、少年は不安を抱かずにはいられなかった。
「物干し竿みたい……」
もっと他にも例えられようがあったかもしれない、が少年にとって身近に例えられる物はこれしかない。
それはさておき。
長さがあるから、間合いの点ではあの御剣姫守が優勢に立てよう。
ただ、振り切れるのか。
恐らくは、可能であるはず。振れたとしても敵手を捉えられるかどうかは、また別の話ではあるが。
ともあれ、どちらとも既に殺る気だ。こうなってしまっては、もう彼女にすべてを託すしかない。少年は切に御剣姫守の勝利を願った。
どうか、どうかあの人に勝利をもたらしてください、と。
「物干し竿……う~ん、もうちょっとカッコいい名前がいいなぁ」
「あ、まだ名前決まってなかったんだ……」
「よしっ! それじゃあ私がこいつを倒すまでに君は何かカッコいい名前を考えておいて!」
「えぇ!? そ、そんなの無理だって!」
「報酬と思えば安いものでしょ! それじゃあよろしくねっ」
「う……うん。わかった、頑張ってみる……!」
一先ず、少年は御剣姫守と鬼との戦いを見守ることにした。この戦いで何か得られるかもしれない。
御剣姫守が先に動いた。
「よいしょおおおおっ!!」
およそ戦場には相応しくない掛け声と共に、唐竹斬りが鬼へと強襲した。
あっ、と少年は声をもらす。
大上段に構えていたものだから、余程自信があるのだろうと少年は察していた。
そもそも上段からの一撃は時に鉄をも断つ威力を発揮する、が反面攻撃が読まれやすい。上から攻撃がくるとわかっていればいくらでも対処できる。
それらを承知の上で、御剣姫守は実行した。
自信を持っているだけのことはある。素人の目ながらでも、かの一撃は必殺の域にある。超高速で大鉈あるいは大鉞が振り下ろされたと想像すれば、よりわかりやすいか。ともあれ、この初太刀で鬼は地に伏そう――当たっていれば、の話だが……。
人間であれば、間違いなく決していた。だが、相手は古の時代から天敵として人類に立ちはだかってきた怪物であることを忘れてはならない。
「あぁっ!」
鬼が紙一重で避けてしまった。
御剣姫守の白刃が虚しく空を斬る。この機を鬼が逃してくれるはずもなし。高らかに上げた鬼叫は自己の勝利を確信してか、未だ振り終えていない御剣姫守に鬼刃が迫る。
だが――
「え……?」
――目の前で不可思議なことが起きたものだから、少年は目を丸くせざるを得ない。
地に堕ちた白刃が、再び天に昇っている。月光を浴びていた銀光にも色鮮やかな赤が掛かっていた。いつの間にか、御剣姫守が鬼を斬っていた。
だが、いつの間に……。少年は此度の一戦を一寸たりとも見逃してはいなかった。目が乾きを訴えていることも忘れて終始その両目を開けっぱなしするほどに。故に見逃すなんてことは絶対にありえない。
ありえないのに、御剣姫守が切り上げた瞬間を少年は知らない。死人に口なし。元より人語が通じる相手ではないものの、真っ二つに斬られてしまっては尋ねようにも、もはや叶わない。
「はいおしまいっと――それで、何かカッコいい名前思いついた?」
御剣姫守がにかっと笑った。




