第零話:刃に散るは、黒に染まりし我が命
今更感満載の擬人化小説です。
雲ひとつない快晴。
広大な青空に浮かぶ太陽はぎらぎらと輝き、その陽光を背に鳥達は優雅に泳いでいる。
無音の道場を包み込む蝉の鳴き声が本格的な夏の訪れを告げる中、風鈴の音色が唯一の音楽として奏でられる。
実家の道場の軒先で、頬を伝う汗を拭いながらぼんやりと空を眺めていると。
「ちょっと掃除サボって休憩なんていいご身分ね」
「ご、ごめん。すぐに終わらせるから」
不意に、強い口調に凛とした顔立ちの女性が来た。
「まったく、ちょっと目を離すとすぐサボるんだから」
「だ、だってこんなに熱いとやる気も起きないだろ」
「いい訳しないの! さっさと終わらせてくれないと、一緒にご飯作れないじゃない!」
「わ、わかったって!」
あぁ、とても懐かしく温かい夢。
今はもう見ることのできない、結城悠の幸せの絶頂期。
何物にも変えられない、尊く平和な時間。何の変哲もなくて面白くもない。だからこそ当たり前だと思えた。
当たり前と思えることこそが本当の幸福だと悟ったと知人友人に言えば、若くして老けていると馬鹿にされた。
将来を誓い合った婚約者がいた。
親同士が勝手に決めた相手で、正式に面会を果たしたのもつい二週間前と日も浅い。
それでも俺は彼女を心から愛していた。家事は、まぁできないし攻撃的な口調でいつも話してくるし、古き良き日本の女性……大和撫子とはとても掛け離れている。
欠点しかないかもしれないが、たまに気遣ってくれる優しさを俺は知っていた。世間ではそれをツンデレと言う。
そんな彼女に、俺は生涯を賭して尽くそうと思った。
色々と我慢することはあったが、慣れさえすればかわいらしいものである。
そこで調子に乗ってからかえば、鉄拳が飛んできて殴られることも多々あったが。
ともあれ、結城悠は婚約者にすべてを捧げんとした。
それなのに。
――アンタは鬼よ! 鬼の子……だから私は最初っから嫌だったのよ――
もし、俺が彼女の犯行に気付かないふりをし続けていれば。
もし、俺があの時妥協して彼女を許していれば。
きっと、それは起こることはなかった。
未来は、迎えた結末よりもいい方向に進んでいた。
その日、白刃が朱色に染まった。
他人の血で刃を穢したのはこれで二回目となる。
鉛色の雲に覆われた空からしとしとと雨が降る。
視線を降ろせば、ぬかるんだ地面にできた赤い水溜りの中で横たわる最愛の女性。
誰かを斬ることへの躊躇いや罪悪感を、結城悠は生前より持ち合わせていない。
けれどもこの時、初めて罪悪感を味わった。
人を殺すことが、こんなにも怖くて苦しいものだったなんて知らなかった。
燃え盛る炎に包まれた道場。
四方は赤い炎に囲まれて逃げ場はない。
もっとも、これから死のうとしている俺に逃げる必要なんてなかった。
道場の中央で安からな顔を浮かべて眠っている最愛の亡骸を抱いて、生誕と共に歩んできた半身で俺は、自らの命を絶った。