8.みかんと留守番
「――それじゃ、本件は先方の出方次第、だな」
「はい。あとは……駆動装置の購入個数が決まれば」
進行役の部下がそう言って書面から顔を上げ、上座に座る鉾良と格子を見る。
「それは私が確認しておく」
格子がさっと言って、一礼して席を立ち、部屋から消える。入れ替わりにノックの音がして、若手の一人が三角巾を締めた頭をひょいっと出す。
「失礼しますッ、会議お疲れさんです。メシ用意できました」
「ああ、今終わった。すぐ行く」
鉾良が短く答え、解散の号令をかけると席を立つ。そのまま厨房に向かおうとして、「ちー起きろ、夕飯だぞ」という義維の声が背後から聞こえてきて振り返る。だらだらと小一時間続いた小難しい会議に飽きて義維の膝の上で舟をこいでいた千風が、
「むー……おなかへった」
寝起きの目をこすり、大きなあくびをした。
苦笑とともにそれを見つめていた鉾良と目が合う。
「りーだー、ごはんなに?」
「さぁな。俺もまだ知らん」鉾良は両手をポケットにつっこんで、部屋の出口に顔を向け、「ああ、なんか醤油のにおいがするな」
「お魚?」
「かもな」
「ちー、骨、嫌い!」
「義維に取ってもらってるだろ」
「待つの、長いー」
じたじたと足を揺らす千風に、
「ったく、ワガママなお嬢さんだな。いいから行くぞ」
思いっきり苦い笑みを浮かべる鉾良。
「用足してから……」
義維がそう言いかけて、ふと思い立ち、
「あの、リーダー、ちょっと任せてもいいですか」
千風を膝の上から下ろすと、鉾良のほうに押し出す。
「ああ。先食ってようぜ、ちー」
うなずいた鉾良が千風の手を引いて食卓に向かう。楽しげに鉾良と話す千風がすんなり去ったのを確認してから、義維は一人でトイレに向かった。
***
扉を開けるなり、目の前にふわりと良い匂いの湯気が立ち上る。鉾良の手を離した千風が、鼻をくんくんさせながら厨房に飛び込んでいく。
「なんだ、今日は別働組も帰ってきてるのか」
いつになく人数の多い食卓を鉾良が見回す。
「そうなんすよ、またふざけて床抜いて窓割ったらしく大家に出てけとか言われて、家捜し中っす」
「あいつらはいつまでもチンピラ気分が抜けないよなぁ」
まったく、と顔をしかめて小さくぼやいて、鉾良は端の椅子を引いて座った。毎食の習慣――厨房への偵察から戻ってきた千風が、異様な人数にやっと気づいて、見知らぬ男たちの姿にうろたえて、あわあわと周囲を見回して駆け出し、
「お、おかえ――お?」
隣の椅子を踏み台にして鉾良の膝にぴょんと飛び乗った。鉾良の右腕を引き寄せ、自分の前で扉のようにそっと閉めてから、小さな少女はほっと安堵の息をついた。
「びっくりしたな。これでいいか」
「ん」
鉾良の膝の上で満足そうにうなずく千風。そのつむじがあごのすぐ下でひょこひょこ動くのを、鉾良の目がじっと見下ろし。
「鉾良さん、クソ浮かれてますね」
「うるせぇ」
にやにや笑って隣に座った部下の顔を、もう片方の手のひらで乱暴に押しのける。
厨房から酒瓶を取ってきた別の一人が千風に気づいて足を止め、
「おお、良い椅子座ってんな、ちー」
「えへん!」
特等席にふんぞり返る千風を笑って、向かいに腰を下ろす。
「さて、食うか」
鉾良が箸を二膳取り、片方を千風に渡す。
「いただき、まぁす!」
天井に向けてびしりと箸を構えた千風が、並べられた皿をきょろりと見回し。
「あ、りーだー、あれ食べたい!」
「どれだ、これか?」
鉾良の手が、千風の視線の先にあった青い大皿を引き寄せる。
「んーん、その奥!」
「これ辛いぞ」
「からいの、好き!」
「いや、かなり辛いぞ」
なかなか取ろうとしない鉾良にじれて、千風は靴下を履いた足をじたばた揺らす。
「食べれるー!」
仕方ないな、と眉を下げた鉾良が、言われたとおりの皿を千風の前に持ってくる。少女は嬉々として箸で一切れつまんで口に入れるなり、
「ううー」
たちまち苦悶の声を上げて背を丸めてうずくまる。
「ほらな、言ったろ。ほら水」
「ううー」
コップの水を手渡す鉾良。
すぐ後ろに座っていた二人組がそわそわと寄ってくる。
「あのー……リーダー、ちーと話してもいいすか」
結局手元の料理を美味しそうに食べている千風のつむじを一度見下ろし、鉾良は怪訝な顔をして二人を見る。
「別にいいんじゃないのか。ていうか、本人ここにいるのになんで俺に聞くんだ」
「いやー……なんつーか、なんでしょうね……」
モゴモゴ言いながらスキンヘッドを掻く穂足。隣の紀水が鉾良の承諾を得て嬉しそうな顔をして、千風の目線の高さまで身をかがめ、
「わわわ」
それに気づいた千風が、箸を放り出して鉾良の腕を引き寄せぎゅっと丸くなる。
「お、怖ぇか」と紀水が動きを止める。
「まじっすかー残念」と穂足が肩を落とす。
両腕をつかまれた鉾良は強制的に食事を中断され、じっと千風の頭を見下ろして答える。
「まぁでも、泣かないから大丈夫じゃないのか。三馬鹿は長いこと泣かれてたぞ」
「あいつらと一緒にしないでくださいよ……」
手の焼ける後輩を引き合いに出されて顔をしかめた紀水は、リベンジとばかりに意気込んで千風に声をかける。
「もしもーし、ちーさーん」
「怖くないぞー」
そのうしろから、穂足がひらひらと手を振る。
鉾良の腕にしがみついて、二人をじっと見つめていた千風が急に、
「こわく、ない!」
鉾良の腕を押し開けて、ひょっこりと顔を出す。
「お、出てきた」
ぱっと顔を輝かせる二人に、ああ、と呟いた鉾良が、ようやく自由になった手で卵焼きをつまみながらうなずく。
「そーだな。怖くはないな。その気になりゃあ、ちーがお前らの脳天ぶち抜くほうが速いもんな」
「んんん?」
千風が不思議そうに鉾良を見上げ。
「やめてくださいよ縁起でもない」
穂足は降参というように両手を挙げた。
紀水が千風にニカッと笑いかけ、
「頭ちっせー。あ、頭なでたら嫌か?」
紀水の言葉にきょとんとした千風が、こてっと首を傾げる。
「いいけど、貸し、だよ!」
「まじかっ」
まさかの返答に仰天する二人。周囲から、わはは、と笑い声があがる。
「しっかりしてんな千風」
「お高くとまりやがって」
千風が鉾良を見上げて、笑顔で言う。
「あのねー、みゃじがそう言えって!」
「なるほど。さすが宮地さん」
わいわい盛り上がる食卓の、鉾良のはす向かいの椅子が引かれ、格子が座った。
「おう、お先に」と鉾良。
「はい」と格子。
白米をかきこんでいる鉾良の膝の上で、すっかり打ち解けて皆と談笑している千風を眺めて、格子が感心したように言う。
「成長ですね」
「単に慣れだろ」
「そうっすよねー」通りがかりの給仕の若手がそう言って、懐かしそうな顔をする。「最初のころは義維さんだけにべったりで、俺らが近づくとぴーぴー泣いちまってさぁ」
聞きつけた千風がむっとした顔で振り向く。
「ちー泣いてない!」
「いやいや、号泣だっただろうが」
むーっとして給仕の男から背をそむけ、
「いてて、おい何で俺なんだ」
鉾良の胸板をどかどかと遠慮なく叩く。
ふと穂足が思いついて言う。
「そういや、ちー、お前って何歳?」
「10!」
「10か。リーダー、こいつ、日曜学校くらい通わせてやったほうが良くないすか。……まぁ、俺ほとんどバックレてたけど」
「俺も俺も」
鉾良がなるほどな、とうなずいて千風に聞く。
「ちー、行ったことあるか?」
「ん?」
「日曜に教会行って、文字とか読みとか習うんだよ」
「あ。ある!」
「おお」
「でもねー、行っちゃだめって!」
「あん? なんでよ」
「立てこもるから!」
「ああ……」
「かっこーのえじきだから!」
非力な子どもたちを人質にして教会に立てこもり、主義主張を訴える。どこぞの子息でも含まれていれば御の字。一時期、爆発的に流行し、区域内外を問わず今も頻繁に起こる犯罪の一つだ。
「そうだな、ちー危ないもんなぁ」
「ううん、ちがうよ。ちーあぶなくない」
「ん?」
「いっつも、ちーだけ生き残るの。でもね、治安部隊に見つかっちゃダメなんだよ」
「ああ……」
けろりと当然のことのように言う千風に、そっちか、と遠い目で鉾良がぼやく。
***
「入んないんすか、冷めますよ?」
賑やかな食卓の出入り口にじっと突っ立っているだけの義維に、配膳中の部下の一人が不思議そうに問いかける。
「大丈夫そうだからな」
そう答えて指さした先には、鉾良の膝の上で笑い転げている千風。
義維はその場で踵を返し、
「リーダーに伝えておいてくれ。――走ってくる」
「あ、はい」
玄関に向かう。
***
ふと鉾良が顔を上げる。
「遅いな、義維」
「あ、さっき走りに行くって言ってました」
部下の一人が答えるのに、鉾良が眉を寄せる。
「こんな時間に?」
「大丈夫そうだから、とかなんとか言ってましたけど」
千風が鉾良の腕の間からひょこっと頭を突き出して、くるりと目玉を回す。
「ぎぃちゃん、走ってどこ行ったの?」
「あー、どこってことはないよ。そこらへんぐるぐる回ってんだろ」
鉾良の答えに、千風はものすごく首をかしげて。
「ふぅーん?」
「大人は非効率的だよなあ」
鉾良の指が、炒った銀杏をつまんで口に放り込む。
厨房に行って戻ってきた穂足が椅子を引いて座るのに、千風が身を乗り出いて目を輝かせる。
「なにそれなにそれ!」
穂足の手が、水滴の付いた緑色の丸い瓶を揺らす。
「炭酸水。飲むか?」
「炭酸飲まして大丈夫すかね」
鉾良と一緒に銀杏をつまんでいた紀水が首を傾げる。千風の目が、ガラス越しに這い上がる緑色の気泡をじいっと見つめ。
「しゅわしゅわは、ゆっくり飲むんだよ!」
「おお、なんだ知ってんじゃん」
カシュ、と鳴るフタの開閉音に、少女はわくわくした顔で両手を突き出す。穂足はニヤリと笑ってそこに瓶を置く。
「おひとつどーぞ」
「ありがと!」
元気よく言ってから、千風は真剣なまなざしで瓶を見つめ、そっと傾け。
「んんー!」
「美味いか?」
「ううん、鼻がぁ」
瓶を鉾良に任せた千風は、両手で鼻を押さえて、ぎゅうと目をつぶる。その様子を紀水がげらげら笑う。
「そうな、ツンとするな」
「おい、もういいのか」と鉾良。
「ん」
あれだけ騒いでいたのに一口で満足したらしい千風は、あっさり瓶に背を向けて、もそもそと鉾良の上着の中に潜っていこうとする。
「こらこら、どこ行く」
「ひみつきちー」
「んなところにはねぇよ、迷子め」
中のシャツもまくりあげたところで、「寒い」と鉾良に止められる。
千風は鉾良の腹部を大公開したまま、きょろきょろと見回し。
「りーだー、イレズミないの?」
「腹にはないよ、ここだけ」
鉾良がシャツの袖を引いて、左の手首を見せる。
「みして!」
千風が猫のようにその手に飛びついて、まじまじと顔を近づける。
「葉っぱ!」
手首を這うように描かれたツタを小さい指がなぞると、くすぐったい、と遠ざけられる。
***
「おみかん、どーぞっ」
「千風、部屋戻るか」
戻ってきた義維が汗を拭きつつ声をかけると、千風はキッと鋭い目をして振り返り。
「いま、ちー忙しい!」
きゃんと吼えるように甲高く答えた。
「そうか?」と義維。
「おみかん配ってるのっ、いそがしい!」
「……そうか」
義維の目が問いかけるように鉾良に向き、
「食べるより配るほうが気に入ったらしいぞ」
鉾良は手元の皿に置き去りにされている、剥きかけのみかんを指さす。
紀水が千風を手招きで呼び寄せて聞く。
「自分で食わなくていいのか?」
千風はにわかに表情を曇らせると、とても嫌そうな顔をして。
「あのね、このねー、白のすじすじが嫌ーい」
「剥いてやろうか、ちー」
別の一人がそう声をかけるのに、
「ほんとう?!」
「オイ甘やかすな、自分でできるだろ」と鉾良。
すかさず千風が頬をふくらませて振り返る。
「りーだーいじわる!」
「ちがうぞ」
まあまあ、と格子がなだめるように割って入って、千風に残りのみかんを握らせる。
「こーし、おみかん、もうない?」
「ええ、これで最後です」
すべてのみかんを配り終えた千風は、それでも義維のところには来ないで、なにもないところにしゃがみこんで一人遊びを始める。
拗ねてるのか、と小さく呟いた義維は、椅子を引いて座り、千風を何度か呼んだ。
ようやく振り返った千風に、
「ただいま」
穏やかに言って、自身の膝をぽんぽんと叩く。
千風は堪えきれない様子で、じわじわと笑顔を浮かべ、
「うー!」
堰を切ったようにわめくと、義維の膝に飛び込んで、その腹部にぎゅうとしがみついた。
作業BGM:RADWIMPS