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32.噂話


そのあと。


「やーっぱ若い奴連れてくっとオバちゃんウケが違うねぇ」

黒シャツに黒いスーツ、胸元に白のチーフ。それに真っ赤な革靴を履いた宮地が、げらげら笑って鉾良の元へと寄ってきた。

テーブル代わりの古びた樽にドンと肘を置く。芳醇な香り漂うワイングラスをぐいっと煽る。ぷはあ、と酒臭い息をのんきに吐き出し。

「……『列強』が、『摩天(まてん)の狙撃手』と組んだ」

喧騒の中から漏れ聞こえたひとつの声に、鉾良はコートの下で人知れずこぶしを固める。

「まさか、リトロに呼び寄せたのもあいつ?」と別の声。

「いや、元々ミズチに縁があったって聞いたぜ。それに、『摩天』はミズチの顧客じゃないだろ」

鉾良は口を閉ざし、短くなった煙草をガラス製の灰皿に押し付けて消すと、銀皿に盛られたツヤツヤの黒オリーブを一粒摘んで口に放り込む。

千鳥足の宮地は、ワイングラスを回しながらふらりと別の席へ歩いていく。

「お前らまだそんなん騒いでるのか」

しわがれた声が鼻で笑う。

「信頼できる情報屋から……」

「カモられてんだよ。あれは鳩の、負け惜しみの作り話」

「そんな超人が都合良く居てたまるか。なぁ?」

その会話は、盛り上がりを増す喧騒に掻き消されていく。

出入り口近くから鉾良を呼ぶ声。

鉾良は足元の荷物を持って宮地のところに歩み寄り、

「宮地さん、ありがとうございました」

「はー? なによ、そんなに美味い酒でもあった?」

赤ら顔の宮地が鉾良の尻を蹴り飛ばす。


***


鉾良は帰宅するなりコートを脱いで足早に廊下を抜ける。広間で三馬鹿とチャンバラ遊びをしていた少女を手招き、駆け寄ってきた千風に目線を合わせてしゃがみこむ。

「ちー、『摩天の狙撃手』って知ってるか」

「あい!」

元気よく挙手したままぴたりと固まる千風に、鉾良は眉を下げる。

「……やっぱり、ちーのことなのか?」

「ちーと、おとうさん! ちーのことはね、『まてんのせんぷう』!」

「旋風?」

「う! ちっぴーが詳しいよ!」

そう言いながら千風は端末をぽちぽちと操作して、

「あい!」

と鉾良に突き出す。

「……もしもし、あの、」

『そろそろ来る頃かと思っていたよ』

「……え?」

『おおかた、どっかの酒場で噂話でも聞いたんだろう?』

確信めいた口調でとっとと話を進める鳥巣に、鉾良は薄気味悪そうな顔をしながらも肯定する。

鳥巣はもったいぶったように咳払いをひとつしてから。


――『摩天の狙撃手(SSS)』、天祭 十堂。


その存在は、一部の有力ロウシン上層部でのトップシークレット。

『まずね、十堂の存在自体が単なる噂レベルなんだよ。はっきり事実だと知ってるやつは……せいぜい数十人ってところかな。区域内の全人口の一割も満たない』

鳥巣のその言葉に、鉾良は鬼藤の屋敷を訪れたときのことを思い出す。

『そして、それを知る者の中でも、千風さんの存在はもう都市伝説の域だけどね』と前置きしてから。


隠されし狙撃手の技を受け継ぐ、唯一の弟子。

通常は師と同じ名で呼ばれることが多いが、十堂と同じ名を冠すことを嫌った一部の熱狂的なファンが、そう呼び始めたとされる。


――『摩天の旋風(SSWW)』。


それはあたかも、天を掠めるような狙撃。

類まれなる鳥瞰。

遥か上空から放たれる、正確無比な弾道。


『今回の噂、回り方によっては、今後千風さんを探す輩も出てくるかもね』

不穏な予想を一方的に言い残して、鳥巣との通話はあっけなく切れた。

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