26.区域外の少年
停まったばかりのスクールバスから、一人の少年がストンと降り立った。たくさんの缶バッチの付いたボディバッグを背負いなおし、目の前の大通りを見渡す。走り出したバスに手を振って、更に遠方から通学している友人たちを見送り、それから、自宅の方向を確認して、
「ええと、こっちか」
スニーカーを履いた足を踏み出し、歩き出した。
棒のように細い両足を地面に投げ出した老いぼれの浮浪者が、少年に向かってコインの入った錆びた缶を突き出し、カラカラと鳴らす。少年は小さく会釈し、老人のほうを見ないようにしてその前を足早に通り過ぎる。老人はすぐに次の通行人に視線を移した。
少年は会釈のせいでずりさがった分厚いレンズのメガネを元の位置に押し戻して、コンクリート壁の角を曲がり――
「あ」
小さく呟く。
途端、グラフィティだらけの壁に寄りかかって騒いでいた、ド派手な集団と目が合った。
――まずい、と思う前に、
「来たぜ、一匹。学生サンだ」
ニヤニヤ笑う彼らが一斉に少年に近寄ってきて、あっという間に取り囲む。
正面に立ちはだかる長身の青年が、くちゃくちゃとガムを噛み鳴らしながら、濁った目で少年を見下ろす。
「――で?」
上から威圧するような声。少年の薄い肩がびくりと震える。そのおびえた様子に、格好の獲物だと気づいた者たちから次々に笑みを深める。
ガァン、と少年のすぐ横の壁に、ゴツいブーツがぶち当たる。
またたく間に青ざめた少年がおずおずと差し出した小さな財布を、中央の青年がひったくり、
「ち」
予想より少ない紙幣を全て抜き取った。
その財布をぼとりと地面に落とし。
「で……予備は?」
サングラスをかけた別の男が言うのに、少年はぐっと泣きそうな顔になる。
ぴゅう、と口笛を鳴らす中央の青年。
「なるほどなぁ」
別の男が刺青まみれの腕を伸ばし、少年の背負うボディバッグを乱暴に引っつかんだ。
「っ、だ、出しますっ」
少年は上ずった声で叫んで、ジーンズのコインポケットからごく薄手の革財布を取り出した。
「ははっ」
チョロいな、と上機嫌に笑ったサングラスの男がそれを開かせ、四つ折にされた数枚の紙幣をすべて、マネークリップから引き抜いた。
「じゃーな」
わいわい言いながら去っていくド派手な集団を、少年は壁に張り付いたまま、なすすべもなく見送る。
……こういうことをなるべく避けるため、少年の通う学校のスクールバスは、走るルートと時間を日によってランダムに変更しているのだが。
それでも、週に一回くらいはこういう目に遭う。
無傷で済んだことにフゥと安堵の息を吐いて、少年はそこから気落ちした足取りでしばらく歩き、自宅の呼び鈴を鳴らした。
「ただいまー」
少年が言うなり、ばたばたと軽い足音が駆け寄ってきて、内側から鍵の開く音。
「兄ちゃん、宿題おしえて! さんすう!」
「ああうん、あとでね」
少年はスニーカーを脱ぎつつ、飛びついてくる小さな頭にぽんと手を置く。
「あ、お兄ちゃん、帰ってきたんなら塩と油、買ってきてー」
リビングから聞こえてきた能天気な母親の声に、
「また? ……最近また物騒な事件が増えてるから買い物は昼までに済ませるように、って連絡、回ってきてたよね」
少年は答えながら自室へと向かう。その後ろからぴょんぴょんと飛び跳ねながら弟がついてくる。
「そーなんだけど、買い忘れちゃって。ついででしょ?」
「わかったよ」
通学用のボディバッグをベッドの横に下ろし、通塾用の黒いトートバッグに中身を詰め換えていく。
一度母親にリビングに呼ばれて元気良く走っていった弟が、
「あい、お兄ちゃん」
おつかい用の財布を兄に手渡す。
「ありがと」
受け取った財布をトートバッグの底に入れて、そのまま再び玄関に向かう少年を、「あら」とリビングから顔を出した母親が呼び止める。
「早くない? 夕飯は?」
「いつもの友達となんか食べてから行くってことになったから」
「あらそう。気をつけてね」
「うん。行ってきます」
玄関先にまで見送りに出てきてくれた弟にばいばいと手を振って、少年は家を出た。
通りを行きかう自動車をぼんやりと眺めつつ――東の方角に足を向ける。
通っている塾のある地区とは、間逆の方角に。
***
高圧電流の流れる有刺鉄線が、少年の足元にとげとげした影を落とす。すぐ右側にずっと続く分厚いコンクリート壁は、とある筋の情報によると鉄筋入りで、通常の防護壁の5倍近い分厚さがあるらしい。
少年はその壁の途切れ目、武骨な鉄格子がガッチリと嵌め込まれた、まるで監獄かなにかのような巨大な門に近づいた。
門の脇に控える分界制約の男が、近寄ってきた軽装の少年に気づいて、持っていた機関銃を抱えなおして言う。
「こっから先は制限区域だ。死にたくなけりゃ、変な憧れは捨てておとなしく家に帰り……って、なんだ、ココロ。お前か」
「境界警備、お疲れさま」
小さく微笑んで頭をさげる礼儀正しい少年に、
「いっつもドキッとしちまうんだよなぁ」
少年の、どう見てもただの健全な学生にしか見えない素朴な格好を見て苦笑する、なじみの治安部隊隊員。
近隣に住む思春期真っ只中の学生が、衝動的に自棄を起こして制限区域に飛び込もうとすることはよくある。それを止めるのも分界制約の仕事の一つだ。
「もう少しそれっぽい身なりにしたらどうだ」
「そしたら学校とかで目立っちゃうよ。さっきもカツアゲ遭ったし」
「はは。お前相手にカツアゲとはなぁ」
人の不幸をげらげらと何の遠慮もなく笑い飛ばす男に、少年はため息を吐いて両肩を落とす。
男はなおも笑いながら、門の脇に備え付けられたテンキーのカバーをカシャンと開き、18桁の暗証番号を手早く入力すると、
「ほらよ」
ぎぎぎ、と軋んだ音を立てて門が開く。
「ありがとう。あ、帰りは7時くらいになりそう」
たいていの人間が武装しつつもためらいながら通る門を平然とした足取りで通り抜けて、家の玄関か何かのように律儀に戻ってくる時間を告げる変わり者の通行者に、男はハイヨと軽い返事をして、早く行けとばかりに手を振った。
そしておそらく彼は、今日もきっかり時間通りに、五体満足で戻ってくるのだろう。
本国随一物騒な隔離区域を単身、丸腰でうろついて。
「ただいま」、と、けろりとした顔をして。




