15.隠居とおにおこ(後編)
全員を包む一瞬の静寂。
そののち。
「き、き、キサキ……?!」
「はあ? ……まさか、お、お前が?!」
息を呑んだ山暮と瀬前の視線が、同時にサキを凝視する。
あるとき突然ふらっと現れ、ただサキとだけ名乗ってここに居ついた人懐っこい男は、尚ものんびりとした様子でソファに座ったまま、気だるげな目を海江に向ける。
「あーあ、見つかっちゃった。おれ、お忍び中なんだから、名前言わないでくださいよカイエ姉さん」
男の手がぼりぼりと頭を掻く。脱色を繰り返した艶のない髪が、乱暴に掻き回されて四方に跳ねる。
「は、――はああ?!」
悲鳴じみた驚きの声を上げる瀬前。
海江がうるさそうに顔をしかめる。
「お前のことだ、下らんチンピラにでも絡まれて動けなくなってるのかと思えば。なんだ? 随分とくつろいだ様子じゃないか」
「えぇ、まあね」
「この放浪癖が。せめて端末を携帯しろとあれほど」
海江から大きく振りかぶって投げつけられたのは、最新鋭の最高級端末。あくびをしながら片手でぱしんと受け取ったサキ――木咲は、画面を見るなり目を丸くする。
「おお、100件超えてる」
「当たり前だ。今の状況、分かってるだろうな」
「はい、一応は。でもなあ。なにもこんな、掃討作戦の真っ最中に呼びに来なくても」
騒々しい戦闘音の聞こえてくる窓の方角を、端末の角で示す木咲。
「働け、この隠居じじいが」
「ひどい」
不満そうに言いながらも、木咲は何が楽しいのかくつくつと笑った。組んでいた足を下ろして、端末をしまうと、緩慢な動きでソファから立ち上がる。その動きを海江が睨みつけながら追い、
「それと。なんだその格好は、寝起きか? しゃきっとせんか」
「はぁ、すんません」
木咲は目を細めてふんわり笑って、無造作に前髪を掻き上げた。それから、足元に置いてあった紙袋から取り出した黒いカッターシャツを羽織って、襟を立てる。
それだけで――驚くほど見違える。
左の襟元で、鹿の角を模した形の紋が光る。それを見とめた山暮が、喉の奥から引きつった声を出す。
木咲はのんびりとした口笛を吹きつつ、その場で数回、屈伸をしたあと、後頭部で手を組んで、
「……あ。よう、天祭さん」
思い出したように横を見下ろす。穏やかな亜麻色の瞳が、傍らのカウチで足を揺らす、小さな少女のくったくのない笑顔を映す。
「よーう!」
千風が嬉しそうに返事をする。いつものように仲良く話したくてそわそわしながらも黙っていたことを察した木咲が、悪かったね、と苦笑する。
「ごいんきょ、みっけ! ちー、かくれんぼ得意!」
カウチの上で、誇らしげにふんぞりかえる千風。
「んー、天祭さんに頼まれちゃうとなー」
苦笑しつつ残念そうに顔面を押さえる木咲。
「ううん、ちっぴーだよ! ちっぴーがお迎えいってって!」
「あぁートリスくんかー」
屋外から爆音。建屋が揺れる。
その音に振り向いた木咲は襟首を掻いてから、部下たちの顔ぶれをざっと確認し、俊敏に近づいた一人から黒い上着を受け取り袖を通す。同じく真っ黒の手袋をはめ、
「さて、それじゃ、」
つかつかと靴音を鳴らして窓際に歩み寄ると、深く沈めた腰の前で、両手の拳を握り。
「――いってみようか」
窓のすぐ外に複数の黒い影が躍る。直後、硝子の割れるけたたましい音。それと同時に屋内に飛び込んできた複数人の黒服に向かって、身軽に駆け出した木咲が迷いなくつっこんでいく。追って、数人の部下が続く。
爆音と咆哮が轟き、瓦礫と粉塵が飛び散る。
「な、なんなんだ……!」
唐突に始まったすさまじい戦闘に、ソファの影にしゃがんだ瀬前が混乱しきった顔でわめく。
「あ、あいつ……」
山暮は柱にしがみつきながら、とめどなく聞こえてくる爆音の渦中にいるであろう男の、いつものへらへら顔をしきりに思い出していた。
まさか、だが、やはり、
鹿の海江相手に気安い口を利き、鹿の紋を襟に付けたあいつは、鹿場の一員なのか、本物の木咲なのかと。
ようやくその事実を飲みこ――めはしないが、そう思わざるをえない光景が、割れた窓の先に広がっている。
崩れ落ちる敵側の一人の体を死角に使って、銃弾をかいくぐった木咲の足が、すぱんと一人の顎を蹴り上げる。その手から滑り落ちるライフルを掴んで身を翻し、木咲に照準を向けていた後方の一人を撃ち抜く。左右から飛びかかってきた二人を銃底で殴打する。
右側の男がよろめいてベランダの柵によりかかるのを、部下の一人が階下へと蹴り落とした。
直後、そこに別の男がぶつかる。ベランダの柵がめこりと不穏な音を立て、
「まとめて――落ちろ!!」
駆け寄った巨体の男が、ためらいのない掌底突き。
「ぐわああ!!」
右肩を押さえた男が、折れた柵ごと落ちていく。
もはや硝子のほぼ残っていない窓枠に、たらりと鮮血が流れる。
「やっべぇ……」
山暮の呆然としたつぶやき。
そこへ、うなるような重低音が近づいてくる。
突如吹き込んだ生ぬるい風が、束ねてあったカーテンをぶわりと広げ、空薬莢や建材の破片が床を滑る。
鹿の紋がペイントされたティルトローター機が、上方からぬっと姿を現した。重いモーター音を鳴らしてベランダぎりぎりに近接し、ホバリングし続けるそれに、木咲が軽快な足音を鳴らして駆け寄る。
「じゃっ、姉さん、下行ってきます」
「早く行け」
海江のにべもない返事に嬉しそうな顔をした木咲は、開いた扉からその航空機に飛び乗った。部下数名を乗せるなり、飛び立つ。
***
数分後。
「……やはり先導がキサキ一人では手こずるか。なかなかに広範になってきたな」
そう呟いて双眼鏡を下ろした海江は、すぐ近くのカウチで未だのんびりと茶をすすっている千風をちらりと見下ろし。
「加勢を依頼する、天祭」
「うーん」
可愛らしく首を傾げて珍しく渋る千風に、ああと海江はうなずく。
「あちらも貴女の顧客か」
「うん」
海江は少し考えるように宙に目線を投げてから、述べた。
「なら、500万出そう。あちら側につかないでいてくれさえすればいい」
「うん」
千風がうなずいたことを確認すると、海江は目を閉じさっと頭を下げた。
「心強い。感謝する」
「……は、はあ……?」
瀬前はたった今、目の前で交わされた、まるでままごとのようなぶっとんだ交渉に固まる。
少女がずずっと茶をすする。ふぅ、と幸せそうに息を吐いたあと。
「あ、うみちゃ、今、おはなししてもいい?」
「いいぞ。貴女がアイツを見つけてくれたから、私の出番は当分なさそうだ」
女の答えに、千風はぱあっと顔を輝かせて。
「あのとりさん、なんて名前?」
千風の指さす方向を海江の目が追い、
「鳥?」
鋭い視線を向けられて、ひっ、と瀬前は肩をすくめて両手を挙げた。
「いないぞ、どこだ」
「せぜんの、首のうしろ!」
「セゼン?」
「じ、自分です! これ……鳳凰っす!」
あわあわと裏返った声をあげて瀬前がうなじを見せる。千風が首を傾げる。
「ほうお?」
「鳳凰。伝説上の鳥だよ。ああ、確かウチにも何人か居たな。まだ生きてたか?」
海江の問いに、すぐ後ろに控えていたフルフェイスの男がうなずいて答える。
「ええ、ここには居ませんが。一人は西拠点制圧のほうに出ております。もう一人は屋敷の警護に」
「くーちゃん?」
「いえ、あれの刺青は孔雀ですね」
男の回答に、ぱあっと顔を輝かせる千風。
「ちー、クジャク知ってる! 見たことあるよ!」
「そうですか」
目の前で交わされている毒気のない会話と、すぐ外から断続的に聞こえる物騒な物音とのちぐはぐさについていけず、瀬前と山暮は固まるしかない。
海江の端末が着信を知らせる。
「キサキ、終わったか?」
『いやぁ、まだ半分ってとこです。さすがにこれ相手にこんだけだと厳しいです』
よっと、と何かを避けるような声が聞こえてから、木咲が続ける。
『ねぇカイエ姉さん、これ煽れるだけ煽ったっしょ。なにもこんなとこまでぞろぞろ連れて来なくたっていいのに』
「それを片付けるのがお前の仕事だろう」
『ムチャぶりだなぁ』
電話口の声はけらけらと楽しげに笑う。戦場の真っ只中にいるはずなのにもかかわらず、だ。
「隊長どもは今頃お前を拝んでるだろうよ」
『そりゃそーですよ、あっち相当暇でしょ、これ』
「ああ、もうじきこちらに――盗車部隊が合流できるくらいにはな」
その言葉に顔を上げた千風が、ぴょんとカウチから下りて、硝子の散らばる窓辺にとことこと歩み寄る。
「わ、いっぱい!」
見下ろした先にいた、ツナギ姿の男たちに歓声を上げる。
「ああ、先月二部隊ほど増員してな」と海江。
「ちー、あれ見るの好き! 楽しい」
「そうか」
『遠路はるばるご苦労さんです』と木咲。
「誰のせいだ誰の」と海江。
『おれなしでおれと同じ動きのできないカイエ姉さんの?』
「……」
険しい顔をしていた海江が、その言葉にふと真顔になる。
『わ、すんません。つい本音が』
「……そこまで機嫌を損ねていたとは思わなかった」
『え、いやいやぁー』
「重々承知した。不平不満は後にしてくれ」
『ええ、もちろん』
通話を切るなり、
「……たく、ほんとにあの男は……」
肝を冷やした、と悔しげにぼやく海江。
「ねぇねぇ、うみちゃ! あれなに?」
そのまま窓際で戦況を眺めていた千風がはしゃいだ声で海江を呼ぶ。
「ん? 貴女にとっては見慣れたものしかないだ……」
ごつごつとブーツを鳴らして、無邪気に飛び跳ねる小さな背中に歩み寄る海江。千風の頭の上から眼下を見るなり、さっと顔色を変え。
「おい! 至急、右翼側に一斉砲撃!」
その指示に、部下が慌てて無線を手に取る。その金髪頭があわあわと動くのを目をしばたたかせて眺めていた千風は、ゆっくりと首を回してかたわらの海江を見上げ。
「……ゆっちゃ、ダメだった?」
海江は口角を上げてうなずいた。
「私は感謝しているが、おそらくな。貴女が知らないと言うことは十中八九、あちらさんのとっておきの秘策だったんだろうよ」
「ほーう」
感心したような歓声をあげた千風の後ろから、海江の部下が言う。
「捕捉しました。SAO社製、最新式の遠隔爆撃部隊ですね」
「早急に潰せ」
「はい、直ちに」
***
静まった戦場跡をざっと見渡し、
「終わったか」
当然とばかりに海江が呟いて、手元の時計に視線を落とす。
「はー、やれやれ」
半壊状態の扉を蹴破って、くたびれた様子で後頭部を掻きながら、木咲が部屋に戻ってくる。
――コトン、と。
瀬前のすぐ足元で、硬質な音。
何の気なしに目を向けた瀬前の視界に、床に転がる空っぽの湯飲みが見えた。
少し前までそれを両手で持っていた謎の少女の姿は――いつの間にか木咲のすぐ前にある。
――木咲と少女が、互いに至近距離で銃口を向けあって、ぴたりと止まる。
「な、何を……」
その動きを全く目で追えなかった瀬前と山暮が呆然と呟くのをよそに、
「うーん」木咲は不満そうな顔で銃口を下ろす。「なかなかに、難しいね」
コクリとうなずいた千風も、唇をとがらせた表情のまま、銃をしまう。
そんな二人に、海江が眉間をもんで顔をしかめる。
「おい、こんなところで遊ぶな。無駄玉を使うな」
「いやぁ、腕試しっすよ。定期的にやっとかないとね」
悪びれない木咲。
「今やるなと言ってるんだ阿呆。天祭、貴女もだ。こいつの冗談に付き合ってやる必要などない」
海江に鋭い目を向けられた千風は、しゅんとした顔で小さな返事をする。
「いやでも、なかなかいいんじゃないの? これ」
木咲の手が、先ほど戦場で拾ってきたらしい、見慣れない銃をくるりと回す。海江が盛大にまなじりを吊り上げる。
「曲がりなりにも鹿の一員が乞食まがいの」
「いやいや、使えるもんは使わないと。もったないっすよ」
「わ、それー!」
「千風さん知ってんの? これ」
「ん!」
「そんな貴女におすそわけ」
柔和な笑みを浮かべた木咲が、尻ポケットから同一の銃を取り出してぽいと千風に手渡す。
「わぁい!」
「……おい、」
眉間にしわをきざむ海江の説教をさえぎるように、
「見てみてー! これね!」
がしゃこ、と少女の手元で盛大な音がして。
「おお、仕込みナイフだ」
歓声をあげる木咲の前で、鋭利な短刀がぎらりと光る。少女はそれをくるりと反転させて、
「あとねーここにね、はばきにいうとね、お酒のネジネジ!」
「幅木兄弟に言うと? お酒の、ネジネジ?」
首をかしげる木咲にコクンとうなずく千風。
「赤いお酒の、木の、もこもこのフタ!」
「あ、ワインコルクのスクリューオープナー?」
「ん!」
「いいね。付けてもらおうかな。いやー、千風さんといると勉強になるなあ」
「えっへん!」
そこで海江の端末から着信音が鳴る。海江は着信元を見るなり通話ボタンを押して、端末をローテーブルの中央にコトリと立てて置いた。ディスプレイに表示された鳥巣の顔に、千風がきゃいとわめいて熱心に両手を振る。その後ろから海江が言う。
「私だ。先刻、無事に天祭と合流し、キサキを捕獲した」
電話の向こうから、はぁ、とトリスの呆れたようなため息が聞こえてくる。
『今しばらくご辛抱いただければ万事つつがなく、って言ったのに……そんなに目立っちゃって。私は知らないですからね、明日には区域中に広まってても』
「うるさい、お前のトロさを私のせいにするつもりか。いいんだよ、その条件はどっかのロウシンと揉めたことがおおっぴらになったら面倒だと思って言っただけだ。こんなくっだらないところ、このバカが二度と戻れんよう、粉砕してくれるわ」
「姉さん、横暴ー。エンライだってオケラだって頑張って生き……い、いっててて、すんませんすんません」
軽口を叩いた木咲の耳が何の容赦もなくぎりぎりとひねりあげられる。
そのまま、ぎろりと鋭い目で瀬前たちに向き直り。
「分かったか、クズどもめ。今日あったことは全て、死にたくなければ黙っていることだ」
「つーわけで、すんません」
茶目っ気たっぷりに舌を出して片手で軽く謝る木咲を、海江が白い目で見る。
「なんだ、その情けない態度は」
「いやぁ、あちらのセゼンさん、とても礼儀を重んじる先輩なんすよ」
「い、いやっ」
とっさに弁解しようとした瀬前の言葉は、海江の剣幕に圧されて尻すぼみに消える。
画面の鳥巣が千風を呼ぶ。千風が元気よく返事をして駆け寄り、端末の前にちょこんと座る。
『つーわけで、すまんね千風さん、手筈と違って。カイエさんが私の言葉を無視して勝手に千風さんのGPS見て飛んでっちゃってさ』
「んーん、うみちゃ、かっこよかった!」
千風が目をきらきらさせて海江を見上げるのに、女は綺麗な顔で微笑んだ。
「それは光栄。あぁ、天祭、貴女もだ。コイツの失態も今日の装備も、他言無用で頼む」
「ん!」
「しかし、まぁよくもこんなところに……どおりで見つからないわけだ。感謝するよトリス。さすが、情報屋の看板は伊達じゃないな」
海江の手放しの賞賛に、鳥巣がはたはたと手を振る。
『いえね、誤解なきよう。私じゃないよ』
「ふーん? だぁれ?」
千風が好奇心たっぷりの目で端末を見つめる。
『最高に緻密なネットワークを構築してる、イカす知り合いが身近にいてね。私はただ、それのおこぼれにあずかってるだけ』
「ふーん?」
『それで、片づけが済んだら、カイエさん、千風さんを送ってやってくれるかい』
「それは構わないが……珍しいな」
『ちょっとね』
「キサキ、あとの処理」と海江が短く言い、
「はい、お任せください」と木咲が恭しく頭を下げる。
それを確認してから、海江は数歩進んで千風の隣に並び立った。
「では、行こうか」
「うん。あ」
数歩進んでから、千風が思い出したように立ち止まる。くるりと振り向き、満面の笑みで木咲を見上げて。
「ごいんきょ、お茶、ごちそーさま!」
「うん、おそまつさま」
年の離れた友人が帰ってゆくのを、木咲はばいばいと両手を振って見送った。
作業BGM:BUMP OF CHICKEN