11.ゆきちゃんと誘拐騒動(中編)
城郭のような石垣の塀を、千風の小さい手がなぞってゆく。
門の脇に生える松の巨木に数羽のスズメが止まる。とりわけ大きい一羽に向けて、飛び跳ねながら両手を振る少女。
曜日は土曜、時刻は9:45。
門の前にたむろしている男たちに近づいて、
「鉾良と申します、鬼藤組長にお目通り願いたいのですが」
青年の珍妙な申し出に、一斉に怪訝な顔をされる。
「天祭が……」
そう言い足して幼女を押し出す鉾良に、男たちの眉間のしわが更に深まる。
(……だよなぁ)
天下の鬼藤の屋敷が、天祭の名一つであっさり通してもらえるほど、警備がゆるいはずもない。諦めて一歩下がる鉾良の後ろで、千風が端末を取り出して、番号を押して耳に当てた。
「もし、もし!」
『はい、こちら鬼藤の』
「あ……ゆ、ゆきちゃんいますかっ」
『大変申し訳ございません、天祭様。鬼藤は只今、所用にて席を外しております。至急、表に車を回しますので、少々お待ちいただけますか』
「う」
固まる千風に、
「なんだって?」と義維。
口をへの字に曲げた千風が、見おろしてくる二人に言う。
「ひしょのひとがね、ゆきちゃんがただいまでね、車が回るから、しょうしょう……うーん」
「ただいま?」と義維。
「大丈夫だ、大体わかった」と鉾良。
その直後に門が開き、砂利道を踏みしめて黒塗りのミニバンがゆっくりと出てくる。
側面窓の偏光スモークが掻き消え、鬼藤が顔を見せた。
「待たせた。海の向こうで何人か撃たれてな、片付けに少々手間取った。――おい!」門番のチャラ男を睨みつけ。「顔ぐらい覚えておけ」
真っ青な顔になった男は大変失礼しましたと頭を下げる。
下りてきた運転手が後部座席のドアを開ける。
歩道の縁石に飛び乗って車内によじのぼろうとする千風を、義維がひょいと持ち上げて鬼藤の横に座らせる。シートベルトを留め、
「夕方頃にでも迎えにうかがいますので」
車内の鬼藤に一礼してそう言った鉾良に、
「何を言ってる、早く乗れ」
当然とばかりの鬼藤の一蹴。
「二人ともだ」
鉾良に乗るよう促した義維を見て、鬼藤が言い足す。
更に「早くしろ」といらだったように言われて、二人が慌てて乗り込むなり、車は滑らかな動きで公道を走り出す。
義維の膝の上に座った千風がひとしきりもがいたあと、隣に座る鬼藤の方向にシートベルトを引っぱって近づいて。
「ゆきちゃん、おはよう!」
「ああ」
鬼藤のそっけない答えに、不満そうに頬を膨らませる。仏頂面の老人に向けて、一切物怖じせず、細い指を突きつけて言い放つ。
「あのね、あいさつしないと、だめなんだよ」
「……おい、どこの令嬢に育て上げるつもりだ」
鼻から息を吐いた鬼藤が低く言うのに、
「すみません、教育熱心な奴が何人かおりまして」
三列目に座った鉾良が後ろから答える。
「まぁいい。それで、どこ行く。どこ行きたい、遊園地か、動物園か?」
助手席で書類を繰っていた鬼藤の秘書がおやおやと笑う。
「鬼藤雪文が土曜朝から動物園に出没とあっては、明日のスポーツ紙朝刊一面は確実ですね」
千風は車の天井を見上げて考え込み、足を揺らす。
「うーん」
「好きな動物は?」
その問いには、義維の膝の上で跳びはねる。
「いぬ!」
鉾良と義維が黙って顔を見合わせ。
「……動物園には、いないだろうな」
「犬か……警察犬の訓練所なら、知人がいる」
鬼藤の言葉に、秘書が目を伏せて答える。
「恐れながら、こどもの遊び場としては、あまり適切とは言えないかと」
「ちー、公園はどうだ」
ぱっと顔を輝かせる千風。
「安上がりですね。ええと、この近くで広い公園と言うと」
「あそこですね。かしこまりました」
秘書の運転手の短いやり取りを聞きつつ、鬼藤が千風に言う。
「屋敷まで歩いてきたのか?」
「うん、一回ころんだ!」
老人の鋭い目が義維に向くが、千風は気づかず続ける。
「あとね、猫とカラスがケンカしててね!」
「ほう、どっちが勝った?」
「ぎぃちゃんが止めちゃった」
しょんぼり言う千風のつむじを、義維の目が見下ろす。
「人に気づいて、カラスが勝手に飛んだだけだろ」
「ちがうもん、ぎぃちゃんわざと大きく足、踏んだ!」
身体をねじってにらみつけてくる千風から目線を外して後頭部をぼりぼりと掻く義維。
「じゃあ、その後ろでリーダーが手ぇ叩こうとしてたのは気づいてたか?」
「ええっ」
衝撃を受けた千風が慌てて義維をよじ登って、肩ごしに顔を出し、後方の鉾良に向けて、
「りーだー、めっ!」
ふくれっつらの顔を真っ赤にして、びしりと叱責。
「……バラすなよ義維。ちーに叱られたじゃないか」
情けない声を出す鉾良に、車窓を見ながら全く悪びれない謝罪の言葉を返す義維。
「ゆきちゃん、どっち好き?」
「なにがだ」
「猫とカラス」
フム、と真剣な顔をしてしばらく考えた鬼藤が、ヒゲをなでつつ断言する。
「カラスだな」
「二度と飛ばさないようにします」
義維が小さく呟くのに、千風が満足そうにうなずいて、内装まで黒一色で統一された鬼藤の車のドアポケットを叩く。
「黒いの、ゆきちゃんとお揃い!」
「ああ。飛べるところも良いな」
「ねこさん飛べないもんね」
「ああ」
「あ! 今度、カラスしとめて、ゆきちゃんち持っ」
「て来んでいい」
「えー?」
鬼藤の眉間に刻まれた苦渋のしわに、不思議そうな顔をする千風。
「しとめてどうすんだ、食うのか」
鬼藤の言葉に、千風はゆっくりを首を傾げて。
「りーだー、からすって食べれる?」
「さぁな。少なくとも、俺は食べないぞ」
嫌そうに鉾良が答え、義維もうなずくのに、千風が残念そうな顔をする。
「おいしくないの?」
「そういう問題じゃなくてな」
どう説明したものかと大人たちが考えあぐねる様子に、
「千風様はどこででも生きていけそうですね」
秘書が笑う。
皆がうなずくのに、千風はあわてて義維の首にしがみつく。
「ち、ちーのおうち、りーだーのおうち! りーだーも良いよって言った!」
「ああ、わかっとる」
鬼藤が前を向いたまま答え、
「大変失礼いたしました、失言でした。誤解させてしまいましたね」
助手席から振り向いた秘書が丁寧に頭を下げる。
義維に念押しの確認をして、ほっと息をついた千風が元通りに席に座り直したあと、
「やはり、まずいですか」
鉾良が緊張気味に鬼藤の名を呼んで、尋ねる。鬼藤の目が後部座席の青年の顔を映す。
「どっかになんか言われたか」
鉾良はためらいつつも、
「先日、砂の宮地に会いまして」
鬼藤と対立関係にあるロウシン傘下の名を出す。
「あのうるせぇ奴か。ならまぁ、星や周辺のジジイどもには一報入ってるだろう。そもそも、天祭の所在に口出せる奴なんか居ねぇがな。あとはまぁ、何も知んねぇ奴らにおおっぴらに言いふらしたりしなきゃ、問題ないだろう」
「は、はい。気をつけます」
鬼藤の平然とした口ぶりに、どうやら宮地と千風の交友関係を知っていたらしい、と鉾良は胸をなでおろす。
「千風様にはご不便をおかけしますが。先ほどの門での一件もしかり、鬼の配下といえど無闇に周知するわけには参りませんので」
秘書に突然呼ばれて首をかしげる千風。
「ああ、そういえばさっき……なぁちー、十堂さんと来てたときに、顔、覚えてもらえなかったのか? 鬼藤さんのお屋敷に子どもがくることなんてそうそうないだろう?」
「あのね、ひみつのちかみちで行くの」
「近道?」
「う! でもね、教えちゃだめなんだよ。誰かにゆったら、ゆきちゃんハラキリなの!」
「ハラキリ?」
聞きなれない言葉に、
「うちの古い風習、昔の片付け方だ」
鬼藤が嫌そうに言って、革張りのシートに身をあずける。
「十堂の奴も、最初の頃は正面から来てたんだがな……毎回、すぐ出迎えが行くっつってんのに強行突破しやがって、その度に活きの良い奴、何人ももっていきやがってな。ウチのじいさんがキレたが、なんべん言っても聞きやしねぇ。そのうち面倒くさくなったのか、どこで知ったんだか、そういうわけだ。皆、俺が教えたと思ってるみてぇだが」
秘書と運転手が揃って、驚いたようにうなずく。
「お前らは正面から来い。あの道も用済みとなりゃ、そろそろ埋めるか」
「あっだめだよ、ゆきちゃんがピンチのとき、ちーが助けいくって約束!」
「そうだったな。頼りにしてるぞ、千風」
「ん!」
自信満々に小さな胸を張る千風に、屈強な男どもを幾人も従える大組織の頂点に君臨する老人は、ウムと満足そうにうなずいた。
不意に車が、がくん、と揺れる。
「申し訳ありません。すぐに振り切りますので」
急加速した車内で運転手が言うのに、鬼藤がバックミラーを見て、呆れたように呟く。
「またか、しつこい野郎だ。ああそうだ、ちー、波に知り合いはいるか」
「ん?」
「波だ、波」
合点がいったかのように、ぱあっと顔を輝かせる千風。
「おにーちゃんはとさん!」
「ああ。後ろの車に、お前が乗ってますって手ぇ振ってやれ」
うなずいた義維が、千風を抱き上げてシートベルトからはずし、ヘッドレストの脇を通して鉾良にぽいと手渡す。
「こら、靴脱げ」
鉾良に靴を脱がせてもらうなり革張りのシートに膝立ちになった千風が、後ろのセダンに両手を振る。
「ばいばーい! ……あ!」
「いたか、知り合い」
「うん。ちょっと前にね、遠征軍のひと追っ払ってほしいってゆったひと」
「ああ、廃墟街の騒動、あいつらだったか」
「ちー、対戦車ライフルってゆうの、初めて撃った!」
「まったく、ちー使いの荒い奴らだ。もういいぞ。タイヤ撃ち抜くまでもなかったな」
不甲斐ない、と自分勝手に憤慨する鬼藤に、元気良く返事をした千風は座席に正対して座りなおし、せっせと靴を履く。その横で後方を眺め続けていた鉾良は、急停車したセダンがUターンで去っていくのを見た。真新しいブレーキ痕をくっきりとつけたアスファルトが、すぐに地平線に消える。
「……ちー、知り合いって助手席の奴か」
「うん」
鉾良の見間違いでなければ、真っ青で半泣きだった。ダッシュボードに額をひっつけんばかりに謝罪していた。
波筆頭の、非道と残虐がウリの、泣く子も黙る幹部補佐。
だったように見えたが。
靴を履き終えた千風を、鉾良が元通り義維の膝の上に返してやって。
「最近入れ替わりが多くてな。東のロウシンに動きはないか?」
「いえ、ロウシンの幹部が動くほどの目立った案件は把握しておりません」
「まぁあいつらは利害が上手く噛み合ってるからな、いまのところ」
「ちー、それ噛むな」
邪魔なシートベルトをいじくり回し、最終的に噛り付こうとしていた千風を、義維がやんわりと止める。
「人んちの車だ。もう着くから」
「これ、きらいー」
「それないと、お前、吹っ飛ぶぞ」
「吹っ飛ばない!」
義維と千風のやりとりを眺めていた鬼藤が、不意に鉾良の名を呼ぶ。
「まぁでも、お前らでよかったんじゃないのか。下手にどっかの、躊躇う必要のない、出世意欲の高いロウシンに独占されることになった日にゃ、区域の形勢が大きく揺らぐ。第14次区域大戦の勃発になりかねん」
「はは……」
笑えない冗談に、鉾良はぞっとする。
確かに、今の鉾良たちならば、いくら千風一人がいたからと言って現在台頭しているロウシンたちを押しのけて天下を獲ろうなどという無謀なことは到底考えられない。
だが、これがもし、例えば狼の幹部だったら。あるいは鬼でも良い。または、それらに拮抗し対立する立場の人間だったなら。
「……あの、なぜ、秘密なんですか」
義維の問いに、鬼藤はこともなげに答える。
「そりゃ、テメェが独占してぇからだろ。十堂はいくら馴染み相手だろうと、テメェが興味持った案件しか乗らねぇ奴だったからな。天祭の得意先が増えりゃ、奴を使える機会が減る。どころか敵に回る可能性だってある。そんだけだ。――あぁ、一番バレちゃいけねぇのは治安部隊だ。あいつら、やるとなりゃ額政懐柔してもっともらしく正義ぶって向かってきやがるからな、面倒くせぇ。おい、てめぇらでもそんくらいはできるだろ」
慌てて了承の返事をする鉾良。
義維が鬼藤を見る。
「まだ知られて」
「ねぇだろうな、おそらく。並み居る大御所のジジイどもが、必死こいて隠滅に奔走してんだ。そう簡単に察せやしねぇよ。お前らだって、欠片も知らなかったろ」
頭上で交わされる大人たちの難解な会話にふらふらと視線をさまよわせていた千風が、訪れた静寂に首を傾げてぽつりと呟く。
「……ちー、隠し子?」
「それは意味が違う」
気の抜けた鉾良ががっくりと肩を落とす。
ゆっくりと減速した車内でウィンカーがカチカチと音を鳴らす。運転手が穏やかな声で言う。
「お待たせしました、着きました」
「わんちゃん、いた!」
車窓を見て騒ぎたてる千風。背を丸めて同じ方角をのぞきこんだ義維が犬種を言う。義維の胸板におしつぶされた千風が、甲高い声で笑いながら逃げる。
「ほう、広い芝だな」
「あ、あれやる! ぎぃちゃん、あれ!」
千風が指さす先で、白い円盤が回転しながら空を飛んでいる。
「ディスクゴルフか。どこかで売ってるかな」
「そちらの隅に売店があったはずです」
運転手の言葉に、
「赤いのがいい!」
うーん、と鉾良がうなる。
「ちーには早いんじゃないのか。ちょっと難しいぞ、投げれるか?」
「ゆきちゃん、できる?」
「数十年ぶりだな」
言いつつも腕まくりをしている。
「ゆきちゃんに教えてもらう!」
車が停車する。
義維がドアを開けるなりぴょんと飛び下りて、早速駆け出していこうとする千風を、秘書が助手席から呼び止める。
「私どもは南側の駐車場におりますので、何かございましたら、なんなりとお声かけください。お飲み物もご用意しておきますね」
続いて下りてきた義維の足に慌ててしがみつく千風。座席をスライドさせていた鉾良が、不思議そうに言う。
「どうした、ちー、人見知りモード?」
あわあわと左右を見回した千風が、意を決したように言う。
「そ、そういう言葉、ちー分かんない、です!」
「敬語分かりません、な」
「失礼しました、……いえ、ごめんなさい。そうですよね」
秘書はくすくす笑って。
「ええと、――私たちはこの車の中にいるので、何か困ったことがあったら来てください。わかりました?」
「は、はい!」
「組長、いえ、ゆきちゃんのこと、よろしくお願いします」
「はい!」
「おい」
ぎろりと睨む鬼藤に、
「大変失礼致しました、非礼をお詫びします、組長」
さっと頭を下げる冷静な秘書。
車の前方から回りこんで歩いてきた運転手が、秘書に車のキーを渡す。その様子をじっと眺めていた千風が、ようやく秘書の言う意味を理解して。
「ひしょのひと、遊びに行かないの? ですか?」
「ええ、鉾良さんと大事なお話がありますので。鉾良さんのこと、少し、お借りしてもいいですか?」
「うん。りーだー、ひしょのひとと遊んでて!」
「ははっ、わかった、そうするよ」
一列前の席に移った鉾良が、笑って手を振る。
「代わりに、運転手も一緒に行きますので、遊んでやってください」
「ほんとう?!」
ぱっと顔を輝かせる千風の前に、運転手の男がしゃがみこんで目線を合わせる。
「ええ。よろしいですか」
「ん!」
快諾する千風に礼を言った運転手はすぐに立ち上がると、片手で自身のジャケットの内側を確認しつつ鬼藤の側に素早く寄り、そっと低頭する。
眼光鋭い男のその所作に、なるほど護衛か、と義維は納得する。
「さて、ちー。まず、犬かディスクか、どっちだ」
鬼藤の問いに、
「いぬー!」
千風が両手を挙げて、芝生のほうへと駆け出していく。大人たちが追って駆け出す。
秘書はすぐに窓を閉じ、一目散にラブラドールに向かっていく千風の背中を、目を細めて眺める。
「まるっきり初孫のようですね」
「ええ、気さくな方でほっとしました」
「普段はああではありませんよ」
「心得ております。――それで、お話とは?」
***
義維の手がラブラドールの頭部の毛並みをわしわしとなでる。飼い主不在で木につながれた飼い犬は、大人しくされるがまま座り込んでいる。
「噛まないぞ、ほら」
と勧める義維の足にひっついたまま、
「うう……」
それ以上近寄れない千風が、義維のズボンに顔を埋めて小さくうめく。
「あ、千風様、小型犬はどうですか。あっちにポメが居ますよ」
機転を利かせた運転手の言葉にぱっと顔を輝かせ、
「ふわふわライオン!」
「ライオンじゃないぞ」
次なる標的――散歩中のポメラニアンに向かって駆け出していく二人の後ろで。
「お前は分かってない」
どうやら大型犬派だったらしい落胆顔の鬼藤に盛大に睨まれ、
「失礼しました」
慌てて謝罪する運転手。
「ゆきちゃん、お散歩お手伝い!」
飼い主と話をつけたらしい千風が、手首にぐるぐる巻きにして持ったポメラニアンのリードを鬼藤に見せる。
「おお、良かったな」
鬼藤が犬の前にしゃがみこみ、ふーふー威嚇する小動物を見て怪訝な顔をする。
「なるほど小さいライオンだな。なんだこれは」
「ポメラニアンです」と運転手。
「知っている」と仏頂面の鬼藤。
「失礼しました」と運転手。
……漫才ですか、とつっこみたい気持ちを堪える義維。
「どっちが散歩されてるか分からないな。紐、離すなよ、ちー」
「ん! ……う、わわっ」
突然吼えたポメラニアンが元気良く駆け出す。引かれて足をもつれさせる千風。むぅ、と鬼藤が顔をしかめる。
「言ったそばから」
「替わるか、ちー」
「や!」
義維の申し出に意地を張り、ずるずると引きずられていく千風。運転手の男に頭を下げられて、飼い主の青年は恐縮したように手を振る。
成犬とはいえポメラニアンにあっさりと競り負ける10歳児ってどうなんだ、と義維は、じたばたしている千風の背中を追いつつ、筋トレでもさせるか、とあさってのことを考える。
「こっち上るって!」
振り返って言う千風の言葉に、義維がうなずく。犬に先導されて石造りの階段を上る。
そこでようやく、立ち止まる。
千風に続いて階段を上り終えた義維は、ほぅ、と千風の口から漏れる感嘆の声を聞いた。
「見て、水!」
「噴水だ」
「ふんすい!」
レンガ造りの広場の中央に、三段式の花型噴水が設えられている。広場を囲う花壇の縁石に座り、楽しげに話しこむ若者たち。ベンチの脇には鳩がうろつく。
男と少女と犬の組み合わせを物珍しそうに見る者、それから、義維か鬼藤の顔を見るなりそそくさと立ち去る者。
薄汚い格好で座り込む露天商の間をたかたかと駆け抜けた千風は、噴水の前まで来て、陽の光をきらめかせる中空の水滴をじっと見上げる。
「ああ、善いな」
千風の真後ろから、いつの間にか追いついてきていた鬼藤が呟く。
その横を駆け抜けていく、いくつもの小さい人影。
「あ」
次々と飛沫が上がり、顔にかかった水を千風があわてて袖で拭う。千風と同い年くらいの子どもたちが、池に飛び込んで遊び始める。
うらやましそうにそれを見る千風に、義維が聞く。
「入るか?」
小さな頭が即座に振られる。
「狙撃手は水遊び、だめなんだよ。おとーさんがゆってた」
義維と鬼藤が目を見合わせ、互いの顔に疑問符が浮いているのを見る。千風が続ける。
「武器、隠せなくなっちゃうから」
意味を理解した鬼藤が、げんなりした顔で言う。
「毎回、真っ裸になる気なのか、十堂は」
「足だけなら大丈夫だろ」
義維は千風の手からリードを外して礼を言って飼い主に返し、ポメラニアンに手を振って見送り、それから池の縁に少女を座らせる。義維の指示通りに靴とくつしたを脱いだ少女の前に片膝をつくと、千風のズボンの裾をまくる。
「転ぶなよ」
片手をとって水の中に導く。
「つめたい!」
千風が嬉しそうに悲鳴を上げた。
「だめだめ、ぎぃちゃ、手!」
義維が離そうとした手をばたばた振って呼び戻す。
「遊んで来い」
水のかけ合いをしている千風と同い年くらいの集団に向かわせたが、すぐに戻ってきて水から上がる。
鬼藤が意外そうな顔をして腕を組む。
「もういいのか」
「お気に召さなかったみたいですね」
運転手が不思議そうに呟き、答えを求めるように義維を見る。少し考えて、義維が聞く。
「水、怖いか」
「うーん。ここだとね、撃てない」
「そんなとこで撃たんでもいいだろう」
「足場が不安定なとこは嫌か」
「あしば?」
きょとんとする千風を抱き上げて、義維が水から引き上げる。
拭くものを探す義維の足の間から先の景色を覗き込み、
「あのひと! 浮いてる!」
目を真ん丸にして千風がわめく。
「あのひとなに? あのひとなに?」
皆が振り向く。
全身真っ白の男が、左足を上げた状態で左半分だけを見せるようにして、巨大な鏡に隠れている。
鬼藤も物珍しそうにじろじろと見る。
「なんだあれは、子ども騙しな」
「パフォーマーですね」
運転手が笑顔で説明。
「お金!」
白い男の前に置かれている、ひしゃげたブリキ缶に千風が気づいて指をさす。
「ええ、面白いことをして、お金をもらうんです。ほら」
運転手が指さす前で、噴水の裏側から歩いてきた若者二人組が、空中の男を見てけらけら笑って、ポケットから取り出した小銭を無造作に放り込んで、手を振って去る。
「ちーも! ちーのお金でもいい?」
「ああ。あげすぎるなよ。紙幣はだめだぞ」
靴を履いた千風が駆け寄って、しばらく顔を真っ赤にして男をまじまじと見る。
「およいだ!」
縦方向への平泳ぎの空中遊泳に、とびきりの歓声を上げる。
ひしゃげたブリキ缶に千風がチップを入れると、カランと甲高い音が鳴る。
「まいどあり」
「しゃべった!」
嬉しそうに、誇らしげに帰ってくると、義維のズボンに顔を埋めて、きゃいきゃいと甲高くわめく。
「上機嫌ですねぇ」
ハイテンション冷めやらぬ千風の様子に運転手が微笑む。
義維がかたわらの時計を見上げてから、小さな肩を叩く。
「ちー、そろそろディスクやるか」
「やる!」
「赤いのあるぞ」
そう言って売店に向かった鬼藤が、店の外に陳列されている玩具類を指さす。その鬼藤に駆け寄って飛びついて、最大限につま先立ちをして、陳列棚のやや高いところに置かれていた赤いフライングディスクに手を伸ばす千風。二人の後ろで、鬼藤の護衛であるところの運転手が制止するか否かであわあわしている。
義維は、千風と出会ったときのことをふと思い出す。大真面目に、周囲の店舗を片っ端から狙撃しまくって食料を手に入れていた、そんな方法しか知らなかった、小さい少女を。
「ちー、あれ見てろ」
「う?」
忙しなく動く頭部を固定して、店内に向ける。
店主の前に二本の炭酸水を突き出す軍服姿の少年。硬貨を支払い、釣りを受け取る。一連の流れを見せたあと、義維は問いかける。
「それ、一人で買ってこれるか」
金勘定ができるのは知っている。
続いて、ふらりと店内に入った白髪の老人が煙草をくれと店主に声をかける。その動作をじっと見つめつつ、千風は神妙な顔でコクンとうなずく。
一大決心を固めたらしいその横顔を確認してから、義維はその背をそっと押し出した。
千風は勢いよく駆け出して行って。
「これ、ひとつ、くださいっ」
「物覚えの早い子だろう?」
鬼藤が誇らしげに義維に言った。
戦利品を手に、千風が笑顔で戻ってくる。
「買えたよ!」
「おかえり」
「ゆきちゃん、教えてくださいっ」
義維に包装を取り払ってもらったディスクを、千風が鬼藤の前に突き出す。
「おお、よし」
鬼藤はうなずいて、真新しいディスクを受け取り。
「こう、構えてだな」
腰を低く落として上体をひねる。
「ふんふん」
真剣な顔で、隣の千風も真似をする。
「く、組長、お腰が」
運転手が小声で慌てている横を通り過ぎ、義維が鬼藤から少し離れたところに立った。
「とうっ」
「とうっ」
鬼藤がディスクを宙に放る。同じように腕を振った千風は、鬼藤のディスクが一直線に義維の手に収まるのを見て、
「ちーも! ちーも!」
両手を挙げて、慌てて義維に駆け寄る。義維が手渡した円盤を満面の笑みで受け取って、
「ゆきちゃん、いっくよー!」
「ああ」
全力で投げつけられたディスクは、ぺしゃんと千風の足元に落ちる。
「あれ?」
「もう一回」
義維の言葉にうなずいて、
「とうっ」
今度はころころと地面を転がる。
やはり鉾良さんの言うとおり、少々早すぎましたかね
運転手が心配そうに呟くのを、ふんと鬼藤が一蹴する。
「あいつが、これくらいで音を上げるタマか」
「ゆきちゃん、もっかい!」
「おお、どれ」
駆け寄ってきた千風からディスクを受け取り、鬼藤が一挙動ずつゆっくりと実演してみせる。先ほどと同じように飛翔し義維の手元に収まったディスクをにらみつけ、千風が不満そうにうなる。
「ぎぃちゃん、見てた?」
「ああ」
「ちーとゆきちゃん、何が違う?」
義維はしばらく考えて。
「腕の振り方だな。こうやって……」
ディスクを持たせて千風の後ろに回り込んだ義維が、千風の肩と肘を持って動かし。
赤いディスクが風に乗って数米先に落ちた。
少女の表情がぱあっと晴れる。
「できた!」
「ああ」
「ぎぃちゃん、あと、じっかい!」
「……10回?」
「ん!」
「すごいですね」
運転手が驚いて、感心したように呟く。鬼藤が誇らしげに胸を張る。
***
数分後。
「ちー、ボール遊びはどうだ」
「や」
ものすごく嫌そうに即答する千風。
「十堂め……」
恨みがましくぶつくさ呟く鬼藤。
入らないディスクにしびれを切らした千風が義維を見上げる。
「銃なら入るのに……撃っても良い?」
「やめておけ」
とうっ」
千風が放ったディスクを、数米離れたところに立っていた義維がかがみこんで、地面すれすれで掴む。
「できたな」
鬼藤が言うのに、
「んー……」
千風は不満そうにうなり。
「ゆきちゃんは、あっちまで飛んだ!」
「筋力の差だろうな。それは今すぐにはどうこうできないぞ、ちー」
義維が言う。鬼藤もうなずく。
もう一度うなった千風が、
「きん、りょく!」
とわめいて投げる。縦になって落下したディスクが、芝の上を弧を描いて転がる。駆け寄ってきた千風に、
「どうぞ」
運転手が拾い上げて手渡す。
千風は礼を言って、立ち去ろうとして、ふと立ち止まる。運転手を見上げて、ぱちぱちとまばたきをして。
「うんてんしゅのひとも、できる?」
「どうでしょう、お借りしても? ありがとうございます」
運転手は左足を半歩引き、軽やかな動きでディスクを放る。赤い円盤は安定した低空飛行でぐんぐん飛距離を伸ばし――
「あっちまでいった!!」
千風が飛び跳ねて喜ぶ。
「すみません、取ってきます」
運転手が慌てて駆け出す。鬼藤が睨む。
「大人げないぞ」
「大変失礼しました」
飛ばないことを恐れて本気で投げた運転手は、目上の顔を立てなかったことを謝罪した。
運転手が戻ってきたときには、
「ちーも! ちーもあっちまで!」
わめく千風に義維が辟易しているところで。
「あの、千風様」
運転手が千風の前にしゃがみこんでディスクを手渡し。
「そんなに焦らなくても、そのうちできるようになりますので、大丈夫ですよ?」
ディスクを抱えた千風は首を振り、きっぱりと言い切る。
「大きくなったらできることは、今もできる!」
「……おお」
意志の強い言葉に驚く運転手。鬼藤が聞いた。
「十堂の受け売りか」
「ん。――あのね、これね!」
千風かいきなり上着の下から拳銃を取り出す。ぎょっとなる周囲をよそに、銀光きらめく銃口は高々と天を向く。
「射撃場のね、丸いのに当たるのに、ちー、3年かかったの。だからね、これも、できる! って、おとーさんが!」
鼻息荒く俄然はりきる千風に、
「3年毎日通う気か」
義維の問い。千風は左右の手にあるものを真剣に見比べて。
「同じくらい楽しかったら、通ってもいい?」
「毎日は無理だが」
大真面目にとりあう義維。
「おうちでやる!」
「庭にしてくれ」
「あーい」
そこで運転手がはたと気づく。
「……ちょっ……ええと、千風様、いったい何歳から撃ってるんです?」
「さんさい!」
「わしは止めたぞ、キチガイは十堂だ」
眉間のしわを深くして、鬼藤がぶつくさ言う。