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10.ゆきちゃんと誘拐騒動(前編)

前・中・後編の3話でひとまとまりです。


のんきな鼻歌を歌いながら、千風がソファの上をころころ転がる。その目の前のローテーブルに、鉾良が大量のファイルを積み重ねていく。

「おーしまい。つぎー!」

転がるのをぴたりとやめた千風が、うつぶせのままで両手を上げる。

「ああ。ゆっくりでいいからな」

鉾良が、千風の手元に置いてあったファイルをどけて、別のファイルを一冊置く。

「あーい」

千風が機嫌よく返事をした直後、半開きの扉から、久我(くが)がひょいと顔をのぞかせる。

「ちー、ここに居たか。失礼しまっす。煎餅食べるー?」

手に持っていた包装を振ってみせる。ぱっと振り向いた千風が顔を輝かせる。

「おせんべ!」

「ちょっと固いけど食えるか? 砕いてやろっか」

ローテーブルに大きめの皿を置き、ざらざらと煎餅をあける久我。

「食べれる!」

「おお。じゃあ茶ぁ持ってくるわ。ボスも飲みますよね?」

「ああ」

さっそく煎餅を一枚くわえて両足をばたばたさせながら、手元のファイルをぺらぺらとめくる千風。その調子外れの鼻歌を聞きつつ、久我が鉾良のデスクに片手をつく。

「いやー最初は泣いたり逃げたりでどうなることかと思いましたけど、懐きましたねぇ。……つーか、あいつ何してんすか、写真整理?」

「いや」

ん?と不思議そうな顔をした久我が、千風の上からその手元をひょいとのぞきこみ。

「うっわ」

そうそうたる顔ぶれの並ぶ異様な写真ファイルに驚いて一歩下がる。

鉾良がデスクで書類をめくりながら答える。

「名前の羅列だと分からないと言うんでな、写真を用意した。残りは格子がいま現像しに行っている」

「えー、何見せてんすか」

「宮地さんと鳥巣さんの件は聞いただろ。ああいうことが続いたんじゃ俺たちの身がもたない。ちーの人脈を把握しておけば、交渉も多少有利に運べるだろうってな」

「なるほど」

ばん、と千風がファイルを叩く音がした。

「ゆきちゃん、知ってる!」

「お、いたか」

鉾良が席を立って近寄る。満面の笑みで少女が指さしている顔写真は、

「……き、鬼藤?」

ずらりと並ぶ黒塗りの車の前、スーツの群集の中央でいかめしい顔をする白ひげの老人。

「うん、ゆきちゃん!」

写真の下に記載された格子の文字を慌てて見る男二人。

『鬼藤 雪文』

「……ああ……」

たしかそんなフルネームだった。

頭を押さえて鉾良がうなだれる。

「ううん、ちー、もう少しランクの低い……つっても、わかんないか」

きょとんと首を傾げる千風。

「う?」

「……そうだな。まぁ、どうせ連絡取る手段もないし……」

鉾良の呟きに、あ、と呟いた千風が端末を取り出して、ぽちぽちと番号を押して耳に当て。

『――もしもし?』

「……あ」

わくわくと待っていた表情を一瞬で消した千風は、聞き覚えのない声に動揺してきゅっと眉を寄せる。

『……もしもし、どちらさまでしょうか』

電話からの硬質な声に、

「……う」

所在なさげに左右を見回し。

『もしもし?』

「……ゆ、ゆきちゃん、いますかっ?」

『は?』

「ううう、あの、あまつりですっ」

『……天祭?』

『――替われ』

電話の向こうで別の声が割り込む。

『もしもし、十堂か? いい身分だな、一ヶ月もどこをほっつき歩いて』

「ゆきちゃん!!」

千風がぱっと顔を輝かせる。

『おお千風か。悪いな、先日秘書を変えたばかりでな、お前のことを伝えておくのを忘れとった』

「ひしょのひと?」

『ああそうだ。前の奴は怪我してな。お前は無事か?』

「ん、いまね、りーだーのおうちにいる!」

少し間があって、

『……周囲に大人は居るか。誰でもいい、電話をかわれ』

とてつもなく低い声。

「ん!」

千風が満面の笑みで、端末を鉾良に差し出す。

ごくりと生唾を飲み込んだ鉾良は、頼むから千風の勘違いで人違いであってくれますように、と祈るような気持ちで口を開く。

「……も、もしもし」

鬼藤(きとう)だ、お前は?』

まごうことなく、鬼藤 雪文、本人の声で。

「……鉾良(ほこら)と申します。はじめまして、突然失礼いたします、鬼藤殿」

『そうか、東の鉄柵街の若造だろう、意外だな。ふむ、それで?』

「は?」

『10億で足りるか。明朝、お前の屋敷に運ばせよう』

「……は、あ、あの?」

『なんだ』

「……いえその、失礼ですが、おっしゃっている意味が分かりかね」

『身代金は払ってやるから早く千風を解放しろと言っている。何が不満だ』

「な、身代……ちっ……違います! 誤解です!!」

血相を変えて慌てて叫ぶ鉾良の大音声に、千風が慌てて自分の耳をふさぐ。

「誘拐などでは断じて……ちょ、ちー! 説明して!」

慌てて端末を返す。

「もっしもーし! ちーです!」

『鉾良の屋敷にいるのか?』

「う! いまねー、りーだのおへや!」

『両腕はあるか』

「う!」

『怪我は』

「ばんそーこ、ある!」

右手をぱっと開いて、中指の絆創膏を見ながら答える千風。ひぃ、と鉾良の喉が鳴る。

「そそれは夕飯の手伝いのだろ!」

「ん、ちーが、にんじんの皮むきしたんだよ!」

『そうか。メシも食っとるんだな』

「昨日の晩ごはんはねぇ」

『銃はあるか』

「う!」

がちゃ、と千風の手元で愛銃の安全装置が外れる音が、電話越しに鬼藤に届く。

『――おい! 聞こえてるか鉾の若造!』

どすの利いた大声に、千風が片目をつぶって端末を遠ざける。

「は、はい」

『全員動かず、すべてそのまま待機だ、いいな』

「はいっ」

『ちー、手土産はなにがいい。食べたい菓子は?』

「いま、おせんべ食べてる!」

『……そうか。では夕飯にしよう。何が食べたい?』

「ううう、おせんべ食べてる、から……分かんないぃー」

うめきながらばりばりと煎餅を噛む千風。

『……そうか』

電話先は心なしか落胆した声。

すぐに通話が切れる。


***


そのわずか数分後。

「お、お待ちくだ……!」

動揺しきった複数の部下の声と慌しい足音が鉾良の部屋に近づき、

「ふん。なるほど、どうやら言いつけくらいは守れるらしいな」

写真と寸分たがわぬいかめしい顔の老人が部屋の戸口に立ちはだかった。出迎えるべきか、言われたとおりじっとしていたほうがいいのか散々迷い、冷や汗垂らしながら待機していた鉾良は、どうやら正解だったらしいと、ほっと息をついた。

「ゆきちゃん!」

ソファから転がり落ちた千風が駆け寄っていき、鬼藤の右足に勢い良く飛びつく。どすん、と大きな音がしたが鬼藤は全く動くことなく、ぶつけたおでこを押さえる千風を一瞥するなり無表情のまま、部屋を見回し。

「ちー、お前の部屋はあるのか?」

「う!」

「案内しろ」

「こっちー!」

部屋を飛び出した千風が、鬼藤の手を引いて廊下を進んでいく。一人残された部屋で一瞬安堵の息をついた鉾良は、すぐに精悍な顔つきに戻ると、ジャケットの襟を整え二人を追う。

「あっちがりーだーの部屋でね、その横がこーしの部屋でね、」

「『こーし』は誰だ?」

「りーだーの一番のおともだち! ここが、ちーの部屋!」

鬼藤の手が乱暴に扉を開けた。見覚えのある銃や衣服と、それから足元に転がるテディベア。部屋に散らばる千風の私物を見て、鬼藤はやや大きめに息を吐く。

それから、室内でベッドに座る男を見つけ。

「ちー、その男は」

「ぎぃちゃん!」

「お前の見張りか?」

「う?」

首を傾げた千風の後ろから、追いついた鉾良が答える。

「いえ、世話係といいますか」

「一番こわくないひと、ちーが選んだの!」

「そうか」

「あのね、昨日はぎぃちゃんとお買い物してね、それでね、川のところまでお散歩してね!」

「そうか。……時にちー、土曜は暇か」

黙したままの鉾良が眉を下げる。

(……そこで義維と張り合うのか。い、意外だな……)

「ぎぃちゃんと……うぐ」

「暇です」

寄ってきた義維が千風の口をふさいで答え、

「ちー、土曜日、鬼藤さんと出かけるか」

「ゆきちゃんと? いく!」

ぱあっと笑顔になった千風が飛び跳ねて、鬼藤がその頭に手を置く。

「土曜朝、10時にうちに来い」

「う!」

後ろに控えていた鬼藤の秘書が口を開く。

「――お話中失礼します、鬼藤組長、そろそろお時間です」

「ああ。またな、ちー」

手を振って玄関に向かう。鉾良が見送りに走る。

引き戸が開く音が聞こえ、玄関先が騒がしくなる。鬼藤が呟く。

「来たか」

玄関には、困惑しきった顔の若い部下たちが所在無さげに突っ立っていた。大量の寿司桶を抱えて。

鉾良が声を荒げる。

「おい、なんだそれは」

「き、鬼藤様宛にと……」

「私が頼んだ。手土産代わりだ」

そっけなく言って、鬼藤とその秘書は去っていった。


***


「わ、お寿司ー?!」

テーブルに並べられた寿司桶に、千風が歓声をあげる。厨房から小皿と箸を持って来た義維が、千風の横で身をかがめる。

「好きなの、先にとっとけ」

「たまご! えび!」

「えびは2つあるぞ」

義維が指さす先のネタを、じっと見た千風がきょとんとして。

「こっち、えびじゃないよ」

「生の甘エビだ、こっちはボイルえび。両方とっとくぞ」

「ん!」

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