真夏の鹿
普通電車しか止まらないJRの駅が一つ。視線を少し上にしても空を遮るような建物はない。夜には星が恐ろしくよく見えるけど、星空を見上げるような人はあまりいない。
「星空なんて、いつでも見える。それをありがたがる気持ちはわからん。」
土地の人はみんなそういうことを言うけど、僕はここみたいな星空はなかなか見られないんじゃないかと思っている。
毎年夏休みになると、僕と妹はお母さんのお母さん、つまりは母方のおばあちゃんに連れられてここにくる。おばあちゃんはここの土地の出身で、今住んでいる家には僕たちのお母さんが生まれる前に引っ越してきたらしい。
僕はここにくるのを毎年それなりに楽しみにしている。周りには山しかないけど、遊ぶのに十分な川や広場がある。探検に行くのもいい。それに、なんといっても星空が綺麗だ。
「いらっしゃい、疲れたでしょう。」
玄関でおばあちゃんのお友達の田中さんが出迎えてくれた。毎年ここにお世話になっている。
「今年もよろしくね。毎年ありがとう。これ、お土産。」
おばあちゃんはそう言って四角い箱に入ったお菓子を手渡した。ありがとう、お茶でも入れるわと田中さんが台所に下がる。
「荷物はいつものお部屋に置いといてねー。」
田中さんの声だけが届いてきた。
毎年のことなので、もう慣れたものだ。貸してもらう部屋に荷物を置いた後、みんなで今に戻る。畑から戻ってきた旦那さんも縁側でうちわ片手に涼んでいるところだった。
「おお、よく来たな。」
僕らに気付いてこちらを振り返り笑顔でそう言った。日差しの強いこの時期に畑作業をしているせいで、肌が真っ黒になっている。うちわを持つ手もごつごつとしている上に、体にも余計な肉なんてついていないので初めて会った時には少し身構えてしまった。もちろん今ではすっかり慣れて、よく面倒を見てもらっている。
「坊主、何歳になった?」
「今年で15歳だよ」
「もう15か。大きくなったなあ。」
そう言って笑った。
「来年には高校生かあ。勉強は大変か?」
「大変だけど、順調。」
「おっちゃんは高校に入ってないからよくわからんけど、まあ頑張れよ。」
そういっておじさんはおばあちゃんといろいろ話し出した。こうなると長くなるのはもうわかっているし、無理に話に入らなくてもいいというのは最初の年に言われている。
僕はいつもの川に行くことにした。
「川に行ってくる。」
おお、気をつけてなと言っておじさんが片手を上げたのを見ながら僕は立ち上がった。
じりじりと肌を焼く日差しを感じながら僕は土の道の上をサンダルで歩く。水着なんてものは持たない。替えの下着とTシャツとズボンをビニール袋にまとめていれ、首からタオルをかければあとはなにもいらない。
3分くらいして川についた。きらきらと太陽の光を反射してまぶしい。少し離れたところに袋とタオルを置いて、来てきた服を下着以外脱ぎ捨てる。
川のほとりにしゃがんで手を水につけた。さらさらと流れる水が指の間を抜けていく。皮膚に伝わる温度も気持ちいい。
立ち上がって軽く体を動かした後、僕は水に入った。
川底にある丸い石の上に足をのせる。すこしだけぬるぬるとしているけど、足を滑らせるほどじゃない。川の真ん中のほうに歩いていく。だんだんと深くなって、腰の上まで水が来た。ゴーグルは付けず、水に潜り込む。離れたところにゆらゆら泳ぐ魚が見えた。
捕まえられないことはわかっているので無理に取ろうとはせずに川辺に戻り、手近の丁度いい石に腰掛けた。
冷たい水を足首に感じながら目を閉じる。時間的には一日で一番暑い頃にもかかわらず、体から汗が出ることはない。この辺りはやっぱり涼しい。
時々吹く風が耳をかすめる。周りの木の葉がゆれてざわめいた。
どれくらいそうしていただろうか、不意にクラクションが背中にぶつかった。
「おおい、こっちにこい。」
少しくすんだ軽トラの運転席の窓から顔を出したおじさんが僕を呼んでいる。
足を川から出して急いで持ってきたタオルで体を拭いて服を着た。濡れたままの足でサンダルを履き、髪から滴る水もそのままにおじさんの所に向かう。
「何かあった?」
「ついさっき知り合いから電話がかかってきて、捕まえた鹿の肉を分けてくれることになってな、今からそいつのとこに行く所で坊主を見かけたから声をかけたんだ。これもいい機会だし、ついてこい。」
頷いて助手席に回り乗りこんだ。
おじさんの知り合いの笹田さんの家は1分くらいのところにあった。おじさんの後ろについて母屋の横を抜けて、ガレージの隣に建つ作業場のようなとこに入る。
「おーいさっちゃん、来たぞー」
おじさんが声をかけるとすぐに黒いエプロンをした笹田さんが奥の扉から出てきた。
「おおたっちゃん、早かったな。そっちは?」
「こいつか?こいつは女房の友達の孫で、今日から明後日まで家に泊まっててな、今日は丁度いい機会だから連れてきた。大丈夫か?」
「おう、問題ない。それなら二人とも着替えてきてくれ。」
右手にある部屋におじさんと入り、そこのロッカーからそれぞれ黒エプロンとゴム手袋を取って身につけた。
「じゃあ付いてきて。」
笹田さんについて奥の部屋に入ると、真ん中にある台の上に横たわる鹿が目に飛び込んできた。
「さっちゃん、どこで捕まえた?」
「裏の山を回ってたらたまたま見つけた。」
「死んでいるのか?」
「いや、眠らせてあるだけだ。」
見れば確かに鹿のお腹の辺りがゆっくりと上がり下がりしている。かすかに寝息のようなものも聞こえている。
「いまからこの鹿をシメるけど、いいかい?」
笹田さんが僕の方を見てそう聞いてきた。一瞬どうすればいいか分からず、頷くことしかできなかった。
「坊主、初めてか?」
おじさんが鹿の方を見たまま言った。
「うん。」
少しかすれた声でそう返事をする。
「なら、よく見ておいたほうがいい。普段店で並んでいる肉も最初はこんな風に生きている動物だった。今から笹田がするみたいに殺されて加工されて、それからよく見られるパックに詰められた肉になる。坊主ももうそんなことは知ってるだろう。ただ、知っているのと実際に経験するのは違うんだ。これからの作業は、はっきり言って見ていて気分がいいものじゃない。それでも坊主には見てほしい。目を逸らさずに見ていてほしい。」
おじさんが言い終わるのを待って、笹田さんが持っているナイフを鹿の首にあてがった。鹿のお腹はまだ上下し続け、その寝息は耳に届き続いている。眠りながら、何も知らずにこの鹿は一生を終えるのだろうか。それともその命の終わりの瞬間は目を覚ますだろうか。もしもそうなら目の前に横たわる鹿は、一体何を思うのか…。
直前、笹田さんのナイフを持つ手に力が入った。切っ先が鈍い輝きを放つ。
昼前、僕はいつもの川にいた。
一昨日、おじさんに呼ばれた時と同じ石に座りながら目の前の山を眺めていた。
今日も朝から日射しが強かった。このままいけば帰る頃にはかなりの気温になるだろう。
二時間後には僕は帰りの電車の中にいる。人のほとんど乗っていない電車の窓には山々が流れ、僕はそれを眺めている。焦点が合うこともなく過ぎ去る山のひとつひとつには、次のあの鹿がいるのかもしれない、そんなことを思いながら…。
ふいに強い風が吹いた。木々の葉がすれる音が聞こえる。
そのざわめきの中、あの鹿の鳴き声が僕をかすめて過ぎていったような、そんな気がした。
そんな、夏だった。