第一話「まったく、手間のかかる」
ここから、本編スタートです。
あばらの浮いた胸が微かに上下する。
悪魔と「契約」したことにより少女は一命を取り留めた。
しかし、それだけである。
このままころっと死んでしまう可能性は十分にある。
その場合、悪魔はまだ具体的に「契約」していないため、少女は天地の理にのっとって天に召される。
森の奥にひっそりと住まうこの悪魔は、屋敷に入れた少女に一つの部屋を宛がった。
元々この屋敷を所有していた人間が、来客用に使用していた部屋である。
浴室とバルコニーの他に、使用人を呼ぶためのベルがこの部屋にだけついている。
特別待遇者用の部屋だったと思われるが、今の使用者がこんな娘であると知ったら、元所有者はどんな顔をするだろうか。
雨の中、この少女を拾ってからすでに三日経つ。
悪魔はいっこうに目を覚まさぬ少女を、しかし無理に起こそうとは考えなかった。
人間の回復とは悪魔のそれに比べ、ナメクジが地を這うが如く遅い。
自分の力をもってすればナメクジをヒョウに変えるなど容易いこと……とは、決して言えない。
悪魔の力はそれほどに衰えていたのだ。
こんなにもちっぽけな、人間の、やせ細り骨と皮ばかりになった少女を、眠りから覚ましてやることさえも難しいほどに。
かつての自分ならと嘆くことは、情けないのでやめた。
どのようにして悪魔は力を失ったのか――――
その経緯については目を覚ました少女が尋ねることがあれば、その時話せばいいことである。
「さて、と」
ひょろりとした背高の体躯にはいささか不釣合いな低音と共に、悪魔は息を吐いた。
薄く開いた唇から、炎がめらりと揺らめくことはない。
むしろ、今そうなってしまっては少女を寝かせたシーツに燃え移り、手に負えないことになる。
それを消すのもまた悪魔の人力(?)であるから、少女の身の危険というよりも、後始末が面倒くさいというのが本音である。
情けないことだ、と嘆くのは、やはりやめた。
悪魔として生きるには不自由すぎる体になってから、人間が魔法や魔術と呼ぶ術によって物事を扱うことは極端に減った。
せいぜい雨降る庭を一滴の水に濡れることなく散策したり、本やカップなどを浮かせて移動させる程度しかできない。
それも、長く使うと体力をこれでもかと持っていかれる。
そのため、悪魔は少女の体力を回復させ衛生状態を保つため、手ずから動くことにしたのである。
まず初めにバスタブに水を張った。湯あみのためである。
もちろん悪魔のためではなく、少女の体を洗うためである。
そういえば、風のうわさでは年端もいかぬ少女を恋愛対象にする輩が存在すると聞く。
曰く、「少女趣味」というらしい。
時に、少女を熱のこもった視線で舐めるように凝視し、己の欲望のために脳内であれこれ変換して遊戯に扱うらしい。
ゆきすぎた者は見初めた相手を誘拐し、二人だけの密閉空間でなにやら遊戯に明け暮れる習性をもつという。
腕の中にすっぽりと収まる少女を見下ろしてそんなことを思い出しながら、悪魔は首を傾げた。
少女の粗末な服から胸元や太ももが露出している。
くてりと折れた頭は悪魔の胸に完全に預けられており、頬はこけているものの穏やかな表情を浮かべている。
力加減を間違えれば折れてしまいそうなほどに細い手足は、歩くたびにぷらぷらと揺れる。
「…………」
残念ながら、人間の趣向は理解の範疇を超えていた。
同時に、少女の了解なしに自宅の一室に置き、これから裸に剥いて風呂場に向かう自分は同類なのだろうかと、めまいを覚えた悪魔であった。
しかし、介抱と己の欲のために動くのでは全く違うのである。
そう言い聞かせて、悪魔は足早に風呂場へ向かった。
どうせ捨てるのだからと、脱衣所で少女の服を破って脱がせ、かわりにバスタオルで包んだ。
脚癖の悪いことで、悪魔は足指で靴下を脱ぎ棄て、ズボンを膝まで巻き上げてしまった。
どうせ濡れるのなら全部脱いでしまってもよかったのだが、「少女趣味」を思い出してしまった手前、そうもいかない。
蛇口をひねって水を止めると、指を二度鳴らした。たちまちバスタブの水は沸騰し泡立つ湯となった。
先に入れておいたラベンダーや薬草の香りが湯気と共に沸き立ち、脱衣所まで白く染めた。
湯の量は少女が肩まで浸かっても溢れない程度、庭で積んできた草花は疲労回復に効くものばかり、バスタオルは上質な絹で織られているため肌を傷つけることはまずない。
(完ぺきだ)
自分の采配に満足した悪魔は、さっそく白湯気の立ち上る沸騰した湯の中に少女を入れようとし、
すんでのところでとどまった。
風呂場の熱気とは別に、嫌な汗が背中を伝った。
人の姿であるとはいえ、感覚はほぼ悪魔のままであるから、うっかり自分の感覚で「大丈夫だ」と判断してしまった。
ただの人間なら茹蛸のように真っ赤になっても特に気にしないのだが、この少女は別である。
悪魔は片膝をついて、そこに少女を横たえると、そっとバスタオルを剥いだ。
改めて見ると、やはり奴隷として扱われていたのだなと思う。
骨の浮いた身体は肉の柔らかい感触よりも角ばって硬いものばかりが目立つ。
髪は艶が失われ、しかし油っぽいのはろくに風呂にも入れてもらえなかったからだろう、濃い臭いがした。
肌には垢が浮き、爪はぼろぼろである。
長い間繋がれていた鎖の痕は紫色に変色し、無数の傷痕が重なり合っている。傷に効く薬草も入れておいて正解だった。
沸騰した湯を使うわけにはいかないので、一度桶に汲んだそれに水を加えた。薬草の汁は煮詰まるほど出ているから効能に問題はないはずだ。
悪魔は湯を、人間でいうところの適温まで冷ましてからバスタオルを浸し、ゆっくりと少女を拭いていった。
すると、それまで少女の肌色と思っていた薄茶色がどんどんと剥がれてゆく。
何度か繰り返していくと、次第に薄茶色の面積は減っていく。
こうなると悪魔も面白くなって、手つきはより丁寧になり、当初の予定の倍の時間をかけて作業に没頭した。
つま先から耳の裏側まで拭き終えると、湯はすっかり適温になっていた。
これならばと、半分以下に減った湯の中に少女を沈めた。溺れぬよう、頭の裏を支えることは忘れない。
ふう、と一息ついて見下ろす。
そこにいたのは、別人と見まごうほどに美しい白肌を持つ少女であった。小金色の薬草湯越しに、それは一層美しく見える。
痛々しい傷痕と痩せぎすなのが残念である。
湯になじませるようにして髪を梳いてやると、髪は艶を取り戻した。しかし、髪そのものが傷んでいたためか、くすんだ色はそのままであった。
しかし、一度の湯あみでこれほど変わるのかと、悪魔は感心してしまう。
湯冷めしないうちにとバスタブから引き上げて、新しいタオルで包みこみ、そこで着せる服がないことに気がついた。
どうせ捨てるつもりだからと破り捨てたはいいが、替えの服などもちろんない。
どうしたものかと思案した末、自分のシャツを着せておくことにした。
はじめは妙案だと思ったが、ワンピースとしてみても裾は引きずるし、袖は余りすぎて折る気にも慣れない。
かといっていつまでもバスタオル一枚というのはまずいので、服を買うまではと、とりあえず今回は目をつむることにした。
少女の着替えをなんとか終えた悪魔は、脱衣所にできた水たまりに顔をしかめた。
しかし、両手はふさがっている。
一度少女を下ろしてこれを拭くのは面倒くさい。
コンマ一秒の逡巡の後、悪魔はぱちん、と指を鳴らして、衣服が吸った水気と共に水たまりを蒸発させた。
このときどっと疲れが襲ってきたのはのぼせたからだと、悪魔は弁解のように呟いたが、少女はぴくりとも反応しなかった。
再び寝台に少女を横たえ、額にかかる髪を、長い爪をもつ指先で梳いてかき揚げた。薬草のよい香りがふわりと漂う。
まだ熱の残る肌はほのかに赤く、血色がよい。
痩せぎすとはいえようやく人間らしくなったと悪魔は思う。
「さて、次は食事か」
これまで水分だけは摂取できた少女だが、そろそろ食事らしいものを与えなくてはいけない。
脱水予防に口の長いポットで水を飲ませた悪魔は、腕まくりをして部屋を出た。
「……まったく、手間のかかる」
そう言う悪魔は、自分の頬が普段より緩んでいることに、全く気付いていないのであった。
悪魔の介護はまだまだ続く。